青春と苦虫
僕には今とても気になっている人がいる。
いつも図書室で本を読んでいる大人しくて優しい同じクラスの山岡さん。山岡さんは今日も今日とて放課後になると教室をそそくさと出ていき図書室へと向かっている。
僕が図書室に行くのは水曜日だけ。
水曜日は僕が委員会の仕事の日、本当は毎日でも通いたいのだけれど何だか気恥ずかしい。
今日は待ちに待った水曜日だ。友達への別れの挨拶もそこそこに生徒たちの話し声で賑やかな廊下を早足で歩く。
本独特の匂いが充満する静かな教室。辺りを見渡すと右側のはしっこの本棚をじっと見つめている山岡さんを見つけた。綺麗な細い糸の様な髪がさらりと揺れた。
僕と山岡さんに接点はあまりない。
接点と言えば同じクラスなことくらいだった。
しかし、僕には自分から話しかける勇気など持っていない。今日こそ話しかけるぞと意気込んでも彼女を見ると息が詰まってしまうのだ。何て情けない男なのだろうか、自分でも呆れてしまう。
「あの、桐谷くん、貸し出しカード出してくれませんか?」
少し小さめの高い声が聞こえた。声の方を向くとそこには山岡さんが立っていた。
その事に気づいた瞬間、僕の心臓は大きく飛び跳ねた。
「あ、うん、ちょっと待ってて……」
やっとのことで声を絞り出してそう答えた。
引き出しから山岡さんの貸し出しカードを取り出す、もう四枚以上もあるそれはどれだけ彼女が読書家なのか言わなくても分かるほどだった。
手渡すと山岡さんはにっこり笑って「ありがとう」と言った。
その一言だけでも僕の心臓は活発に動く。急いで司書室に戻りしゃがみこむ。僕の鼓動はまだまだ激しい。
「桐谷くん」
またも山岡さんの声がした。今日は何だかついている気がする。
「ん、何?」
「何か書くもの貸してくれない?」
「鉛筆でもいい?」
「うん、ありがとう」
山岡さんの字はとても端正で綺麗だった。習字でも習っていたのだろうか、一方の僕はお世辞にもあまり綺麗とはいえない。
「字、綺麗だね」
「え?」
「あ」
声に出してしまった。
山岡さんは穏やかに微笑んだ。
「本当?嬉しい」
「はは、それならよかった」
「ねえ、桐谷くんは本読むの好き?」
そんな質問を投げ掛けられて僕は少し迷った。僕はあまり読書が好きではない、読みたいと思う本があっても何故か読むのは躊躇ってしまうのだった。そのため僕はあまり本が好きではない。
けれども読書が好きな人にそんなことを言って失礼ではないのだろうかと思った。
考えた末に僕が出した答えは正直に答えることだった。
「……僕はあんまり本を読むのが好きじゃないかな。興味はあるんだけど躊躇っちゃうんだ」
「じゃあ、読みやすいの私が紹介しようか?」
「え?本当?」
「もちろん」
思ってもみなかった出来事に正直に話してよかったと思った。やはり嘘はいけないのだ。
「えっとね、この本なんてどうかな?ページ数も少な目だし、面白いと思うの」
生き生きとした表情で山岡さんが紹介した本は男子高校生が主人公の青春ストーリーだった。
「ありがとう、読んでみるよ」
「頑張ってね、読んだら感想聞かしてね」
「うん、頑張る」
少な目とは言えども読書初心者の僕からしたら結構なページ数である。けれどもせっかく僕のために探してくれた本だから読まなくては。
「ふふっ、本当に読書が苦手なんだね」
「ん?」
くすくすと山岡さんは笑っている。
「苦虫を噛み潰した様な顔してるよ」
「嘘だろ?」
「本当だよ」
さすが読書家、難しい言葉をいとも簡単に日常会話に使っている。
「読書家の人って、えっと、何て言うんだっけな。本の虫って言うんだよね」
「そうそう」
何気ない会話が二人だけの図書室に響く。チャイムが鳴って下校時刻を知らせる放送がかかる。
「もう帰らなくちゃね」
「そうだね」
「また明日も図書室に来れる?」
山岡さんがそう尋ねてきた。僕は勢いよく「もちろん!」と言った。
「じゃあ、桐谷くん、また明日」
「また明日、気を付けて帰ってね」
「うん、桐谷くんも」
手に持っていたその辺の本よりも比較的薄い本を持ってぼんやりと一人きりの図書室で立ちすくむ。
「また、明日、か」
山岡さんの言葉を思い出すだけで思わず頬が緩む。ああ、これは夢なんじゃないかって思わずにはいられない。
でも、確かに山岡さんが紹介してくれた本は僕の手にある。それが夢ではないことの証明だ。
「これ、読まなくちゃな……」
僕はまた苦虫を噛み潰した様な顔で本を見た。