~春~
――黎明の刻。
両腕に瑞々しい花束を抱えて、ぼくは中庭の縁側から、姫さまの屋敷に上がった。その一室はとてつもなく広い。奥まった空間は障子で区切られていて、選ばれた女房だけが出入りできる。
ぼくは半開きの障子の前で跪いて謁見の許しを請うた。許す、と御簾越しにうら若い女性が応じる。
「姫さま。本日の花をお持ちしました」
「近う寄れ」
音楽的で滑らかな声が呼ばわる。ぼくは深く頭を垂れたまま、膝だけ動かしてサササッと前へ進んだ。そして手に持った花束を、高く掲げた。
朝に一度、夜に一度。この屋敷の主たる姫宮に花を届ける――それがぼくの仕事だった。
姫さまの女房の一人が内から障子を開いてくれる。ほどなくして、手の中の重みが消えた。
「良い花じゃ」
「ありがたきしあわせ」
姫さまのお褒めの言葉に、ぼくは更に深く平伏した。きっと愛らしい顔を笑みの形に綻ばせてくださったのだと、想像しながら。
実際は、ぼくは自分がお仕えする姫さまの顔を見たことが無い。姫さまはいつだって御簾越しでしかお会いしてくださらないからだ。ぼくがこの両目に映すことを許されているのは、姫さまの透けるように白い手だけだった。
繊手は細い指を動かした。先端に向けて少し尖っているような長く艶やかな爪に、目を奪われる。
「そなた、最近新しく入った小僧じゃの。名をなんと申す」
「あわゆき。淡い雪と書いて淡雪でございます、姫さま」
ありのままに答えると、姫さまは声をあげてころころと笑った。白い手は一度引っ込むと、今度は扇子を持って再び現れた。
「女子みたいな名じゃな。同じ名の菓子があると聞いたことがあるぞ」
扇子が、ぴしりとぼくを指す。男児の身でありながらつまらない名だとおっしゃるのだろうか。ぼくを育ててくれた村長が付けた名なのだからどうしようもない。
「すみません」
「なに、謝ることではあるまい。己の名じゃ、誇るがよい。して、歳はいくつじゃ?」
「十三です」
孔雀模様の扇子が御簾の奥に戻る。姫さまがそれを広げて、口元に当てるのが影のゆらめきでわかった。かと思えば、姫さまは身を乗り出して、御簾に顔を近付けている。
「透き通るような銀色の髪。珍しいのう、美しいのう」
「お褒めにあずかり光栄です」
「ふふ。よう来た、淡雪。そなたの選ぶ花は香りも色合いも多種多様で、飽きが来ない。ここはもうそなたの家も同然じゃ、好きに羽を伸ばすのじゃぞ」
「ありがとうございます。姫さま」
ぼくは心底の感謝を込めて返答する。
村長の元から自立したくて奉公先を探していた矢先に、この屋敷でのおつとめを紹介された。待遇はいいが仕事内容が奇怪だからと、前任の者が辞退したばかりらしい。ぼくはこの機に飛びついた。
花はそれなりに好きだ。朝夕、花を選りすぐって姫宮にお届けするだけのこの仕事は、ぼくの性に合っていた。
* * *
翌週、姫さまはおつとめの時間外にぼくを呼び出した。昼餉と夕餉の中間くらいの時刻だった。
「淡雪なる菓子を取り寄せた。食べよ」
「ありがとうございます」
しゅるりと、御簾が上がる。床との間にできた隙間から、小皿が押し出された。雪のごとく白い塊が皿の上に並んでいる。
ぼくは一方的にそれを食べさせられたけれど、決して嫌な気はしなかった。そして何故か味の感想を求められた。あまり言葉を繰るのが得意ではないぼくは「甘いです」「舌先でとろけます」と安易な感想しか語れなかった。
緊張して、満足に味わえないまま急いで食べてしまう。両頬をパンパンに詰め込む。その様子を心配した女房がお茶を持ってきてくれる。ぼくは有難く飲み干した。
「そうだ、姫さま。先ほど咲いているのを見かけて、思わず一本手折ってしまいました」
比較的に言って得意分野、花の話題へと方向転換する。ぼくは着物の袖の中をまさぐった。
「なんじゃ?」
「八重桜です」
「桜は嫌いじゃ。早う持ち去れ!」
初めて、姫さまがお怒りになられた。少し上がっていた御簾の端が、騒々しく床に落とされる。
「すみません!」
打たれたように立ち上がり、走り去る。
視界が涙で滲んだ。手元の小枝を見下ろすと、見事な房がぼくを元気付けに見上げているようだった。
ぼくは姫さまのことを何も知らない。まさか桜がお嫌いだったなんて。
お近づきになりたい。考えるだけでおこがましいのだけれど、もっとよく知りたいと願うことだけならば、誰にも咎められないはずだ。
胸が穿たれたように痛んだ。夜こそは、ちゃんと喜んでいただける花を選ばなければ。