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今更ですが、葵の姉の名前を薫に変更させていただきました。
わかりづらくて申し訳ありませんが、ご了承願います。
午後の講義をすべて終えた葵と咲は、大学前にある駅方面に向かって歩いていた。
あのあと、沈んでしまった空気を変えるために咲はアルバイト先にたびたび現れる珍客の話をおもしろおかしく話してくれた。
思わずぷっと吹き出してしまうようなエピソードのおかげで、葵は午後の講義が始まる頃には、沈んでしまった気持ちを切り替えることができていた。
「じゃあ、私はこのままバイト行くね。葵ちゃんは、カフェで課題やるんだっけ?」
「うん、じゃあまた明日ね。…今日はいろいろありがとうね。」
葵の言葉に、咲は微笑みながら優しく頷いて、駅へ向かう人混みにのまれていった。
薫との待ち合わせの時間までまだ一時間半ほどあったため、葵は駅前のカフェで午後の講義で出た課題をやろうと思っていた。
よくあるガラス張りのコーヒーチェーンに入って、注文したカフェラテを片手に窓際のカウンター席に座った。
課題を開いてみたもののあまり手につかないまま、窓の外を歩く人達をぼんやりと見つめながら手に持ったカフェラテだけが減っていった。
ひとりになってしまうと、どうしても昼間の出来事が思い出されてしまう。
(今からお姉ちゃんに会うっていうのに、こんなんじゃだめだ。…ただでさえ、あの日以来なのに。)
葵は思っていることが顔にすぐ出てしまうため、しっかり気を張っていなければするどい薫には何かあったことがすぐにばれてしまう。
(…お姉ちゃんに気付かれるわけにはいかないんだから、気を張らなきゃ。)
葵は、最後に薫に会った日のことを思い出していた。
―――――
卒業式が終わり、高校生活の終わりを惜しみながらも新生活の準備を着々とすすめていた三月下旬のことだった。
葵と誠の引越し日も決まったことから、両親たちの発案で両家合同で壮行会を行おうということになった。
ただ何か名前をつけて大人たちが飲みたいだけであることはわかっていたが、物心ついたころから住んでいる実家を出ることには感慨深いものがあったため、葵もその意見に賛成した。
誠の引越し日の方が早かったため、誠の引越し前夜に行うことが決まり、最終片付けでバタバタするであろう佐伯家ではなく、高坂家が場所を提供することになった。
夕方になる頃には、母親たちにより作られた葵と誠の大好物が所狭しと並べられていた。
その日は、薫も社員寮から実家に帰ってきていて、お祝いのために作っていたケーキのデコレーション作業に入っていた。
ちなみに、薫も四月から就職するにあたって先日会社の寮に引越しをしているが、専門学校に通う際にすでに実家を出ているため、今回の壮行会ではもてなす側らしい。
「お姉ちゃんのケーキ食べれるの久しぶりだなぁ。すごい楽しみー!」
「葵のために、腕によりをかけたんだから楽しみにしといて。」
薫は、束ねた長い髪を揺らしながらとびきりの笑顔で応えた。
葵はこの二つ年上の姉が昔から大好きだった。大きな猫目に長いまつげ、すらっとした体型は、どこから見ても美人の部類に入る。加えて、特技はお菓子作りで理想の女性そのものだ。
容姿ももちろんだが、それよりも葵は一度決めたら曲げない意思の強さにも憧れていた。
葵は昔から、欲しいものを自分から欲しいと言えない性格だった。
いつも誰かに遠慮してしまって、自分の手元には残らない。
最後には、そこまで欲しいものではなかった気がしてしまうのだ。
いつしか何かに執着することがなくなってしまった。
だからこそ、両親の反対を押し切って専門学校へ行き、小さな頃からのお菓子作りに関する仕事につきたいという夢を叶えた薫を尊敬しているし、羨ましいと思っていた。
葵が料理をテーブルに運んでいると、玄関のドアがガチャっと開いた。
「やっと、終わったよー。さぁ飲むぞー。」
そう言いながら入ってきたのは、先程まで隣の佐伯家で片付けを手伝っていた葵の父親だ。それに続いて、同意するように頷いている誠の父親、少し疲れた様子が伺える誠が高坂家に入ってきた。
やっとメンバーか揃ったところで、壮行会がスタートした。
―――――
夜も更けてきた頃には、豪華な料理と昔話を肴にお酒を飲んでいた大人たちは、すっかり出来上がってしまっていた。
葵の父親は真っ赤な顔で泣きながら酒を煽っているし、その隣で何故か誠の父親が頭を下げている。
その光景を見ている母親たちは「やっとね」と言いながら微笑んでいる。
「いよいよあの子たちも」とか「まだ早い」とか呟いている両親たちは、一体なんの話をしているのか、葵には皆目検討もつかなかった。
そんなことには構っている余裕はないと、葵は久しぶりに会えた薫と積もる話に花を咲かせていた。
向かいに座っている誠は相変わらずの無表情で、ずっと料理や薫の作ったケーキを食べていた。
「誠。せっかくお姉ちゃんが作ってくれたんだから、もっと美味しそうに食べてよ。」
「美味しそうに食べてるつもりだけど。」
「もぉー、そんなんだと大学で友達できないよ。」
「誠なんてどうせ何言ったって変わらないんだから、ほうっておけばいいのよ。」
薫は誠に冷たく言い放ったあと、ふふっと綺麗な口に弧を描いて笑った。
「なんかこうしてると、昔に戻ったみたいね。」
葵も薫とまったく同じことを思っていた。
「きっと、私たちはこれからもずっとこんな感じだよ、ね、誠。」
そういって誠に同意を求めた葵だったが、誠は無表情のまま何も答えず、ただただ、もくもくと食べ続けていただけだった。
葵の父親が酔い潰れてしまったことで、会はお開きとなり、母親たちは片付けを始めていた。
主役は手伝わなくていいと言われてしまった葵は手持ち無沙汰になり、ソファーに腰をかけた。
大好物のカニクリームコロッケと薫のケーキをたらふく食べた葵は、なんだか眠たくなってきてしまい、お風呂に入る前に少しだけと思って目を閉じた。
ふっと目を開けると時計は十一時をまわっていて、リビングには誰もいなくなっていた。
先程まで賑やかだったのが嘘のように、テーブルもすっかり綺麗に片付けられていた。
誠たちも自分の家に帰ってしまったのかなと思った葵は、大きく伸びをしてソファーから立ち上がった。
脱衣所の方からドライヤーの音が聞こえてきたので、だれかお風呂から出たところなのだろう。
葵もさっさとお風呂を済ませて自分のベッドでゆっくり休もうと思い、着替えをとりにいこうと階段を登ろうとしたところで、二階から誰かの話し声が聞こえてきた。
「…なら……よね?」
最初の方は上手く聞き取れなかったが、薫の声のようだ。
(お姉ちゃん、こんな時間に誰と話してるんだろう。もしかして電話かな?)
なんだか真剣な声色だったため、盗み聞きしたら悪い気がして、もう少し待とうとリビングに戻ろうとしたところで、もう一人の声が聞こえてしまった。
「本気で好きだよ。諦めるつもりなんてないから。」
その声は葵がよく知るものであるはずなのに、まったく知らない甘い響きをそなえていた。
そのため、葵は声の主が誠であることを理解するまでに数秒かかってしまった。
(………えっ、誠が、いま、お姉ちゃんに好きって…いった…?)
葵は目の前の現実に頭がついて行かず、混乱の渦から抜け出すことが出来なかった。
そうしている間にも、二人のやりとりが聞こえてきてしまう。
「…わかったわ。でも、お願いだから少し待ってほしい。だって…」
薫が続きを話そうとしていたそのとき、ドライヤーの音が止み、ガラリと脱衣所の引き戸が開く音が響いた。葵の母親のものであろう足音は、そのまま隣の寝室へと消えていった。
その音は二階にも聞こえたようで、二人の会話はそこで途切れたようだった。
「…とにかく、もう少し待ってよ。」
最後に薫がそう言い残したあと、バタンと二階からドアの閉まる音が聞こえた。
その場で立ち尽くしていた葵は、ひとつの足音が二階から聞こえてくることに気付いた。
薫は自分の部屋へと戻ったようだったから、きっと誠の足音であろう。いま鉢合わせてしまったら盗み聞きしていたことがばれてしまう、と思った葵は急いで戸の開いた脱衣所へと駆け込んだ。
そこからの記憶は曖昧で、気持ちが落ち着く頃には、葵は自分の部屋のベッドに横たわっていた。
(誠は、ずっとお姉ちゃんのことが好きだったんだ…)
落ち着いた頭で改めてその事実を思い起こした葵は、どんっと崖から突き落とされたような感覚になった。
会話の様子から、薫も誠の気持ちには前から気が付いていたように感じた。
なにも知らない自分だけが、能天気に三人の関係は変わらないものだと勝手に思い込んでいたのだ。
葵は、ずっと近くにいた幼馴染の恋心とその身近すぎる相手に気づかなかった自分の鈍感さに嫌気がさした。
――― 本気で好きだよ。諦めるつもりなんてないから。
自分に向けられたものではない甘い声を思い出した途端に、葵は目から涙が零れ落ちるのを感じた。
そして、幼馴染の三人の中で自分だけが知らない事実があったことからくる疎外感だけが、この零れ落ちた涙の原因ではないことに気がついてしまった。
(…私、ずっと誠のこと……)
心の奥底にずっと隠れていた恋心を見つけてしまったら、決壊したダムのように溢れ出てくる涙をとめることは出来なくなってしまった。
一晩中泣きはらした葵は、朝方にまどろみはじめた頭で、三人の関係を崩さないためにこの想いを消し去ってしまおうと心に決めたのだった。