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ブブッと机に置いてあったスマホが震えて、葵は通知を確認した。
届いたメッセージは薫からのもので、もうすぐ改札を出るというものだった。
葵は残りわずかになっていたカフェラテを飲み干し、ささっと机を片付けてかばんに押し込み店を出た。
帰宅する人たちの波をすり抜けて駅の改札へと向かっていた葵は、白いブラウスにネイビーのフレアスカートを靡かせた女性を見つけて手を振った。
(相変わらず、お姉ちゃんは綺麗だなぁ…)
たくさんの人のなかでも一際目を引く姉を見て、改めて葵は自分との差を感じてしまい、また沈んでしまいそうな気持ちをなんとか立て直した。
「久しぶり、葵。元気にしてた?」
「うん、お姉ちゃんも元気そうだね。」
「急に来ちゃってごめんね。どうしても、葵に感想聞きたくって!」
「今日はバイトもなかったし、ちょうど良かったよ。」
他愛ない会話をしながら、二人は葵のアパートへと歩き出した。
――――――
葵のアパートの前についた薫は、きょろきょろと辺りを見回していた。不思議に思った葵は、鍵を回す手を止めた。
「なにか、気になることでもあった?」
「…あっいや、えーと…誠も同じ階の部屋なのよね?」
今日初めて姉の口から誠の名前を聞いた葵はどきりとした。しかし、なんとか平静を装って静かに頷き、あそこ、と端の角部屋の方を指差した。
「そういえば、今日は深夜までバイトがあるって伝えといてって言われたよ。」
昼間の誠の発言から、葵の知らないところで二人は連絡をとり合っていることがわかってしまった。
もしかしたら、二人の関係はすでにただの幼馴染ではないのかもしれない。
そんな考えが葵の頭をよぎった。
「せっかくお菓子分けてあげようと思ってたのに。ていうか、あいつ相変わらず返信かえってこないのよね。」
薫はそう言いながら、誠の部屋の方向をじっと見つめていた。
これ以上、誠の話をしたくなかった葵は急いで部屋の鍵を開けた。
部屋に入った二人は会社や大学の近況報告をしながら、薫が持ってきてくれたデリバリーのおかずをつまんでいた。
「…で、これなんだけど。」
そういって薫はおもむろに白い箱を取り出した。
開けてみると、きれいに焼かれたパウンドケーキが顔を出した。
「今度、会社で新商品のプレゼンがあるんだけど、どうしても葵の意見がほしくて。食べてみてくれる?」
昔から薫はお菓子作りで行き詰まると、葵にアドバイスを求めることが多かった。甘いものが大好きな葵には役得であり、今まで薫のお菓子を食べ続けてきた葵のアドバイスは的を得ていて、お互いの理にかなっていた。
パウンドケーキはシンプルなメープル風味のしっとりとした食感で、葵の口いっぱいにふんわりと甘さが広がった。
「しっとりしてて、すごい美味しいよ。……でも、なんかお姉ちゃんのお菓子っぽくない、かな…。」
そう言われた薫は、やっぱりね、と言いながらため息をついた。
「……なんでかわかんないんだけど、最近いつもみたいに作れなくなってるの…」
そう言ってまた、はぁーっと深いため息をついた薫を横目に、葵はいつかのことを思い出した。
前にも、薫の作るお菓子がいつもと違うように感じたことがあったのだ。
(…そのときの原因といえば……)
「…お姉ちゃん、なんか悩んでることあるんじゃないの?」
「えっ…!?どうしてわかったのよ!?」
びくっと体をはねさせた薫は、間髪いれず顔を真っ赤にさせた。
人の機微にはすぐに気が付く薫は、自分のことになると鈍感なところがあり、そんなところが可愛らしいところだった。
前にも思い詰めた顔をしながら作っていたお菓子は、ぶつぶつ言いながらいつもよりも強い力で泡立てられていたり、ぼんやりして長く焼きすぎたりしていた。
(…もしかしたら、誠のことで悩んでいるのかもしれない。)
そう思った葵は、もういい加減に覚悟を決めようと思った。
誠の口から聞くよりは、薫から二人の関係を聞いてしまったほうがまだうまく笑える気がした。
何より、小さなことで二人の関係を探っては、心が揺さぶられることにもう耐えられなかった。
「…私で良かったら、話…聞くよ。」
少し声が震えてしまったが、動揺していた薫はそのことには気が付かず、葵は内心ホッとした。
「うーんとね、なんていうか…ちょっと保留にして待っててもらってることがあって…結構時間が経っちゃってるから、もう意地になってるというか、素直になれないというか…」
そう言いづらそうに呟く薫は、どこからみても恋する女の表情をしていた。
(…そっか、お姉ちゃんも誠のこと好きなんだ。)
その事実に、また涙が溢れそうになってしまうのを感じた葵はサッと下を向いた。
覚悟を決めたつもりで、どこかで薫が誠を振ってくれればいいのに、と期待していた自分に愕然とした。
(どれだけ往生際が悪いんだ…いい加減諦めろ)
そう自分に言い聞かせて、葵は必死に涙をこらえて顔を上げた。
あのとき、普段は無表情な誠があんなに甘いセリフを口にしていた。
それほどまでに、薫への恋心は大きいのだろう。
誠もきっと待たされるのは、辛い。
それに二人の幸せそうな姿を見れば、この諦めの悪い心も消え去るかもしれない。
そう思った葵は、今度は震えないように気をつけながら、意識的に口角を上げてゆっくり口を開いた。
「きっと、相手の人はずっと待ってるよ。早く答えを伝えた方がいいと思う。」
「…そうね、いつまでも逃げてちゃダメね。こんなことで、お菓子作りに影響でちゃうなんてバカらしいわよね。」
いつになく真剣な表情の葵に圧倒された薫は、まるで自分に言い聞かせるようにそう言って頷いた。
「ありがとうね、葵。………で、葵もなんか悩みごととかないの?その、なんか言い寄られて困ってる、みたいな…」
「………へ?」
初めは気持ちがバレてしまったのかと焦った葵だったが、続く言葉がまったく的外れだったことに呆気にとられてしまった。
「ないない。お姉ちゃんと違って、私モテないから安心して。」
「また、そんなこと言って!葵は可愛いのよ、もっと自分のこと客観的に見なさい!」
先程の様子とうってかわり、急にすごい剣幕で怒り出した姉に、葵は圧倒されて言葉を失ってしまったが、まだ薫の小言は続いていた。
「もしも強引に迫られても、嫌だったら殴ってもいいから、とにかく全力で逃げるのよ!いい?絶対よ!?」
謎の念押しをされて、仕方なく葵は頷いた。
これだけ言ってもまだ納得していない様子の妹を見て、薫はまたため息をつきたくなってしまった。
葵の容姿に関する自己評価の低さが、薫は昔から気になっていた。
あれだけ甘いものを食べているにも関わらず太らない身体は、すらっとしていてスタイルがいい。
綺麗なアーモンド型の目や伸ばしたままなのに綺麗なストレートの黒髪も、男性にとって十分魅力的なものだろう。
しかし、いつも薫と比べてしまい、自分の良さを認めようとはしなかった。
「警戒しても、しすぎることなんてないんだからね。くれぐれも男に隙を見せないように!
…特に、何考えてるのかわかんないやつほど危ないからね!」
誰か特定の人物を想定しているかのような薫の言い方を疑問に思ったが、葵はそれよりも今の姉をなだめるためにはきちんと返事をした方が良いと判断し、わかりました、とはっきり返事をした。
葵の返事を聞いて、やっと落ち着いた薫は、寮の門限の時間が近づいていることに気付き、慌てて荷物をまとめ始めた。
「…これ、残ったら誠にも渡しておいて。」
そう言って、パウンドケーキだけを残して、薫は嵐のように過ぎ去って行った。
葵は誠のことを考えながら作られたであろうパウンドケーキを見つめながら、二人が恋人同士になる未来に想いを馳せた。
(初めは辛いだろうけど、きっと時間が解決してくれる…)
葵はそう自分に言い聞かせながら、残されたパウンドケーキに口をつけた。