第三話
まるで時間が止まった様だった。
それが、巨塔付近の路地にて姿を現した一匹の褐色の大型犬によるものだと結論づけるのは容易だった。
テッドを襲った計六本の爪はすんでのところでピタリと止まり、それを辿った先の眼球のような胴体もビクともしない。
「た、助かった……のか?」
テッドはそのまま塔の壁に背中を剃らせながら腰を下ろしてへたり込む。
敵意はない、と言うように向けられていた爪は引っ込められ、鋼鉄のタコは散り散りになって去っていく。
それを見送ると褐色の犬もまたそれに続くように後ろを向く。
「ま、待ってくれ!」
テッドの呼びかけに一切応じることなく、尾を向けて犬は街の外側へ向かって駆け出していった。
——あっちに何かあるのか?
正直なところ嫌な予感しかしなかった。しかし、他にあてもないテッドに与えられている選択肢は多くはなかった。
腰を上げて、あの褐色の犬を追いかける。
もちろん人の脚力で追いつけるはずもなく、すぐに影も形もない見失ったが、目ではない——耳で向かう先にあるものの存在を知る。
テッドの鼓膜を振るわせている音、それは聞き慣れた闘争の音色だった。
軍対軍。数百対数百と推測される戦闘音がこの先、街の外壁から鳴り響いて来ていた。
「嫌な予感は的中するものだな……」
そうぼやいた矢先。前方からの飛来物。
さっと横に躱すとそれは赤紫色の体液をまるでバターを塗るように綴りながら、石畳で舗装された道の上を滑っていく。
見れば、人よりも一回り大きな体躯をしており、鱗も毛もないが、蝙蝠に似た翼を持ったトカゲのような生き物だった。
「こいつは……魔物!?」
やがて、魔物は体を持ち上げる。そしてその黄色の双眸にテッドを捉える。
飛膜の付いた腕は異様に長く、対して太くずっしりとした脚が体重のほぼを支えており、鉤爪が石畳の道を容易に抉っているのが見て取れた。
「ギシャアアアア!!」
魔物は前のめりになって威嚇。開いた口からは鋭い牙が肉を抉らんとばかりに覗き、粘性の高い唾液が飛び散る。
気が付けば、正面にはこのでかいトカゲがいて、背後は激しい戦闘音。
何かしらの意図が介入したわけではないのだろうが、逃げ場は無くなっていた。
——どうする? まともにぶつかりあっては勝てない、だが、これといった対抗策も見当たらない……。
テッドが思考を巡らせるが、そんなことはお構い無しと魔物は攻撃を仕掛ける。
それは単純な突進であった。
大口を開き飛び込むそれをテッドは身を屈め、足を滑らせる最小限の動きで回避。そして、数歩後退して再び腰を落とす。
——動きはそれほど機敏ではないし、多分飛行することはない。……が、
再度、魔物は突進する。
同じように最小限の動きでそれを回避し、テッドは魔物が通り過ぎる間際、その脇腹に右ストレートを食らわせる。
——! やっぱり、ダメか!
今度はバックステップで大きく後退し、殴った右手を見やる。
殴った拳は全身を覆っている鎧のような鱗により負傷。
一方で魔物への手応えはほとんどなく、このまま攻撃し続けようものなら彼の拳が先にダメになるだろう。
——どうする……このままじゃジリ貧だぞ。
唇を甘く噛み焦燥感に汗を流したその時、魔物はグラッと少しふらつく程度に体勢を崩した。
テッドはそれを見逃さない。
——そうか、さっきまでこいつはこの街を守ってるやつらとも戦っていたんだったか……なら!
テッドは強く地面を蹴り、急接近する。それに合わせて魔物は大口を開きカウンターを仕掛ける。
が、テッドは眼前のところで急停止、カウンターを容易く見切り上に飛んで躱す。そして、空中で回し蹴りを食らわせ右眼球を潰す。
滑らかな泥を踏んだような感触が足に残った。
「ギィアアアアア!!!!」
魔物は叫び、激昂する。
遮二無二になって、残った視界に捉えた人間を食らわんと何度も何度も何度も腕を伸ばし、首を伸ばし、牙を鳴らす。
そして、テッドは変わらず寸分の狂いもなく最小限の動きで躱していく。
その度に魔物からは赤紫色の血が噴き出し、足場を濡らす。
「よし、怒れ! こっからは体力勝負だ! フェアじゃないなんて言うなよ!」
魔物の右腕がテッドを襲うが紙一重で躱す。左腕が掴みかかるが身を屈めて躱す。鋭い牙が迫るが飛び退いて躱す。
一連の流れをどちらかが尽きるまで繰り返していく、それがテッドの作戦だった。
しかし、想定外がテッドを襲う。
魔物から噴き出した血が血溜まりとなり、それに一瞬足を滑らせた。
——しまっ……!
体勢が大きく崩れる。
必然的に回避は困難となり——魔物はそれを逃さなかった。
「あああああ!! ご……ふっ!」
右腕に張り倒され、地面に叩きつけられる。
魔物は逃すまいとしてテッドの腹に尋常ではない体重をかける。肺が潰されるため、自然と悲鳴となって息が漏れ出るが、腑も潰されているのだろうか、叫ぶより先に出たものは血塊だった。
魔物の右腕を両腕で掴み押し返す。が、魔物は更に力を加える。
そして、ゆっくりと大口を開き、唾液が牙を伝って顔に垂れる。
「ク……ソがぁ! そう簡単にはやられねぇ……!」
唾液で視界が塞がれ、目をグッと瞑りながらも抵抗を繰り返す。生暖かい息が頭頂部から背中にかけて流れていく。
瞬間、急に自身を潰しているそれが軽くなるのを感じる。
何があったのか分からず、何も見えず、テッドは混乱し、突如生暖かく鉄臭いベトベトした液体を被る。
「うわ! 鉄くさっ! 血!?」
必死に目元を拭って視界を確保する。
漸く開いた目で一先ず右手を見れば、赤紫色の液体がベットリと付着し、自分の格好に視界を移せばそれは上半身に満遍なく、なのが分かった。
崩れ落ちた魔物の影。そして、小さく細身の影が静かに残っていた。
「ご無事ですか?」
届いたのは、少女の声だった。