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学校が終わってから真っ直ぐ家に帰った直後、ひき肉ベースのタネが入ったボールを押し付けられた。
「お母さんごめん、私は今日ちょっと考えなきゃいけないことが」
いい加減本気で対策を考えねばまずい、と入れた断り文句がさくっと遮られる。
「果歩はできたタネを端から包んでいってね。美佐江さんはサラダ頼んでいいですか?」
「ええ、承知しました」
「おか……」
「私はスープと付け合わせをやりますね」
「お……」
「果歩は口じゃなくて手を動かす。考え事なら包んでる間にできるんだからつべこべ言わずにちゃっちゃとやってね」
「えええぇ……」
私の控え目な主張はけんもほろろに流されて、気づいたらリビングのテーブルの上に餃子セット一式を並べられていた。
キッチンでは既にスープや付け合わせの準備が始まっていて異論を挟む余地がない。いつものこととはいえ母親の強引さには勝てる気がしない。かくっと首を落とした私は、部屋着に着替えた後エプロンをつけて手を洗った。
菠薐は共同エリアに水回り関係を集めているので、各自の部屋にキッチン等はついていない。そのため平日の食事は私と母と夕方だけお願いしてるパートの美佐枝さんとで用意している。全てを個人の裁量に任せることも考えたけど、家族経営の安心感から事情のある学生さんを預けられることもあるので、平日だけは必ず提供することになった。ちなみにお昼は希望者にのみお弁当を用意している。
その代わり週末は個人の自由だ。出掛けた先で食べたりカップ麺で済ませたり住人同士で何か作ったりその時々で違うらしい。みーちゃんがくるまでは男性ばかりだったこともあり基本放置だったので実はあまり詳しくない。みーちゃんがいるのだからこれからはたまに混ぜてもらおうかな。今までのところ、みーちゃんは私達家族と一階で食べることばかりでやっぱり混ざれていないから。
食事の開始時間は決まっていて、間に合わなければ有無を言わさず名前付きで冷蔵庫に仕舞われる。食費は月初めに一括請求しているので急に不要になっても他の人の胃袋に入るだけでお金は返ってこない。理由があって不要になることが続いた場合には、別の日にデザートが出たり他の何かがプラスされたりという配慮がある。
本日のメニューは餃子らしい。タネはキャベツにしょうがをめいいっぱい効かせたオーソドックスなものと、梅しそを入れたさっぱりタイプの二種類。八人分、しかも男性比率が高い我が家の餃子数は大量だ。包むにも時間がかかるので座ってやる。
皮を手にとりタネを乗せる。包んでひだを作って並べていく。単純作業の繰り返す内に手が慣れてきた。余所事を考える余裕が生まれてくると、私の頭には当然のように一つ下の従妹のことが思い浮かんでくる。
外見だけはそのまま主人公である彼女の、まったく主人公らしくない現状を思ってつい溜め息が零れた。
「……やっぱりちゃんと筋道がないのが痛いなぁ」
菠薐荘を舞台にした物語には、実は物語にあって当然の流れというものが存在しない。
理由は単純で、この物語の完成度が、たくさんのエピソードを好き勝手に書きだしただけのアイデア段階でしかないからだ。何せ端を発したのは素人の子供二人の遊びから。様々な小話はどれもぶつ切りで、次の話に繋がるストーリーが存在しない。となると、実際にどんな行動をとれば目指すエピソードに繋がるのか判然としない。何を選ぶと誰々との仲が進展する、といった正解がわからない。
かといって、残念なことに短絡的に背中を押しても思った通りの効果は得られない。
4月、冬木先輩が参考書を譲ることで勉強を教えるイベントに繋げるためそれとなく話をふった。二人の選択教科が違ったため結局本を持て余す羽目になった。その上他人事の顔で勧めた私の成績に言及されて叱られた。
5月、少しだけ体調を崩したみーちゃんを見舞うイベントを狙ってふざけ半分で彼女に水をかけた。何故か私だけが濡れ鼠となる事態に陥った。しかも一週間鼻風が治らなくて皆に笑われた。
6月、相合い傘をさせたくてわざとみーちゃんの傘を隠した。同じ部活の女の子とはしゃぎながら帰るみーちゃんを見送るはめになった上、隠しておいた傘が幼馴染みに見つかり怒られた。
どうも、私が狙って事を起こそうとすると何かしら失敗する上、私自身が被害を被る率が高くなる気がする。自業自得と言えばそれまでだけど重ねる度にそれでは心が折れる。
……せめておおまかな展開でも作ってたら話は楽だったのに。
今考えても詮ない想いが頭に浮かんで、はぁと小さな息が漏れた。
そもそもの話、私は前世の記憶――正確に言えば今の自分とは異なるもう一人の自分の人生のかけら――を持っている。地続きの自分というよりはもう一人の私の人生映画を眺めたみたいな感覚だけど、印象的だったり妙に心に残っているものだったりの断片的な映像を覚えているのだ。
今現在一人娘の私と違い、もう一人の私には妹がいた。歳は十歳以上も離れていたけど、前世の私と妹はとても仲が良かった。私は妹を、名前の最初をもじってみーちゃんと呼んでいた。
生まれつき心臓に欠陥があった妹は体が弱かった。小学校に通いたいという、ささやかな願い事さえ適わない程に脆弱だった。同年代とは比べるまでもない細い手足で、外に憧れながら一日の大半を病院のベッドの上で寝て過ごす。恐らく長く生きることはできないだろうと言われながら、それでも懸命に病と闘う彼女が愛しくて、……哀しくて、仕方なかった。健気で頑張り屋で、大好きだった私の妹。
もう一人の私と今の私は違うし、あだ名は一緒でも従妹のみーちゃんと妹のみーちゃんは違う。
頭ではわかってはいても、私は従妹のみーちゃんに妹のみーちゃんを重ねてしまうことが多々あった。みーちゃんに優しくすると、もう一人の自分が慰められる気がして、ついお姉さんぶってみたりして。
だけど一個しか違わないみーちゃんには幼心にそれが不満だったようでよくよく私に反発した。そしてよかれと思ってしたことを端から撥ね退けられて許せるほど私も大人じゃなかった。その上みーちゃんは昔からとびきり可愛くて、同年代の私は何かにつけて比べられていた。家族はしない贔屓というものを他者から与えられる度、傷ついた私が八つ当たりすることもしばしばだった。
そんな関係が変化したのは唐突だった。
ある日、彼女の耳の後ろの黒子に気がついたのだ。
家に遊びにきたみーちゃんの髪を結おうと髪を持ち上げた時見えた、オリオン座みたいに三つ並んだ点。前世のみーちゃんにもあった三連黒子。気付いた事実に、私は雷に打たれたような衝撃を受けた。
みーちゃんは、真実 "みーちゃん" だったんだ。
心臓が止まりそうな程に仰天した私は、その夜一つの記憶を思い出した。
前世の私は、絵本や漫画、小説が大好きだった。読むだけでは飽き足らず、入院中の妹の枕元で色々な設定の物語を綴ったりもしていた。主人公は大抵の場合がみーちゃん自身。いっぱいに広げたノートの中で、みーちゃんは時に王子に助けられる可憐な囚われの姫となり、時に女だてらに国を率いる美しい女王となった。私の思いつきをみーちゃんが深めたり、みーちゃんのアイデアを私自身が広げたり。自分達が好きなものを好きなように想像するのは楽しくて、見舞いにいけない日はノートいっぱい書きためて、交換して楽しんだ。
その中の一つが、菠薐荘と名付けた下宿先で暮らすことになった女の子の物語。みーちゃんと、格好いい男の子達との、ドキドキの共同生活を通して生まれる恋物語。二人で次から次へと様々なエピソードを作っては膨らませ、描いては盛りあがった日々が蘇って、私は確信した。
従妹のみーちゃんと妹のみーちゃんは同一人物だった。
そして私の家は菠薐荘と言う名の下宿を経営している。
それならここは、あのみーちゃんが幸せになるための世界だということだ。
―――私は、今度こそみーちゃんが幸せにすることができるかもしれないんだ。
悟った瞬間、私の心が歓喜に震えた。
前世の私の気持ちが急に真に迫って、強く一つの想いに捕らわれた。
みーちゃんを幸せにしたい。
みーちゃんの幸せを守りたい。
みーちゃんの幸せを、側でずっと見ていたい。
この世界でなら今度こそみーちゃんは幸せになれる。間違いなく私はその手伝いができる。
数年後、私の家を舞台に、みーちゃんは物語の主人公として幸せな道を歩き始めるんだ。その頃菠薐荘に暮らす住人は外見も性格もみーちゃんにぴったりな素敵な人物が揃っている。皆がみーちゃんに恋をして、みーちゃん自身も恋をする。私達が描いていた物語の最後は必ずハッピーエンドと決めていたから、その中の誰を選んでも、みーちゃんは他の誰よりも幸せになることができる。
まだ小さかった自分の手を握りしめて私は決めた。
そうとわかれば私がすることは一つ。
みーちゃんの幸せのための布石を打つこと、ただそれだけ。
そう決意して以降、私がみーちゃんと喧嘩することはぱったりなくなった。
彼女を愛おしいと思う気持ちが強くなったせいで、どんなみーちゃんでも受け止められるようになりたいと思うようになったのだ。
……なのだけど。
全然、まったく、ひとかけらも、理想を実現できていない、という。
実に頭の痛い今の現状に、私はほとほと弱ってしまう。
「本当にどうしたらいいのかなぁ……っ!」
「―――皿か何か持ってくればいいか?」
無意識に拳を握った時突然降ってきた声にびくっとし、私は勢いよく顔をあげた。
羨ましくなるくらい艶やかな黒髪がサラリと流れる。今この時この時間、まったく想定していなかった相手を見つけて、私は思わず眼を見開いた。