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みーちゃんに春がやってきたので私にも春がやってきた。
嬉しくて嬉しくて、このままずっと続いていくと思っていた幸せを、嵐が襲ったのは突然だった。
「……なんで?」
問いかける声が掠れた。様々な情報が駆け巡って混乱する頭がガンガンする。反して私の体は際限なく冷えていく。頭と体の反応が一致しない。唐突な言葉に、私の体調を心配していたみーちゃんの手が止まる。
今口を開くのは危険だと、遠い場所から誰かが言った。だけど内側から迫上がる何かを飲み込むのに必死な私は耳を貸すことができなかった。気付かなかったふりも、誤魔化すことさえ私にはできないんだと頭のどこかで悟った。
―――どうしてこんなことになったのか。話は数時間前に遡る。
「じゃあ、駐車場から車回してくるからちょい待ってて」
「はーい」
大荷物を抱え、待機組である私達は各々返事をして夏目君に手を振った。調子に乗って、パパありがとうー!と声かけしたら、こんにゃろう、とばかり夏目君の拳が振りあげられた。おお怖い! 大袈裟に肩を震わせた私の後頭部を祐成の手がすかさずはたいた。即座にぶたれた個所をみーちゃんに向けると溜息と共に優しい感触が頭を覆ったので、私は思わずにんまりした。
今日は間近に迫ったバーベキューに備えて生鮮食品以外の物を買い出しにきた。思ったより嵩張ってしまいそうな荷物に悩んでいたら、夏目君が運転手を申し出てくれたので準備班全員で我が家のタイプ2に乗り込んだ。行先は近くの大型複合施設だけど四人で出掛けるのは初めてなので、なんだかちょっとした遠足気分だ。やいやい騒ぎながらメモを覗いて必要な物を確認し、ペットコーナーを覗いたり花を愛でたりと寄り途しながら、日持ちする食材やら道具やらを買い込んだ。些細なやりとりが凄く楽しくて、私はハイテンションのままにこにこ笑った。
ここ最近の私は浮かれ過ぎて地に足がついている気がしない。最初は周りも訝しんだり心配したりしていたけれど、へらへらと笑み崩れている私に害はないと気付いてからは、これが平常運転とばかりスルーされているみたいだ。
楽しいなー、と呟いたら、そうだね、と素直な相槌がみーちゃんから零れた。
視線を向けると、行きこそ少し緊張が覗いていた表情からすっかり力が抜けている。自然体のみーちゃんに、良かった、と私は再度相好を崩した。小首を傾げるみーちゃんの耳に内緒話の要領で囁きかける。
「今日のみーちゃん良い顔してる。……その、私色々、ちょっと急ぎすぎてたよね。みーちゃんと皆に早く仲良くなって欲しくて、変にけしかけたり、余計なお節介ばっかりして。ごめんね。これからはもっと上手にフォローできるようになるから、一緒に皆と仲良くなっていこうね」
勿論秋山君に限っては例外的にみーちゃん個人で頑張ってもらわなくちゃだけれども。
みーちゃんのお相手有力候補ができた今、他の住人とドキドキの生活を送ってほしいとはもう言わない。その代わり、みーちゃんにはいつか、この家をもう一つの家だと思えるくらい居心地のいい場所に感じて欲しい。私は、みーちゃんが誰と一緒にいても緊張する必要がないくらい気取らずいられる場所を作りたい。毎日を、皆で仲良く楽しく過ごしていきたい。
反省しつつ自分の気持ちを伝えると、ぱちぱちと大きな瞳を瞬かせたみーちゃんはゆっくりと表情を和らげた。ありがとう、とはにかむみーちゃんが酷く可愛くて、荷物を持ったまま華奢な体に抱きついた。わたわた慌てるみーちゃんを堪能する。
みーちゃんってば柔らかくて良い匂い……っ!
今日のみーちゃんのファッションはカジュアルガーリー。襟が円くて袖がパフスリーブになってるオフホワイトのシャツにボーダーのスカート、店の中が寒かった時のためカーキのシャツを羽織っている。足元のスニーカーといいそれほど力を入れたスタイルじゃないけど素朴な感じで可愛らしい。
ちなみに私は長めの白シャツとチェックの七分丈パンツ、肩からかけたターコイズブルーのカーディガンだけに色味があるというシンプルな格好。夏目君や祐成も、デニムとシャツを合わせただけのシンプルさだ。ただし彼らの場合シンプルなだけに個人の格好良さが際立って、みーちゃんの美少女ぶりとあわせて買い物中の視線が煩かった。一人だけ平凡ですみませんと思ってしまったのは内緒だ。
イチャつく私達を綺麗さっぱり視界から外していた祐成が、エレベーターが開いた事に気付いて目を向ける。二人の男の子が降りてくるのを確認し、壁に預けていた背を浮かせた。
「高泉?」
その声に、私が顔をあげるより前にみーちゃんが反応した。私の腕に伝わった不自然な震えを不思議に思って顔を向け直すと、頬が少し赤くなっているのに気付く。大きな目を丸くして見つめる先を目で辿った。
「た、高泉先輩!」
「あれ……佐野と、相原?」
「あ、相原じゃん。ここで何してんの?買い物?」
つかつかと遠慮ない足取りで寄ってきたのは二人組の背の高い方だ。女同士で抱き合っている私達に好奇心いっぱいの眼差しが注がれて私はみーちゃんから無言で手を離した。私の行動も人前ですることじゃないけど相手も結構不躾なタイプかも。彼らが天文部の仲間のメンバーなのか。知らない相手をなんとなく見返したところで、慌てたように追いかけてきたもう一人が待ったをかけた。
「待てって将人、今度お世話になる予定の相手だぞ、ちゃんと挨拶しろ!ごめん、これ弟の将人」
「ああ、似てるからわかった。俺はクラスメイトの佐野祐成。こっちが二年の相原果歩と従妹の美空……は同じ部だから知ってるか」
「みーちゃんがいつもお世話になってます。相原果歩です」
「え、あ、高泉将人、一年デス」
「こんにちは。高泉寛人です」
どうやら前回顔を見られなかった高泉兄とその弟だったらしい。
みーちゃんの友人に印象良くせねばと祐成の紹介を受けて折り目正しく頭を下げた私に、面食らった様子で高泉弟が名乗る。そして隣でよろしくと付け加えて頭を下げた兄に、もう一度頭を下げた。身長といい態度といい、てっきり兄と弟が逆だとばかり思っていた。私は内心の驚きを隠してこっそり二人を観察する。
どちらも私と変わらない十人並みの顔立ちで、並ぶと血縁関係があることがわかる程度には類似性がある。ただ己の飾り方については、兄の方は色々と無造作でこれといって特にこだわりがない様子であるのに対して、弟の方はそれなにりに気にしているようだ。Tシャツとデニムという何でもない格好の兄に、青シャツにベージュの七分丈チノパンの弟。性格も、兄の方は物腰柔らかなタイプだけど弟の方は物怖じしないタイプみたいだ。祐成と兄の話に首を突っ込みつつ、みーちゃんにも気軽に声をかけてくる弟を見て思う。というか弟、もしかしてみーちゃん狙いか?可愛いみーちゃんに好意を持つのは当たり前だけどやらんぞ?私は牽制しつつ二人の間に入った。
対して兄の方にはそうした素振りは見当たらない。そして割と丁寧というか、もっと正直に言えばちょっと鈍くさそうな印象がある。土曜の買い出しにきたのだと告げた祐成に頓珍漢な答えを返していた。的が外れたことに一瞬停止する祐成がちょっと面白い。
「秋山はいねえの?」
「秋山君は寝坊が趣味なのだよ」
当たり前だが、彼も同じ下宿先だと言うことは知ってるらしい。弟の疑問にみーちゃんが応える前に、知らないの?と私が言うと、虚を突かれた顔をした後弟君は噴出した。何がツボったのか知らないが腹を抱え出した彼を見下ろし、私はつい仁王立ちのポーズをとってやった。ふん、この程度で屈するとは口ほどにもない。
そんなおかしなやり取りをしつつも、私の意識はみーちゃんに向かっていた。傍から妙な反応があがることにどうしても違和感を拭えない。
何故か微かに上気した頬。何事か言いたげに開かれた口。ちらちらと送られる視線の先に―――高泉兄の姿がある。彼の隣には爽やかイケメンの祐成がいるけれど、この場面でみーちゃんが今更祐成を気にするとは思えない。だからこそ、みーちゃんがそわそわする気配に私の方が落ち着かない気持ちになる。
……なんだろう、なんか、嫌な予感がするような……?
最初は何か彼に言いたいことでもあるのかと思ったけれど、こっそり訊ねた私にみーちゃんは首を振って否定した。その癖ずっと兄を気にしている。彼の視線がこちらを向くと一瞬体が固まるような素振りが見える。
おまけに兄の視線がみーちゃんではなく私に向けられた時には少し切なげな気配が漂った。おそらく、兄が言いたかったのは例のサプライズのことだろう。私に向かって何事か言いかけ、みーちゃんに視線を止めて口を噤んだ。そんな彼と私の間をみーちゃんの視線が往復した。
暗雲立ち込める気配に危機感を煽られて、顔の筋肉がぎこちなくなってくる。
ちょうどその時クラクションの音がした。振り返ると運転席から手を挙げて合図する夏目君が見えた。思ったより車が混み合っていることに気付き、私達は慌てて手早く荷物を車に乗せた。じゃあ土曜はよろしく、と軽く挨拶をして車に乗り込んだ後、一旦乗りこんだみーちゃんが声をあげた。
「せ、先輩!」
振り返った彼に、また学校で! と言いながらみーちゃんが窓から顔を出した。
俺はー?と不服を述べた弟の名前を慌てて付け加えてみーちゃんが手を振ると、兄弟は同じように振り返した。流れで、四人全員で彼らに手を振って、車は家に向かって走り出した。
胸に手を置きほうっと小さく息を吐く、隣に座るみーちゃんの一挙一動に、私の体がピクリと反応する。
くすりと笑う夏目君の反応が、ミラー越しにみーちゃんを眺める祐成が、私の中に生まれた疑念を肯定するようで、呼吸の仕方がわからなくなってくる。
―――これは何?
何かがおかしい。
そう思ってもどうしたらいいのかわからない。予想もしなかった事態に私の額にじわりと汗が浮かんだ。
―――だって、何で?
浮かんでは消える疑問を口にしたら、現実になってしまいそうで恐ろしい。
違うって、言って。
お願いだから、名残惜しそうに背後を見たりしないで。
叫び出したい衝動を必死で押し殺し、私はぎゅっと体を縮めた。
強く握った手が震える。怖くて怖くてたまらなくなって、額に手を押し付けた。
「……果歩、体調悪いのか?」
助手席に座っているはずの祐成の声が遠い。
そのまま貧血を起こした私は、慌てる周囲の声が遠ざかっていくのを感じていた。
その後自室で目覚めた私の頭を支配したのは、怒りに似た焦り、だった。
「果歩ちゃん……?」
心配してついててくれたのだろう、真っ暗な部屋にみーちゃんの声が落ちた。
自分が倒れたことを覚えていた私は、戸惑いを十二分に含んだ声音に目を細めた。
どうして。再びその言葉が頭をめぐり、布団の上に乗っていたみーちゃんの手に自分の手を重ねた。
気付けば私は、実に淡々とした口調で、みーちゃんはあの人が好きなの、と訊ねていた。
困惑するみーちゃんに、抑揚のない平淡な声で、高泉寛人が好きなの?と重ねた。
私の質問を理解した途端赤くなっていくみーちゃんを、私はただじっと見つめていた。
そこに言葉は必要なかった。否定しないみーちゃんの態度に答があった。
示された回答を脳が理解するのを拒否していた。みーちゃんの口から好きな人の話題を聞く日が楽しみで仕方ないと思ったのはほんの何日か前のことなのに、急転直下もいいところだ。私が聞きたかったはずの名前が出てこないみーちゃんに手酷く裏切られたような気分だった。心のどこかが麻痺したみたいに鈍くなっているのがわかった。
「なんで?」
「えっ?」
「どこが好き?」
「……果歩ちゃん?」
いつもと違う私の態度にみーちゃんが眉を顰めた。
「ねえ、なんで?……だって、全然格好良い感じじゃないよね?服装だってお洒落って感じでもなかった」
隣にいた祐成との差が際立つ程、彼は普通にどこにでもいそうな男子だった。弟と違ってお洒落にも興味がない様子な上、こんなにも可愛いみーちゃんを意識している気配もなかった。率直に言えば、私には彼の魅力がわからなかった。
「礼儀正しかったし、人は良いのかもしれないけど、でもそれだけでしょ?弟君に引っ張られて頼り甲斐もなさそうだったし、鈍そうだし」
あれじゃ、とてもじゃないけど大事なみーちゃんを預けられない。彼がみーちゃんの王子様だとは思えない。「果歩ちゃ、」呼びかけてくるみーちゃんを遮って私は続けた。
「思ったんだけど、みーちゃん、一人引っ越して高校入ることになった時どっか緊張してたでしょ?だからじゃないかな。だから、同じ部活で優しくしてくれる先輩に勘違いしちゃったんじゃないかな。一種の熱病っていうか、憧れっていうか。あ、でも別につきあってるわけじゃないから大丈夫か。そっか、まだ間に合うね。むしろ早く気付けて良かったんだね。うん、よか―――」
「……果歩ちゃんやめて!」
捲し立てた私の言葉をみーちゃんが鋭く遮った。
引き留めるよう掴まれた腕を私は力任せに振り払う。強い声に煽られて私も大きく問い返す。
納得いかないと訴えても受け入れる様子のないみーちゃんに募った苛立ちが爆発する。
「……だってなんで?!意味がわかんない!みーちゃんの幸せはここにあるのにっ、うちの住人と恋におちれば確実に幸せになれるのにっ!なのになんであの人がいいなんて言いだすの?」
「やめてってば!どうしちゃったの果歩ちゃん、何でそんなこと言うの?!」
「―――なんでって!」
なんでって、そんなの決まってる!
「……幸せになれるかわからないじゃない!みーちゃんが泣くかもしれない、傷つくかもしれない、そんなの絶対許せないっ!みーちゃんだって嫌でしょう?!」
高泉兄は物語のキャストにない。
みーちゃんが幸せになるための物語のどこにも存在していない。
彼の人となりを知らない、性格が合うのかわからない、みーちゃんを幸せにできる力がある保証がない。
そんな相手に、みーちゃんを任せられる気がしない。
みーちゃんが泣くかもしれない未来なんて認められるわけがない。
確実に幸せになれる道を蹴りとばそうとしているみーちゃんを引きとめるのは姉である私の義務だ。
悲鳴じみた私の叫びに、絶句したみーちゃんは、次の瞬間眼差しを険しくした。
「……何言ってるの?そんなのわかんないじゃない!それに、例え傷ついたって、それは全部私のものだよ!自分で考えて、自分で選んだ、私だけの結果だよ!果歩ちゃんに押し付けられなきゃいけないものじゃないっ! 私の、……っ私の気持ちは、私だけのものでしょう?!」
噛みつくみたいなみーちゃんの声にひっぱたかれたみたいな気持ちになった。
振り仰いだ先には傷ついた表情のみーちゃんがいた。泣きだしそうな表情の中に、本気の怒りが見えた。
鋭く睨みつけてくる眼差しに大きくショックを受けて、続く言葉を失った唇が、ただ震えた。
不意に、最後の日、掠れた声で訊ねた妹のみーちゃんの声が耳元に蘇った。
―――みーちゃんが頑張ったら、きっと物語の中のみーちゃんも幸せになるよ。だから、頑張ろ!
かつて、みーちゃんを元気づけることは姉である私の役目だった。
最後の日の朝も、大丈夫だから頑張ろうと、私は彼女を励ました。
そんな私に、くしゃっと顔を歪めたみーちゃんが呟いた。
……もう、頑張るのやめちゃだめ?
―――あの時。
泣きながら許しを請う妹の姿を前にした時も、今と同じように、私は言葉が出なかった。
応えられない私に、みーちゃんが部屋を出て行った。
無情にも扉が閉まる音をぼんやり聞きながら、私は同じ問いを繰り返した。
―――なんで、私は。
暗い部屋の中で何度問いかけたところで、誰からも答えはもらえなかった。