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彼女って何それ美味しいの?
よもやそんな台詞を素で吐く日がやってくるとは思わなかった今日この頃。
「彼女…彼女……」
私は、ふと気付くとぶつぶつと同じ単語を呟きだすという挙動を繰り返す痛い子になっていた。
心配するみーちゃんや皆に曖昧に微笑んだところで誤魔化しきれてないことはわかっているけど、暇さえあれば春さんの彼女発言について考えてしまう。いや、考えずにはいられない。
そもそも、皆の彼女の存在を設定したことなんてあったっけ?
嫉妬は恋のスパイスだから、そんなエピソードのひとつやふたつあってもおかしくないかも?
そう思って、自分の頭の中に存在する、かつて作ったエピソードを片端から漁ったけれど、それらしき影はひとつも出てこなかった。唯一夏目君に関してだけは色々疑われる程に仲良しな女の子が複数いなくもないことになってるけれど、どれも誤解で実際には彼女はいないことにしていたと思う。
それもそのはず、菠薐荘は主人公であるみーちゃんが幸せになるための物語だ。嫉妬エピソードだって、住人に想いを寄せる子がいた、といった程度のものでしかなかったように思う。恋敵の存在があったとしても、みーちゃんが気付く頃には相手に断りを入れる方向で問題は解決している程度のもの。私とみーちゃんの二人で楽しむための空想世界に元カノだの今カノだののリアルな存在を持ちこむほど、あの頃の私達は大人じゃなかった。
知らされた事実と記憶との解離に焦燥感を煽られる。
春さんに彼女がいたとして、この先彼が抱くはずのみーちゃんへの恋心はどうなっちゃうんだろう?
今カノとみーちゃんとの間で春さんの心が揺れ動くとか?それでも惹かれていく苦しさを抱えていったり?
反対にみーちゃんが春さんを好きになったら?彼女がいるって知ったことで気持ちを押さえこもうとしたり?抱いた気持ちを捨てきれず持て余して涙したりして?そんな切ないパターンになっていくということ?
ただでさえみーちゃんは未だ皆と仲良しになったとは言えない状態なのに、障害なしの幸せ街道から外れてしまって大丈夫? 次々と浮かぶいくつもの想像に頭を抱えたくなる衝動にかられてくる。
考えてみると、春さんや夏目君がこれまで彼女や友達を家に連れてきたことってなかった。なかったから、考える必要自体が私にはなかった。可能性を考えることさえ抜け落ちていたのはまあ、さすがに間抜けだったと思うけど。
そして、遅まきながら気付いたもうひとつの事実に、私は途方に暮れる思いになる。
確かにこの世界は、かつて私が描いた物語と重なっていると思う。
けれど、誰一人として物語の通りになんて生きてなんていなかった。
誰もが一人の人間として、自らの意志を持って自分の足で歩いている。
となれば、初恋や失恋を経験することも、彼女が居ることだって、全然不思議なことじゃなくて当然だ。
今回は春さんだったけど、他の皆にだって、私が知らない過去があり、歴史があり、たくさんの人との関わりがある。
そうしたものをどれだけ考えたところで、過去の出来事を私が知る方法はない。私が何か働きかけることで過去を変えることもできないし、望み通りの現在に作り替える術などない。
それはとりもなおさず、今現在私には、みーちゃんが障害のない幸せな恋をするためにできる事が何もないということになる。
どれほど目を背けても動かない残酷な事実は、思うより私を動揺させた。
「……果歩ちゃん、果歩ちゃんってば、大丈夫?」
「ん……え、わあっみーちゃん!」
集中して考えていたところ軽く腕を揺り動かされてはっとした。顔をあげると私のすぐ傍に立つみーちゃんを見つけて目を見張る。私は昼休みが始まって早々、考えたいことがあるからと友達に断りを入れてベランにいた。恐らくクラスの誰かがみーちゃんを誘導してくれたんだろう。ふと周りを見ると、教室のあちこちからちらちら視線を集めているのに気がついた。
いつもであれば喜びと優越感で舞い上がるとこだけど、今日ばかりは何かあったのかと焦りを覚える。
「わざわざ二年の教室までどうしたの、何かあった?」
「ううん、何もないよ。ただ果歩ちゃん、朝もぼうっとしてたからちゃんとお昼食べたかなって思って……あとバーベキューの話、同じクラスの子二人誘おうと思うんだけど人数平気かな?」
「あ、うん。……ご飯はもう食べ終わったよ。人数の方も大丈夫。それより、二人だけで良かったの?みーちゃんが誘ったならもっと大勢の人が来たがったんじゃない?」
私の懸念を即座に否定するみーちゃんに胸をなでおろして強張りを解く。お弁当の方は実際には手をつける気にならなくてクラスメイトにあげてしまったのだけど、そこは言わなくてもいいだろう。さっと話題を変えた私に、みーちゃんは、同じ部活の子に声をかけたんだ、と説明した。
「なるほど、天文部の一年生女子って三人だけなんだっけ。多すぎたら困ったとこだけど、二人ならちょうどいいね。同じ部の男子は良かったの?」
「うん。うちの部の一年は女子が三人で男子が二人だし、男子の方は秋山君が誘ってそうだったから」
「そっか、じゃあそっちは私が確認しとくね」
私の言葉に頷くみーちゃんはどこかそわそわしているようで、それほどまでにバーベキューを楽しみにしているのかと思うと少し心が和んだ。
みーちゃんが誘ったという友達にまだ私は会ったことがない。彼女らの人となりは知らないけれど、下宿という状況で生まれかねない誤解を恐れず、本当のことを知ってほしいと思った人なんだ、と思うと私の方も気合いが入る。
今の自分が、みーちゃんの友達の訪問を、一緒に喜べる自分で良かった。
住人との距離を縮めるために設けた席で住人以外の訪問があることは、とにかくみーちゃんと住人の距離を縮めたいと考える私には迂遠に思える。この話を昨日夏目くんと話す前にもらっていたら、もしかして私は難色を示してたかもしれない。我ながら、功を焦るあまり強固に反対してしまい、開催すら危うくしかねない未来が一瞬見えた。これまでの己の実績を鑑みればいかにも陥りそうなパターンを回避できたことにほっとする。
そうだ、みーちゃんの幸せのために私ができること、まだ全部なくなってしまったわけじゃない。
良かった、と内心で独白すると、思った以上に安堵の気持ちが広がった。息詰まりそうになっていた気持ちが僅かに解けた。
いつまでもぼうっとしてたらだめだ。
まずは今できることをせいいっぱいしよう。頑張って準備して、皆でバーベキューと花火を楽しんで、想いで作って距離を縮めるんだ。
「準備とか、私も手伝うから何でも言ってね」
「うん、ありがとみーちゃん。準備の方はたいしたことないから心配しないで、当日を楽しみにしててね!」
ね!
にこっと笑ったら、みーちゃんが戸惑った顔をした。
「どしたのみーちゃん?」
「なんで?」
「何でって、何が?」
「……だって、私も何かしたいのに」
「え、だって本当に大丈夫だから。歓迎会兼ねてるし、みーちゃんは主役なんだから、手伝いなんて気にしないで?準備とか面倒なことは、私とか祐成とかでぱぱっとやっちゃうから大丈夫。アウトドアとかだと夏目君も手際いいから心配いらないよ」
「…………」
「みーちゃん?」
パーティーの主役に準備を手伝わせる気は私にはない。三月入居の秋山君と四月入居のみーちゃんは、まとめて主役扱いだ。二人と招待客は楽しむことに専念してもらいたい。どちらにしても、家の庭でやるバーベキューなんてそれほど大変な準備は必要ないし。みーちゃんが楽しい時間を過ごすための場を整えると思えば苦労じゃないから大丈夫。
何より、今回は春さんの彼女さんがやって来るんだ。今後どうなるかはわからないけど、心の準備はいくらしてもしすぎることはないと思う。どんな人かとかそういうことも気になるし、どんな気持ちになるかもわからない。何かが一つ違っただけで、みーちゃんが傷ついてしまうこともあるかもしれない。私だって、みーちゃんを守れるように色んな意味で上手に立ちまわらなくちゃいけないんだ。
気持ちを新たにして強く頷いた私に、みーちゃんが軽く眉を顰めた。
「そういうことじゃないのに……」
「え、何が?」
「……もうっ!果歩ちゃんのばか!」
「ええっ?!ちょ、みーちゃん?」
べぇっと小さく舌をだしたみーちゃんが踵を返して駆けだした。
教室を出ていくみーちゃんの背中を目線で追うも、成り行きについていけなくて、私はぽかん口をあけた。
え、何これどういうこと?
みーちゃんの反応の意味がわからない。というか今のもしかして喧嘩?喧嘩したことになるの?
喧嘩とか一体いつぶり?しかも油断したみーちゃんの幼い行動が滅茶苦茶可愛かったんだけどどうしよう。
ときめいてる場合じゃないと思いつつも、きゅんきゅん高鳴る心臓を押さえた私はうっかりその場に蹲ってしまった。
*
「果歩、お前少しは周りにも目を向けろ」
「いだ、って、祐成?」
おつかいから戻って家に入る直前、ポコン、と後頭部に軽い衝撃を感じた。慣れた音に振り返ると、Tシャツジーパンというラフな格好に着替えた祐成が立っていた。
抗議の声をあげたけど、私が祐成の家の前を通った時先に声をかけたと言われたため視線を逸らすことになってしまった。全然気付かなかった。だからさっきの台詞なのか、と納得したところで祐成が手にしていた紙袋を押しつけられた。
「これ、うちの親から差し入れ」
「あ、ひまわりベーカリー特製カンパーニュ!ありがと祐成!いただきます!」
「毎日朝飯食わせてもらってるこっちがありがとうだから。今日の夕飯何?」
「食べてく? 今日は和風ハンバーグだよ。ポン酢切れてて慌てたよー特売対象で良かった」
「へー、うまそ。でも今日は店で親と食べるからいいわ。またそのうち作ってくれ」
「うん。あ、みーちゃんにも伝えとくね!」
私じゃなくみーちゃん作なら尚のこと嬉しかろう?
思わずにやにや笑った私に、祐成の残念なものを見る目線が注がれる。そうやって余裕ぶっていられるのも今のうちなのだよ、という意味を込めて祐成の腕をぽんぽん叩いたら、何だか嫌そうな顔をされた。可愛い子に美味しいご飯を作ってもらったらそれだけで天にも昇る心地だろうに、この幼馴染は素直じゃない。
祐成の家は駅前でパン屋を営んでいるため朝が早い。両親と生活時間がずれているので、祐成は我が家で朝食をとって学校へ行き、お店でバイトしてから家に帰るという生活をしている。中学校の頃はバスケ部だったけど、今は主に家の手伝いで放課後を過ごしている。それでも何かにつけ運動部に紛れこんでいることもあってか、筋肉質な体と背丈は未だ成長期であるらしい。はっきりとした目鼻立ちに前髪を立てた短めショートレイヤーが合わさって、見るからに健康的な容貌が人に爽やかさを感じさせる男だ。
祐成の性格を一言で言うと『脳筋自由人』。面倒見は割と良い方だけど、無理とか我慢とかそういうものとは無縁だ。中学時代に複数の部から声がかかる中、バスケに部活を決めた時も、高校に入ってすっぱり辞めてしまった時も、誰が引きとめても己の考えを曲げなかった。むしろきっぱりはっきり潔く、自分がしたいからする、と言ってのける強さを持っている。自分が過干渉を嫌うせいか自分の意見を人にも押しつけないので、私とも変わらず良好な幼馴染関係を保っている。
男だろうが女だろうが幼馴染なら親しくて当たり前じゃね?俺は俺のしたいようにするけど。
思春期になっても一緒にいた私達に向けられた揶揄に祐成がすっぱり切り返した時は目から鱗が落ちたっけ。折しも下宿のことで悩んでいた時期だったから、祐成の清々しい真っ直ぐさに救われたことを思い出す。
もし祐成とみーちゃんがくっついたら、たぶん私はずっと安心していられるなあ。
幼い頃からみーちゃんが家に来る時は祐成も一緒に遊ぶことが多かった。長じるにつれそう頻繁ではなくなったとはいえ、三人揃って幼馴染だと思っているのは一緒だと思う。
祐成は家を継ぐ気満々だし、みーちゃんが隣家に住むことになれば、私の方こそ幸せだ。三人まとめて同じ家族、みたいな今の関係がずっと続くだろうと予想できて、居心地の良さに感動する。
「そうだ祐成、今度家でみーちゃん達の歓迎会兼ねたバーベキューするから都合教えてくれる?」
「ああ、聞いた。後で連絡するわ」
「うん。あと準備手伝って」
「おう。そんで、美空とは仲直りしたか?」
「おっつ……何故それを」
つい言葉に詰まった私に祐成が呆れを隠さない眼差しを寄こす。
帰りに会った、って。じゃあ祐成はみーちゃんが怒ってる理由を知ってるんだろうか。
部活がない日なので一足先に家に返ったはずのみーちゃんは私が帰った後部屋から出てくる気配がない。無言の訴えの理由を私がみーちゃんを追いかけ損ねた昼間にあると思い至るには十分で、どうしたものかと思っていた。みーちゃんのおかげで浮上したはずが、みーちゃんからの拒絶で再び気持ちが落ちていく。
問いかけを雄弁に目に映し、勢い込んだ私の額を祐成が指でぐりぐりする。だから痛いってーの、加減しろい。不満を露わにした私に、祐成が大きく息を吐いた。
「お前らってたまにめんどくさいよな」
「ちょ、どういう意味」
「言いたいこととか聞きたい事とか、あるなら正面から訊いた方が早いだろ。気遣いか何かしらないけど、下手に飲みこんだりするから抉れるんだよ。何も言わないけどわかって欲しい、なんて無駄な期待すんなアホ」
「何がいいたいのかわかんないんだけど……」
一方的な暴言に噛みついた私に、祐成がデコピンをかましてくれた。
「果歩がいつまでもアホ面してっから美空は心配してんだろ。遠慮するとこじゃないんだから、準備だってなんだって一緒にやればいいんだよ。お前も、巻き込み上等、ぐらいに思っとけ」
弾かれた額を押さえた私の両手に祐成の手が重なった。
大きな手が、する、と上から額を撫でる。目を見開いた私に祐成の口元がふっと緩む。
直後、苦虫でも噛んだみたいな憮然とした表情でさっと踵を返した。
―――何、急に。
無言で自分の家へと入る幼馴染の後姿を私は見えなくなるまで見つめていた。これまで見た覚えのない表情に虚を突かれた思いになった。