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合鍵  作者: 望美
本編
5/14

5

※テニスボールを故意にぶつける表現があります。不快に思う方はご注意ください。







朝になり、一限目からの授業に備えて身支度を整えた葵は、冷蔵庫に入っているものを思い出して憂鬱な気持ちになった。

昨夜食べきってしまおうと思っていたパウンドケーキは、まだ葵の手元に残っている。



誠への気持ちを諦める心づもりはしたものの、まだ自分から会いに行けるほど、葵の心が整ったわけではなかった。

しかし、昨日いろいろと食べ過ぎてしまった葵は一晩経った今でも胸焼けをおこしている。

衛生的になるべくはやく食べてしまった方がいいのはわかるが、葵はこれ以上胃になにもいれたくなかった。



(…やっぱり、お姉ちゃんに言われた通り、誠のところへ持っていくのが自然だよね。

……それに、誠はお姉ちゃんのお菓子を待ってるかもしれない。)



どうしたものか悩んでいた葵は、ハッとして、あの日以来机の引き出しに眠ったままになっている存在を思い出した。



朝に弱い誠は、この時間ならまだ寝ているはずだ。あれを使ってこっそり部屋に入って冷蔵庫にパウンドケーキを忍ばせれば、顔を合わせずに済むだろう。

妙案だと思った葵は、引き出しから取り出した合鍵を握りしめて、自分の部屋を後にした。




誠の部屋の前についた葵は、握りしめていた鍵をもう一度見つめた。

久しぶりに取り出したそれは、誠に渡されたときのままに、葵の手の中で場違いに輝いていた。



(本当は使うつもりなんてなかったけど、今回だけはしょうがないよね。)


そう心の中で自分を納得させて、ゆっくりとそれを鍵穴に差し込んだ。





そーっと扉をあけると、部屋の照明はおとされていて真っ暗だった。

1Kである葵の部屋と違い、角部屋の誠の部屋は1DKであるため、寝室とキッチンには距離があった。

奥からも人が活動しているような気配はないため、やはり誠は寝ているようだ。

葵ははやく用事を済ませてしまおうと、スマホの明かりを頼りに冷蔵庫を探した。


静かに開いた冷蔵庫には必要最低限の飲み物ぐらいしか入っておらず、パウンドケーキを入れる空間は十二分にあった。



(…ちゃんと食べてるのかな?)


昔から誠の中では食事の優先順位は低いようで、何かに集中したりすると食事をとること自体を忘れたりしていた。

両親がいくら呼び掛けても耳に入らなかったようで、その状態になると、なぜか毎度葵が召集され、誠の耳元で名前を呼ぶとやっと耳を傾けてくれるようになる、という流れができていたのだ。




(…でも、そういうのはこれからはお姉ちゃんの役目よね。)


また少し切なくなってきてしまった心に蓋をするように、葵は足早に玄関へと向かった。


(…朝から無駄に緊張したなー…)


誠と顔を合わせる事無く、パウンドケーキを冷蔵庫のなかに置いてくることに成功した葵は、ホッと息をついた。

ずっと握りしめていた合鍵を持ち直して、鍵穴に入れてゆっくり回した。



(これを使うことも、もうないだろう。)



もともと意味もわからず受け取った合鍵であったが、もうすぐ薫と付き合い始める誠にとってみたら、葵がこの合鍵を持っていても無意味でしかないだろう。

そう思った葵は、郵便受けにそっと鍵を落とし、大学へと向かっていった。






―――――






1日の講義を全て終えた葵と咲は、キャンパスの角に位置するテニスコートに向かって歩いていた。

今日は週に一度そこで活動をしているテニスサークルの活動日であり、葵たちはそれを見学する予定なのだ。


テニスコートが見える位置までくると、楽しそうな声とボールを打つ音が、葵たちのところにまで届いてきた。

そのサークルは大学内でも規模が大きいようで、所属している学生も多く、葵のなかでも有力候補のひとつであった。


「テニスは体育の授業とかでちょっとしかやったことないけど、気持ちよく打てるようになれば楽しそうだよね。」


「初心者も歓迎って書いてあったし、大学から始める人も結構いると思うよ。」



そんな会話をしながらテニスコートの前まで歩いてくると、何人かいた上級生らしき男子学生の一人が、こちらに気付いてコートのフェンスの扉を開けてくれた。


「もしかして、見学に来てくれた新入生?」


「あっ、はい!よろしくお願いします。」


「俺、立花 翔(たちばな しょう)っていって、このサークルの代表やってます。わからないことあったら、なんでも聞いてね!」


そういって人好きする爽やかな笑顔を見せた翔は、葵と咲に簡単にサークルの概要を説明してくれた。

今日は自由練習のようで、各コートで新入生を交えながらラリーをしたり、練習試合をしたりして、それぞれが思い思いにテニスを楽しんでいるようだった。



「高坂ちゃんは経験者なんだよね?もしよければ、少し打ってくことも出来るから、俺が相手しようか?」



高校の部活引退後からなかなかテニスをする時間を取れなかった葵にとって、それはとても魅力的なお誘いであった。

ちらりと咲の方を見ると、にこっと笑って頷いてくれた。


「せっかくだし、やってきなよ。私はあっちで見てるね。」


そう言って、咲は他にも見学していた新入生らしき学生たちの方に合流するため歩いて行った。


「…えっと、その靴じゃキツいよね?良ければ、うちの女子メンバーのスペア貸すけど。」


今日は見学だけのつもりだった葵は薄手のニットにスキニージーンズにパンプスという格好だった。服は少し運動するくらいなら問題なさそうだが、さすがにパンプスでは難しそうだ。


「すみませんが、お言葉に甘えてお願いします。」


笑顔で頷いた翔は、じゃあついてきてっと言いながら葵の腕をさりげなく掴むと再びテニスコートの外へと歩き出した。


(…なんかすごいフランクな人だな。)


腕をつかまれた葵は翔のフランクさに少し驚いたが、二人で歩いていると、先々で男女問わず話し掛けられている翔をみて、社交性のある人なんだと納得した。




目的地であるサークルの部室に着くと、何人かの学生が話をしていたようだった。葵は男女問わず仲の良さそうな雰囲気に、いいサークルそうだな、と好感を覚えた。

翔が事情を話すと、女子学生の一人がロッカーに入っていたスペアの靴とラケットを快く貸してくれた。


靴はその場で履き替え、借りたラケットと自分の靴を持った葵は、また翔と話をしながらテニスコートへと向かっていた。


「高坂ちゃん、すごいスタイルいいよね。彼氏が羨ましいな。」


「えっ!いやいやいや、そんなことないですよ。彼氏なんていませんし。」


お世辞だとはわかっていても、こんなに面と向かって褒められると葵はどうしていいかわからず曖昧に微笑んだ。


「えー、そうなんだ!こんなに可愛いのにもったいないな。うちのサークルきっかけで付き合い始めてる奴らとか多いから、出会いも期待できるよ。ちなみに俺とかオススメ。」


そういって、イタズラっぽい笑顔を見せた翔に、今度は確実に冗談だなと思った葵は、ついクスッと笑いをこぼした。


その後も、話し上手な翔からサークルであった面白い話などを聞いているうちに、テニスコートが見えてきた。

あと少しで着くというとき、葵は遠くから見知った人影が歩いてくることに気が付いてしまった。




(…やばい、誠だ!)



もしも気付かれたら、今朝のことや薫のことを聞かれる可能性があると思った葵は、翔をそこに残したまま、駆け足でテニスコートへと入って行った。




(…よし、たぶんバレてないな。)


まだ遠くにいるままの誠を確認した葵は、ホッと息をついた。




「高坂ちゃん、急にどうしたの!?」


「あっ、すみません、なんか、早くテニスしたくなっちゃって。」


慌てて追いかけてきた翔に不自然な返答をした葵は、ごまかすようにストレッチを始めた。





―――――






何度かラリーをした葵と翔は、少し休憩するためにテニスコートから隅のフェンス近くに歩いてきた。周りでも、他の学生がラリーをしていて、気持ちのいい球音が響いていた。




「高坂ちゃん、上手だね。綺麗に返してくれるからすごいやりやすかった。」


「いやいや、立花先輩が打ちやすいようにコントロールしてくれたからですよ。」



中学高校とテニスをしていた葵には、少しラリーをしただけで、立花が実力者であることがわかった。典型的な美しいフォームで打たれるボールは、必ず葵の打ちやすい場所に落ちてきた。



(…きっとブランクのある私に合わせてラリーしてくれたんだろうな。)


そう思った葵は、かつての自分のフォームを思い出すかのように素振りをしてみせた。


「久しぶりだったので、フォームもすっかり崩れちゃってて…」


「ああ、確かにこうすればもっと良くなりそう。…ちょっとごめんね。」


そう言った翔は、すっと葵のすぐ後ろに立ち、腕を触りながら位置を調節し始めた。




(…えっ、なんかすごい近くない?!)


葵は、突然距離を詰めてきた翔に驚いて固まってしまった。


(いや、でも、フォーム正してもらってるだけだし、意識しすぎなだけかもしれない…)


そう思った葵は何も言えず、翔のされるがままになっていた。



「腰はもっと、」




(…えっ、まだ続くの!?)



そう言いながら葵の腰あたりに翔の手が滑りおちてきたとき、ダンっとものすごい音がして、突然その手の感触が消えた。



(えっ、なに?何が起こったの??)


何が起こったかわからなかった葵は、近くに転がり落ちていたボールと、足を抱えてうずくまる翔をみて、テニスボールが翔の足に当たったことを理解した。








「すいません、久しぶりでコントロール出来なくて。」


まったく申し訳ないと思っていないであろう声のトーンで淡々とそう言いながら、こちらに歩いてきたのは、さっき葵が撒いたはずだった誠だった。






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