序章
貴方は『オルトロス』という言葉を知っているだろうか。
本来、オルトロスとは二つの首を持つ地獄の番犬の名だ。
現実には存在しない、空想上の生物。だが、この世界にはそれが実在した。
しかし、それは本当に首を二つ持つ犬がいるわけではなく、ある組織の総称だ。
また、その組織は『政府の犬』とも呼ばれ、その名の通り、政府の命令にしか従わない。
政府からの仕事は、たった一つだけ。
――――死刑執行。
彼らは政府によって、指名手配された罪人を裁く権利を与えられた者たち。
彼らは決して獲物を逃さない……。何処までも、追いかける。
彼らは、来る日も来る日も、罪人を殺す、殺す、殺す………。
彼らは、死の恐怖を知らない。
知らないから、殺せる。殺す力があるから、簡単には死なない。
だが、いずれ彼らも知ることとなる。
死の、本当の恐怖を………。
◇◇◇ ◇◇◇
煉瓦が敷き詰められた薄暗い路地裏の壁際に、中年の男が座り込んでいる。彼は、目の前に立つ少年に何やら必死に訴えていた。
「た、頼む…もう悪さはしない。ち、誓うよッ…だから、だから頼むから…殺さないでくれッ」
怯える男を見下ろす少年の顔からは、一切の感情を感じられない。
「ボリス・アーキン。指名手配書と一致」
少年は、抑揚のない声で決められたセリフを言う。それを聞いた男は顔を青白くさせていた。いい年をした大人が、少年を見上げて頬と股の間をびしょびしょに濡らすなど、滑稽としか言いようのない場面だ。
しかし、彼は羞恥心など微塵も感じていない。そう、もう永遠に恥じることすらできなくなるかもしれないのだ。今はただひたすらに、死を免れることを願っている。
「―――殺さないで…」
ボリスはもう一度、凍りついた声を絞り出して言葉にした。液体が溢れ出る目と、感情のない目が合う。
「…これより、死刑執行を開始」
少年は、無様に許しを請うボリスを見ても、何も感じてはいなかった。少年は、腰に下げていた剣を音もなく引き抜く。少年の行動を目にして、ボリスの声は完全に凍りついた。
そして、白銀に光るそれはボリスの脳天へと振り下ろされる。一瞬、ボリスは自分の頭から噴き出た赤い液を見た。だが、直ぐに意識は途切れる。彼が意識を取り戻すことは永遠に、無かった。
足元の水溜りに沈むものを一瞥して、少年は顔色一つ変えず刃にこびり付いた血を振り払う。
「任務完了」
そう言って、少年はその場を去ろうとした。が、耳元から聞き慣れた声を聞く。
『兄さん。そっちは終わった?』
耳に付けている通信機からは、弟の声が聞こえた。
「ああ」
『そう、なら本部からの伝達。次の仕事だって』
「分かった」
『分かったって、まだ詳しいこと何も言ってないけど…』
「ならさっさと言え」
通信機の向こうからは、溜息と苦笑が漏れ聞こえる。
『――全く…兄さんは横暴なんだから。任務の詳細は噴水の前にいる緑のコートを着た男に訊いて――以上。何か質問は?』
「無い」
『じゃあ、僕は今の仕事を片付けてから合流するよ。……気をつけてね』
弟の言葉に、兄は一泊遅れて返事をする。
「――お前もな…」
またもや苦笑が聞こえた後、通信はプツリと切れた。少年は建物の間から僅かに覗く空を見上げる。
「気をつけて…か。相変わらずだな」
少年は柔らかく目を細め、苦笑した。
視点を空から薄暗い路地へと戻す。その時には、既に少年の目は先程のものへと戻っていた。
「さて、次の仕事だ」
少年の姿は暗闇へと溶け込んで、消えた。