「最初は魔法世界から」
ペロッと顔を何かに舐められる感触がする。
くすぐったくて、亜紀は徐々に意識を取り戻した。
「ん…?」
ゆっくりと目を開けた亜紀の目に、犬…にしては鋭い顔つきの動物が映る。
「いや、ちょ…くすぐったい!もう起きたけん、ちょっと待って!」
尚もペロリと舐めてくる動物に、亜紀は慌てて起き上がった。
キョロキョロと辺りを見回すと、どうやら自分は今森に居るらしい。
鬱蒼と木々が繁り、どこか薄暗い。
「ここは…」
ポツリと呟くと、亜紀の頭に声が響いてきた。
『お、起きたみたいだな』
「えっと…神?」
『おう。そこは魔法世界リーグナーの大国、アルデルセスにある竜の森だ』
「竜の森…」
『でだ。この先、どうするかはリーグナーから案内役が来てるみたいだからそいつに聞け。で、リーグナーから君への餞別は肉体的強化と魔法の使用。何か俺に連絡したければ心の中で念じたら良いから。一応俺からはこんなものだけど、何か他に聞きたい事とかある?』
「その案内役?っていうの全然見当たらんのやけど…」
『いるよ。そこの狼。彼がリーグナーからの案内役だ』
「えっ」
自分の傍らで尻尾を振っているこの動物……いや、狼が案内役?
じっとその狼を見てみる。
亜紀を見つめ、狼は尻尾を大きく振っている。
ふと気が付いたのだが、この狼はどうやらただの狼ではなさそうだ。
所謂大型犬より体が大きい。
『とにかく、一旦切るね。じゃあ』
その後、神の声は聞こえなくなった。
まるで電話をしているみたいだ、と亜紀は思った。
「…どうしようか」
その場から動く事も無く、亜紀は大きなため息をついた。
すると、再び亜紀の頭に声が響いてきた。
『まず、森の主に会いに行け。救世主』
「えっ、誰?」
なんとなく、予想はついてはいるのだが、イマイチ信じられず亜紀は辺りを見回した。
『お主の隣に居るだろう』
やっぱり……と思いながら亜紀は狼を見た。
『そうだ。偉大なるリーグナーからお主の世話を任された。名をフェンリルという。よろしく頼むぞ、救世主』
「あー、ちょっと待って。今、うちにはその…肉体強化と魔法が使えるっていうのがあるんやんな?」
『そうだ。常人よりもおよそ30倍はお主の身体が強化されている』
30倍ってどんだけで…と思いながら亜紀は考えた。
その、森の主に会うのも重要ではあるが、自分がどれだけ強くなったのかをまず知っていなければならない。
何も知らず、ちょっとした事で誰かを傷付けてしまう事だけは避けなければ。
「じゃあ、悪いけど先にどれだけ強くなったか確認させて」
『それは別に構わないが…』
一応フェンリルの許可を取ったので亜紀は近くの木へと近付き、ポンッと叩いた。
すると、その木がミシッと音を立てて向こう側に傾いていく。
そして……
ズシンと大きな轟音を立てながら倒れた。
(あんだけ軽く触っただけやのん…)
軽く自分の変化を認識した亜紀は、ある事を決めた。
「ごめん。後、魔法ってどうやって使うん?」
それをするには魔法の使い方も学んでおかねば。
亜紀の言葉を不思議に思いながらも、フェンリルは教える事にした。
『まず、体内に力の流れがあるのを感じるか?』
心を鎮めてみると、身体の中に暖かい何かを感じる。
亜紀が頷いた事を確認すると、フェンリルは再び話した。
『それが魔力だ。これを自分が使おうとする魔法…例えば火の魔法を使いたい場合、どんな火かをイメージするんだ。なるべく鮮明に。そして、力をイメージに注ぐようにする』
とりあえず火をイメージし、フェンリルの言葉のように身体にある暖かい何かを頭にイメージした火に流れるようにする。
『そして、イメージした火を言葉に乗せて開放しろ』
「ファイアーボール」
ポツリと亜紀が呟くと、亜紀の元から火の玉が現れた。
(初めて魔法を使って既に発動させるとは……。さすが救世主だな)
フェンリルが感心しているとは知らず、亜紀は成功した火の魔法をどうするか困っていた。
(これ……消す以外無いよな。周りに燃えたらいかんし)
とりあえず、出てきた火の玉に向かって“消えろ”と念じてみた。
すると、火の玉は徐々に小さくなっていき、遂には消えてしまった。
「良かった……」
放火犯にならずに済み、亜紀は安心した。
ともあれ、魔法を使うやり方がわかった。
後は亜紀の望む魔法が使えるかどうか……。
「でさ、今うちが貰っとる肉体的強化を普段は無くして、必要な時に引き出せるようにしたいんやけどさ、出来るん?」
『それは、肉体的強化能力を封じる、という事か?』
「うん、やっぱこういうのって使い方気を付けんといかんやん?やけん、無意識でもちゃんと普通の人みたいに出来るようになるまで自由に封印と解放出来たら便利かなって……」
『それは別にお主の好きにすれば良いが……。構わないのか?』
フェンリルは亜紀がそんな事を言って来るとは思わなかった。
せっかくリーグナーから送られた能力を封じるとは。
「うん。だって、自分でも上手く力加減出来んのん、もし誰か傷付けたら嫌やもん」
『成る程……。わかった』
この救世主は中々優しい、とフェンリルは思った。
亜紀ならばリーグナーを救う事が出来る。
亜紀の言葉を聞いて、フェンリルはふと感じた。
魔力を高め、自分の身体が普段通りであると想像する。
体内を流れる力が身体全体を覆う。
おそらくこれで良いはずなのだが……。
試しに先程と同じように近くの木に軽く触れてみる。
すると、今度は何の変化も無かった。
どうやら成功したらしい。
ふぅ……と亜紀は一安心した。
とりあえず、この感覚を覚えておけば肉体的強化を自在に引き出せる。
『そろそろ森の主の元へ向かうぞ。このままでは日暮れに間に合わない』
ス……っとフェンリルが亜紀の側に寄って来た。
木が覆い繁っていたためわからなかったが、時間帯としてはまだ日中のようだ。
確かに、なるべく急いでその森の主の元へ向かわなければこの薄暗い森の中で夜を迎える事になる。
森の主の所までどれほど時間が掛かるかはわからないが、フェンリルの言う通り出発した方が良さそうだと亜紀は思った。
「うん」
歩きだしたフェンリルの後を追い、亜紀も歩き始めた。
そういえば……と亜紀はふと気付いたが、いつの間にか足に靴を履いていた。
驚きの連続で、亜紀は全く気が付いていなかった。
(何で靴は履いとって服はパジャマのままやねん……)
靴だけは亜紀の物と違っていたが、服装だけは寝間着のまま。
亜紀は心の中だけで突っ込んだ。
しばらく……といっても二時間ぐらい歩いた亜紀とフェンリルの目に、大きな岩山が映った。
「デカ……」
『あれが森の主、エンドドラゴンの巣だ』
思わず呟いた亜紀の言葉にフェンリルが答える。
なら、あの岩山を目指していたという事だ。
一応目的地が見えた事で、亜紀は少し気が楽になった。
楽にはなった……が、結局岩山に着いたのはそれから更に三時間後で、就寝してすぐに神にこの世界に送られ、意識を失っていた時間が少しだったため思いっきり眠い亜紀は、体力の限界だった。
(肉体的強化能力使っとったら良かった……)
疲れで思うように動かない足を擦りながら亜紀は思った。
『エンドドラゴンは始祖の五竜の一匹で、知識も豊富だ。必ずやお主の役に立つだろう』
岩山に空いた大きな穴に入りながらフェンリルが言った。
「始祖の五竜?」
『リーグナーが誕生して最初に生まれたのがファーストドラゴン。その後、ファーストドラゴンから生まれたのがセカンドドラゴン。ファーストドラゴンとセカンドドラゴンの後、リーグナーから生み出されたのがサードドラゴン。そして、ファーストドラゴンとサードドラゴンの間に生まれたのがフォースドラゴンとエンドドラゴン。その後、人間や他の動植物が生み出されたため、五匹の竜を始祖の五竜という』
薄暗い穴を進みながら話すフェンリルの声を聞きながら、亜紀は恐る恐る後を着いて行く。
『ファーストドラゴンは火を、セカンドドラゴンは水、サードドラゴンは土、フォースドラゴンは風を司り、そしてエンドドラゴンは……』
フェンリルが後を続けようとしたが、急に周りが明るくなる。
その眩しさに亜紀が目を細めると、誰かが亜紀達の前に立っていた。
「光と闇を司っているんですよ」
逆光になっているため顔はわからないが、その人物は男らしい。
「ようこそ、救世主。そして案内ご苦労様フェンリル」
徐々に光が弱くなっていき、男の姿も亜紀にわかるようになってきた。
光も落ち着き、男の姿を見た亜紀は驚いた。
白と黒、二つの色が対称に配置された髪をした、所謂美形がそこに居たのだ。
『エンドドラゴン自らお出迎えとはな』
男の姿を見たフェンリルが言う。
「えっ?」
“ドラゴン”と言うからには本や映画で見るようなものを想像していたのだが……。
そのうえ、この大きな岩山に住むというので某モンスターをハントするゲームに出て来る、砦を壊そうとする古の竜を思い描いていたのだが、亜紀の想像等あっさり裏切られた。
亜紀があからさまにがっかりしている事に気付いたのか、フェンリルがフォローしてきた。
『始祖の五竜を始めとする竜族は全て人型になれる。ここリーグナーの人間は、全て竜族の人型を模して出来た存在なのだ。しかし近年、人間達は己の欲のために竜族を攻撃してきた。始祖の五竜すら例外では無くなり、竜族は常に人型でなければならなくなった……という訳だ』
「そうなんや……」
どこかの物語では何らかの事件が起こって人型からドラゴンの姿に変わり、人間によって殺され、怒った仲間が人間を滅ぼす……という展開に発展するんだろうな、と亜紀は思った。
「楽しみにして下さっていた救世主には申し訳ないのですが……」
すまなそうにエンドドラゴンが眉を下げる。
別に、楽しみにしていた訳ではない亜紀は若干慌てた。
「あの、えっと。事情が事情やから別に……」
何度も首を振り“構わない”と意思表示する亜紀。
実際、ドラゴンの姿だったとしたら亜紀は気絶していたであろう事を理解していたからである。
「そう言って頂けるとありがたいです。では、奥へ案内しましょう」
歩き出したエンドドラゴンの後を追う。
わざわざ迎えに来てくれた、というのは少し申し訳なく思う。
何故エンドドラゴンが迎えに来たのか疑問に思ったが、亜紀はただフェンリルと共に先程より少し明るい道を歩いた。
しばらくすると、エンドドラゴンが立ち止まった。
「ここにね、新しく結界を張ったんです。だからあなた方をお迎えした、という訳です」
『成る程』
エンドドラゴンが手をかざすと亜紀達の前の空間が光り、パチンという音と共に光が消えた。
「さあ、これで大丈夫です。行きましょう」
それから少し歩いて大きく開けた空間に出た。
小さな山等すっぽりと入ってしまいそうなそこには、色々な種類の動物が。
皆こちらが気になるようで、じっと見てくる。
「さあ、ここが私の住処です」
そう言って案内されたのは、ギリシャにある神殿に似た建物だった。
(広っ……)
亜紀が驚きながら周りを見ていると、あちこちに二足歩行する動物がいた。
それに更に驚いていると、エンドドラゴンの歩みが突如止まる。
「着きました。この部屋で、この世界の事を話しましょう」
開けられた扉を、フェンリルの後に続いて入る。
中は殺風景であまり物が無く、椅子と机があるのみだった。
座るよう促され、エンドドラゴンの向かい側に座る。
フェンリルは亜紀のすぐ隣に座った。
「さて、まず何から話しましょうか……」
亜紀の事は事前に神から説明があったし、今リーグナーに訪れている異変の原因も聞いた。
中々信じられるものでは無かったし、当初は軽く見ていた。
しかし、人間達は気付いていないようだがリーグナーは緩やかに破滅の道を歩んでいた。
今はまだ目に見える形ではないだけで、ゆっくりと人間の心を闇が覆っていく。
エンドドラゴンは自分が不甲斐なかった。
“始祖の五竜”と呼ばれてはいても、自分の源たるリーグナーがゆっくりと滅びに向かいつつあるのに何も出来ない。
他の兄弟達に相談しようにも、自分達は今居る場所からそうそう動く事は出来ない。
なんと、無力な事か。
今、自分の前に現れた救世主という“少女”。
見た目はごく平凡な彼女だが、身体から溢れるエネルギーがリーグナーと混ざりあって、まるで一つになった印象を与えていた。
「今はまだ、表面化はしていません。ですが、人の心に闇が芽生え始めているのです」
「闇?」
「そうです。怒りや憎しみ、そういった負の感情が悪い形で現れようとしているのです」
悲しそうな表情を浮かべながらエンドドラゴンは言った。
聞けば、前々から目に見えない闇をエンドドラゴンは感じていたが、詳しい原因はわからなかったらしい。
それが、この前神によって明らかになり、原因を取り除く存在である亜紀がやって来た、という訳だ。
「私が……こうして住処であるこの岩山に結界を張ったのも、人が入って来れぬよう。今までの人は、全て必要な分だけ狩りをして、畑を耕して、魚を採って。そうして過ごしていました。しかし、最近急にだったのです。肉を喰うでもない、ただ剥製にして部屋に置きたいという理由で動物を狩り、食べ物を買い占めて物価を高騰させ高く売り付け……。今はまだ、それが起こってすぐ鎮静化しました。しかし、それでもいずれ更に危険な事態が一気に起きそうな気がしてならないのですよ」
人間が……どんどん傲慢になっているのだろう。
自分達以外の生物の事を考えず、自分達が優れた生き物だと錯覚しているようだ。
亜紀が住んでいた世界でも、多くの生物を絶滅に追いやり、自分達の住む地球すら壊してしまいそうな勢いであった。
それが、このリーグナーでも起きようとしている。
しかし、そうした事はどうすれば良いのか亜紀にはわからなかった。
人間の意識改革等しても、いずれは再び同じ状態になるのではないか、と亜紀は考えている。
エンドドラゴンの言葉に亜紀がじっとしていると、扉がノックされた。
「お茶をお持ちしました」
「ご苦労。入って来て構わない」
「失礼します」
扉が開くと共に入って来たのは、先程見た二足歩行で歩く動物達の一匹、ウサギだった。
「あの、何でウサギが二足歩行……」
気になって亜紀が聞く。
「ああ、アナタの世界ではそのような事は出来ないのですね。ここリーグナーでは動物や昆虫も、人間のように行動する事が出来るのです。中には世代を重ねて人間と同じ大きさになり、人間と交わるものもいますよ」
あっさりと言うので、ここでは当たり前の事なのだろう。
しかし、先程エンドドラゴンが言った事が起きはじめているのなら、人間は自分で自分の首を締めているだけだ、と亜紀は思った。
いくら魔法というものがあっても、人間は人間という種族だけでは生きて行けない。
それを気付かせる事が、このリーグナーでの亜紀の役目なのだろうか。
そう考えていると、エンドドラゴンが更に説明してきた。
「この、人間と動物の間に生まれたのが所謂“亜人”です。彼らは基本的には人間と同じような頭脳の高さを持っています。しかし、その特徴はなんと言っても容姿です。例えば、そこに居るウサギの亜人の場合、人間の耳ではなくウサギの耳になります。魚の亜人は魚の身体を持つ事になります。これを人間は“人魚”と呼んでいます」
つまり、猫なら猫耳になる、という訳らしい。
「本来、人間も動物も亜人も皆、仲が良い。しかし、最近は……」
だんだん差別意識が芽生え始めて来た、という事か。
初っぱなからずいぶん難しい世界やな、と亜紀は思った。
人(一応動物達にもあると仮定して)には好みがある。
食べ物の好き嫌いから始まり、人の容姿の好みだってそれぞれ違う。
それを統一させよう、という訳ではない。
ただ、自分の好みを押し付ける事をしないようにして欲しいだけだ。
自分以外の好みを認める余裕を、出来ればこのリーグナーの住人に思い出して欲しい。
今まではそれが出来ていたはずなのだ。
仮に一度出来なくなったとしても、二度と出来ない訳ではないと思う。
亜紀はそう考えているのだが、今はまだ表面化していないそれを、どうにかするのは無理だ。
ましてや、リーグナーや神からの恩恵があるとは言え、亜紀はまだ普通の一般人。
能力を使いこなせるようになる事が第一だった。
自分の事すら満足に出来ていない亜紀には、リーグナーの問題は難しかった。
静かな亜紀を見て疲れているのかと思ったエンドドラゴンは、ひとまず一旦お開きにする事にした。
「今は、急に色々な事を聞かされて頭が混乱しているでしょう。今日のところはここまでにして、ひとまず休みませんか?貴女も疲れているでしょう?」
実際、眠気が酷く亜紀の頭はぼんやりしていた。
願ってもない言葉に、亜紀はすぐ頷いた。
と、ここでエンドドラゴンがある事に気付いた。
「そういえば……まだ貴女の名前を聞いていませんでしたね。何というお名前なのですか?」
確かに、名前を名乗っていなかった。
あくびが出そうになるのを我慢して、亜紀は答えた。
「亜紀。草薙亜紀です」
「良き名前ですね、アキ。さあ、アキとフェンリルを部屋に」
ニコリと微笑んで、エンドドラゴンは側に控えていたウサギに亜紀達の案内を命じる。
先を行くウサギの後を追って、亜紀とフェンリルはその場を後にした。
案内された部屋はそれなりに広く、亜紀には十分だった。
と、亜紀が案内をしてくれたウサギを呼び止める。
「あの……お風呂に入りたいんやけど、ありますか?」
長時間歩いたため正直疲れているし、汗も想像以上にかいていて気持ち悪い。
出来れば、ゆっくりと湯船に浸かって疲れを癒したいのだが。
そんな亜紀の言葉に、声で答えはしないものの、ウサギは亜紀の手を取って部屋の左奥へと連れて行った。
そこには多少薄暗いながらも情緒溢れる温泉が。
「あの、えっと……ありがとうございます」
亜紀はひとまずウサギに礼を言った。
ウサギ自身はそれに応えず、部屋を去って行った。
『とりあえず、風呂にでも入って身体を休めておけ。疲れただろう?』
「まぁ……な。じゃあ、先に失礼するな」
今もうとうととしているという自覚があった亜紀は、フェンリルの言葉に甘える事にした。
風呂場を詳しく見ると、着替えが用意されていた。
最初から亜紀達を泊める予定だったらしい。
寝間着を脱ぎ、下着を脱ごうとした瞬間、亜紀はある事に気付いた。
「何か……胸ちっちゃなってない?」
基本的に昔から身長が伸びたり顔が大人になったり、という成長の無かった亜紀は、胸の大きさで自らの歳を感じていた。
それが、何故か小さくなってしまっている。
どういう事かと亜紀が不思議に思っていると、神の声が聞こえてきた。
『ごめん、言い忘れてたけど、君若返ってるから』
「は?」
『いや、そのぐらいの年齢の身体の方が色々と覚え易いんだよ。感覚とか。だから基本的に君にはその身体のままでいてもらうよ。大丈夫。女の子の日とかも無いから』
何が大丈夫なのかはわからないが、とりあえず亜紀はずっとこの身体のまま、という事になる。
女の子の日……亜紀は酷い腹痛に見舞われていた。
女としての宿命というべきか、毎月訪れるその痛み・気持ち悪さに亜紀のみならず、他の女性達も一度ぐらいは思っただろう。
“なくなってしまえ”
しかし、いざもう訪れる事は無いとなると、亜紀は複雑な気持ちだった。
自分から“女”である証が消える。
ますます平穏な生活から離れていく。
もう、戻れないと自覚させられる。
「そう……わかった」
ようやく亜紀が絞り出したのはその言葉だった。
『あ、後君が履いてた靴。あれは餞別。どんな環境でも大丈夫だから、熱い所とか寒い氷の上とかは余裕で歩けるよ。とりあえずこんなものかな?じゃあね』
沈む亜紀等お構い無しに、言いたい事を言って神の声は聞こえなくなった。
シン……と静まりかえった風呂場で、亜紀は静かに涙していた。
もう、戻れない事をこの時亜紀は実感したのだ。
どこか現実味の無い出来事の連続で、亜紀の感覚は麻痺していた。
しかし、こうして以前と変わってしまった自分の身体を見てしまうと、実感せざるを得なかった。
自分がつまらないと思っていた最強主人公と同じ存在になってしまった事を。
しばらく経ち、亜紀はお風呂から出てきた。
『ずいぶん長風呂なんだな』
「うん……まぁな」
そう言った亜紀の目が赤くなっている事にフェンリルは気付いた。
『どうかしたのか?』
「ううん、別に……なんともない」
心配して聞いたが、亜紀は話そうとしなかった。
むしろ心配させまいとフェンリルに微笑みかけた。
何故、そうするのかフェンリルには理解出来なかった。
「それより、もう寝ようか。な?」
いそいそとフェンリルとの会話を切り上げ、亜紀はベッドに潜り込んだ。
それ以上追求出来る訳も無く、フェンリルも用意されていた寝床へと横になる。
それからしばらく時間が経ち、亜紀の方から寝息が聞こえて来た。
まだ眠れなかったフェンリルはふと思い立ち、亜紀の元へとゆっくり近付いた。
そして、何気なく亜紀の寝顔を覗き込む。
フェンリルは目を見開いた。
眉をしかめ、微かに涙を流しながら亜紀が寝ていたのだ。
亜紀に何があったのかフェンリルにはわからない。
亜紀に関して詳しい情報等何一つ無いのだ。
あまり人間の感情がわからないフェンリルは、どうすれば亜紀を慰める事が出来るかわからなかった。
とりあえずぺろりと亜紀から流れた涙を舐める。
「ん……」
一瞬、亜紀が起きそうになったが、なんとかそのまま深い眠りに入って行き、起きる事は無かった。
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