あなたから逃げたかったのに、世界最強の冒険者がどこまでも追ってきます
王都から北へ向かう乗合馬車が出発したのは、夜明け前だった。
薄青い空にはまだ星が残っていて、街道沿いに並んだ建物の屋根は夜露に濡れている。御者が眠そうに欠伸を噛み殺しながら手綱を引くと、二頭の栗毛馬が石畳を踏み、古びた車輪がごとごとと音を立てた。
その揺れる車内の隅で、ネリネは膝の上に置いた鞄を両腕で抱きしめていた。
持ってきたものは少ない。
着替えが二組。薬草採取用の小刀。母から譲られた裁縫道具。干したパンとチーズ。そして、これまで働いて貯めた銀貨が二十七枚。
王都で暮らした六年間が、たったそれだけになった。
けれど、未練がないと言えば嘘になる。
ネリネは小さく息を吐き、窓から遠ざかっていく王都の城壁を見つめた。
冒険者ギルドの薬草鑑定係として働き始めたのは十五歳のときだった。二年前に母を亡くしてからは天涯孤独になったものの、仕事そのものは嫌いではなかった。
冒険者たちが持ち込む薬草を選別し、傷薬や解毒薬の材料になるものを買い取る。時には新人冒険者に採取方法を教え、怪我をして帰ってきた者の応急処置をする。
華やかではない。
給金だって高くない。
それでも、自分の手で生活できることが嬉しかった。
そんな平凡な毎日を壊した男がいる。
王都冒険者ギルド所属、唯一の黒金級冒険者。
単独で災害級魔獣を討伐し、国王から騎士爵を与えると打診されても「面倒だ」の一言で断り、諸外国から提示された莫大な報酬にも興味を示さない男。
ゼルヴァイン・クロウ。
二十七歳。
黒髪に金色の瞳を持つ、恐ろしいほど整った容貌の冒険者だった。
そして。
なぜかその男は、ネリネを愛している。
それも、どう考えても普通ではないくらいに。
「……逃げ切れますように」
思わず漏れた願いは、車輪の音に紛れて消えた。
もちろんゼルヴァインが嫌いなわけではない。
むしろ逆だった。
好きだからこそ、逃げたのだ。
◇
ゼルヴァインと出会ったのは三年前。
まだネリネが十八歳だったころだ。
その日、王都の冒険者ギルドは騒然としていた。
北部に出現した赤竜を討伐した冒険者が帰還したからである。
しかも討伐隊ではない。
一人である。
巨大な竜の素材を収納魔法から取り出した男を見て、冒険者たちが歓声を上げる一方、受付嬢たちは色めき立った。
ネリネも名前だけは知っていた。
ゼルヴァイン・クロウ。
冒険者なら知らない者はいない、生ける伝説。
ところが本人は周囲の熱狂など気にも留めず、討伐証明となる竜核を受付に放り出したあと、薬草買取窓口の前まで歩いてきた。
そして、血まみれの腕をカウンターへ載せたのである。
「悪い。薬をくれ」
あまりに平然と言われたため、ネリネは最初、怪我の深刻さを理解できなかった。
黒い上着の袖が裂けていた。その下から覗く腕には、肘近くから手首まで深い傷が走っている。
「薬を、じゃありません! これ、縫わなければ駄目な傷ですよ!」
思わず声を荒らげると、ギルド内が静まり返った。
後から知った話だが、ゼルヴァインに怒鳴った者は、それまでほとんどいなかったらしい。
本人も珍しいものを見るようにネリネを眺めていた。
「そうなのか?」
大真面目に聞き返されたので、ネリネは呆れた。
すぐに治療室へ連れていき、傷を洗浄する。幸い毒はなかったものの、普通の人間なら失神していてもおかしくない怪我だった。
それなのにゼルヴァインは顔色ひとつ変えない。
ネリネが治癒促進薬を塗りながら説教している間も、黙ってこちらを見ていた。
「いくら強くても身体は一つしかないんですよ。もっと大事にしてください。傷が残ったらどうするんですか」
包帯を巻き終えて顔を上げると、金色の瞳と真正面からぶつかった。
不思議な目だった。
恐ろしいほど鋭いのに、その奥には子供のような好奇心が浮かんでいる。
やがてゼルヴァインが低い声で尋ねた。
「名前は?」
「ネリネです」
答えると、彼は確かめるように一度その名を繰り返した。
それから三年間。
ゼルヴァインは毎日のようにネリネのところへ来るようになった。
最初は怪我をしたから。
次は薬を買うため。
その次は薬草について聞きたいから。
ところが一月も経たないうちに理由すらなくなった。
依頼から帰還すれば、まずネリネを探す。
討伐報酬で珍しい菓子を見つければ持ってくる。地方へ行けば土産を買ってくる。ネリネが寒そうにしていれば翌日には最高級の毛織物が届き、昼食を抜いたと知ればギルドまで料理人を呼ぼうとした。
さすがにそれは止めた。
それでも彼の行動は変わらない。
ネリネが何気なく「この蜂蜜、おいしいですね」と言った翌週には、その蜂蜜を作っている養蜂場そのものを買おうとしていた。
しかも冗談ではなかった。
そういう男なのだ。
ゼルヴァインは自分の持つものを惜しまない。
財産も、時間も、命すらも。
ネリネのためなら当然のように差し出そうとする。
そして二年前。
ネリネが十九歳になった春の日、彼は求婚した。
花束もなかった。
気の利いた演出もなかった。
ギルドの裏庭で、昼休みに干し肉を食べていたネリネの隣へ腰を下ろすと、唐突に言ったのである。
「俺と結婚してくれ」
あまりにも唐突だったので、ネリネは干し肉を喉に詰まらせた。
背中を擦ってもらい、ようやく呼吸が戻ってから問い詰めると、ゼルヴァインは一年以上前から考えていたという。
ネリネは断った。
嫌いだからではない。
釣り合わないと思ったからだ。
ゼルヴァインは平民とはいえ、この国で国王より有名なのではないかと噂される男である。資産は小国の国家予算に匹敵し、彼に求婚した貴族令嬢は両手では数え切れない。
一方のネリネは、薬草師だった母に育てられただけの平民だ。
美貌があるわけでもない。
魔法の才能もない。
ただ薬草に少し詳しいだけ。
だから断った。
ところがゼルヴァインは諦めなかった。
翌月にも求婚された。
その翌月にも。
季節が変わっても。
年が変わっても。
毎回ネリネが断るたびに、彼は少し考えてから「分かった。また今度聞く」と答える。
そして、本当にまた聞くのだ。
そんな関係が続いていた。
ネリネ自身、いつまでも拒めるとは思っていなかった。
むしろ少しずつ、心は傾いていた。
ゼルヴァインは不愛想だが優しい。
強引そうに見えて、ネリネが本気で嫌がることは決してしない。
何より、彼と一緒にいると安心した。
いつか。
本当にいつか。
身分も名声も関係なく、彼の隣にいていいのだと思える日が来たなら。
そのときは求婚を受けよう。
密かにそう思い始めていた。
だからこそ、一週間前に起こった出来事は、ネリネには耐え難かった。
◇
「あなたがネリネね」
ギルドの休憩時間。
呼び出された応接室で待っていたのは、美しい令嬢だった。
淡い金髪。
白磁のような肌。
青い宝石を惜しげもなく散りばめたドレス。
王国でも有数の大貴族、ラディシェル侯爵家の令嬢エルヴィラだった。
ネリネでも名前くらいは知っている。
そして彼女が、ゼルヴァインに求婚していることも。
エルヴィラはネリネを頭から爪先まで眺めたあと、扇の向こうで薄く笑った。
「思っていた以上に普通なのね。ゼルヴァイン様が珍しがるのも分かる気がするわ」
悪意を隠す気もないらしい。
ネリネは黙って頭を下げた。
エルヴィラはテーブルの上へ小さな革袋を置いた。中から聞こえた硬質な音だけで、それなりの額が入っていると分かった。
「王都から消えてちょうだい。田舎なら、この金額で一生暮らせるでしょう?」
ネリネは袋を見つめた。
怒りより先に、妙な虚しさを覚えた。
「お断りします」
静かに答えると、令嬢の笑みが消えた。
けれどネリネにも意地がある。
ゼルヴァインと結婚するつもりがあるかどうかは、自分と彼との問題だ。
金を渡されて消えろと言われる筋合いはない。
ところがエルヴィラは、拒絶されることを予想していたらしい。
革袋を引き戻すと、代わりに一枚の紙を取り出した。
「あなた、南街区に住んでいるそうね。大家はベルツという老人。隣には三人家族が住んでいて、向かいには小さなパン屋がある」
背筋が冷えた。
エルヴィラは美しい笑みを取り戻していた。
「あなた一人なら、どうなっても構わないでしょう。でも周囲の人々は?」
それは脅迫だった。
ネリネが何か言う前に、さらに追い打ちがかけられた。
ギルドの薬草部門を管理する副支部長も、侯爵家と繋がっているという。
ネリネが残れば、彼女の同僚たちの職も保証できない。
そしてゼルヴァイン本人に相談すれば、その時点で周囲の人間に報復する。
エルヴィラはそう告げた。
もちろん本当に実行する保証などない。
ただの脅しだった可能性もある。
けれどネリネには賭けられなかった。
自分のために誰かが傷つく可能性を無視できるほど強くなかった。
だから辞表を出した。
誰にも行き先を告げず、夜明け前の馬車へ乗った。
エルヴィラから金は受け取っていない。
自分で貯めた金だけを持って、王都から遠く離れた北の町へ行くつもりだった。
ゼルヴァインにも何も伝えなかった。
伝えれば追ってくる。
彼なら侯爵家など恐れないだろう。
しかし、その結果として何が起きるのか分からない。
これでいい。
きっと、これで。
馬車に揺られながら、ネリネは何度もそう言い聞かせた。
それなのに胸の奥が、ずっと痛かった。
◇
王都を出て四日目。
ネリネは街道沿いの宿場町、ルグシュに到着した。
ここからさらに北へ向かえば国境に近くなる。目的地まではまだ六日ほどかかる予定だった。
その夜は宿を取った。
久しぶりに身体を拭き、温かいスープを飲む。
ようやく少し安心できた。
ゼルヴァインほどの冒険者なら、長期間の依頼で王都を空けることも珍しくない。ネリネが辞めたことを知るのは、まだ先かもしれない。
そう考えながら眠りについた。
そして翌朝。
宿の食堂へ下りたネリネは、入口のところで動けなくなった。
窓際の席に男がいる。
黒い旅装。
背中には巨大な剣。
朝日を受けた金色の瞳が、真っ直ぐネリネを見ていた。
「見つけた」
低い声が食堂に響いた。
ネリネは反射的に踵を返した。
走った。
宿の階段を駆け上がり、部屋へ戻って扉を閉める。鍵をかけ、さらに椅子まで押しつけたところで、自分が何をしているのか分からなくなった。
相手は竜を一人で殺す男だ。
木製の扉など意味がない。
ほどなくして足音が近づいた。
扉の向こうで止まる。
「ネリネ」
名前を呼ばれただけで涙が出そうになった。
声を聞くのは、わずか数日ぶりなのに。
ずっと会いたかった。
けれど会ってはいけない。
「帰ってください」
震えないように言ったつもりだったが、最後のところで声が掠れた。
扉の向こうはしばらく静かだった。
やがて、ゼルヴァインの低い声がした。
「理由を聞いたら帰る」
「仕事を辞めたかったんです。それだけです」
我ながら酷い嘘だった。
彼もそう思ったのだろう。
扉越しに深い溜息が聞こえた。
「俺から逃げるために?」
胸が締めつけられる。
ネリネは唇を噛んだ。
ここで認めればいい。
あなたが嫌になった。
もう会いたくない。
そう言えば、さすがのゼルヴァインも諦めるかもしれない。
「……そうです」
絞り出した。
すると扉の向こうから音が消えた。
長い沈黙だった。
耐えられなくなって、ネリネは目を閉じた。
傷つけた。
あの人を。
自分が。
そう思った瞬間、外から静かな声が届いた。
「分かった」
予想していた言葉なのに、心臓を刃物で抉られたようだった。
これでいい。
これで彼は王都へ帰る。
ネリネは自分に言い聞かせた。
ところが次の言葉は、まるで予想していなかった。
「じゃあ、嫌われた理由が分かるまでここにいる」
「え?」
思わず扉へ近づいた。
「帰るって言ったじゃないですか!」
「理由を聞いたら帰ると言った。だが、今のは理由じゃない。嘘だ」
即答だった。
ネリネは言葉を失った。
ゼルヴァインは扉を壊そうとはしなかった。
鍵を開けようともしない。
ただ、その場にいる。
「俺は待つ。お前が話せるようになるまで」
静かな声だった。
責められているわけではない。
怒鳴られているわけでもない。
だからこそ、余計に苦しかった。
結局、ネリネが根負けしたのは二時間後だった。
恐る恐る扉を開ける。
ゼルヴァインは本当に廊下の壁にもたれて座っていた。
普段なら整えられている黒髪は乱れ、旅装には泥がついている。よく見ると目の下には薄い隈まであった。
「……いつ王都を出たんですか」
「お前がいなくなった日の夜」
「どうやってここまで?」
「走った」
あまりにも簡潔な答えに、ネリネは絶句した。
王都から馬車で四日の距離である。
普通なら馬でも二日以上かかる。
嫌な予感がして、彼の足元を見る。
革靴が傷だらけだった。
「まさか、ずっと?」
「途中で馬を借りた。ただ、馬が疲れたから途中から走った」
頭が痛くなった。
ネリネは思わず彼の腕を掴み、部屋へ引っ張り込んだ。
旅装を脱がせると、予想通りだった。
あちこちに擦り傷がある。
魔獣にやられた傷ではない。ろくに休息も取らず追いかけてきたせいだ。
怒りが込み上げた。
「馬鹿じゃないんですか!」
薬箱を取り出しながら叱ると、ゼルヴァインは妙に穏やかな顔をしていた。
ネリネが傷薬を塗る手元を眺めている。
「なんですか」
「いつものネリネだと思って」
胸が詰まった。
それ以上、何も言えなくなる。
ゼルヴァインはネリネの頬へ手を伸ばしかけ、しかし途中で止めた。
触れていいのか迷っているのだと気づいた。
この男が。
魔獣の群れにも怯まない男が。
自分に触れることを怖がっている。
その事実がどうしようもなく悲しかった。
「……嫌いになったわけではありません」
とうとう言ってしまった。
金色の目が見開かれる。
ネリネは俯いた。
そこからはもう隠せなかった。
エルヴィラに呼び出されたこと。
周囲の人間を盾にされたこと。
ギルドの副支部長も関与しているらしいこと。
ゼルヴァインへ知らせれば報復すると脅されたこと。
全部話した。
話し終わっても彼は何も言わなかった。
怖くなって顔を上げる。
ゼルヴァインは笑っていた。
ただし目はまったく笑っていない。
ネリネは三年間付き合ってきて初めて、魔獣たちが彼を恐れる理由を理解した。
「ゼ、ゼルヴァイン?」
「なるほど」
低い声だった。
彼は立ち上がった。
反射的にネリネはその服を掴んだ。
「駄目です!」
「何が?」
「侯爵家へ行くつもりでしょう!」
「行かない」
意外な返事だった。
ほっとしかけたところで、彼は続けた。
「今は」
「今は!?」
ゼルヴァインは再び座った。
そしてネリネの手を取る。
拒まれないと分かると、指を絡ませるように握った。
「まず、お前の安全を確保する。それから王都へ戻って証拠を揃える。侯爵家を潰すのはその後だ」
「潰すって言いました?」
「言った」
「駄目です!」
思わず立ち上がったネリネを、ゼルヴァインは困ったように見上げた。
彼にとっては、本当に何が問題なのか分からないらしい。
ネリネは額を押さえた。
「侯爵家ですよ!? 貴族なんですよ!」
「知っている」
「あなたまで犯罪者になったらどうするんです!」
「殺さない」
「そういう問題ではありません!」
怒鳴ったところで、ゼルヴァインの表情がほんの少し柔らかくなった。
「心配してくれるのか」
ネリネは固まった。
嬉しそうだった。
本当に嬉しそうだった。
こんな状況なのに。
「……しますよ」
諦めて答える。
「好きなんですから」
口に出してから、自分が何を言ったのか理解した。
顔から火が出そうになった。
ゼルヴァインも動かなかった。
数秒。
いや、十秒ほど。
それから彼が立ち上がった。
ネリネは後ずさった。
ゼルヴァインが一歩近づく。
さらに下がる。
とうとう背中が壁についた。
「ネリネ」
逃げ場がなくなったところで、彼の両腕が壁についた。
けれど身体には触れてこない。
金色の瞳だけが、息苦しいほど真剣にこちらを見つめていた。
「今のを、もう一度言ってくれ」
「嫌です」
「頼む」
「絶対嫌です」
「一生に一度の頼みだ」
「あなた、一生に一度を何回使うつもりですか!」
求婚するときにも二度ほど聞いた気がする。
ネリネが睨みつけると、ゼルヴァインはとうとう笑った。
滅多に笑わない男である。
その顔があまりにも嬉しそうだったから、ネリネの抵抗する気力が急速に萎んでいった。
「……好きです」
小さく告げる。
次の瞬間、抱きしめられた。
力は強いのに、苦しくない。
壊れ物を包むような抱擁だった。
ネリネの肩へ顔を埋めたゼルヴァインが、長く息を吐いた。
「よかった」
声が僅かに震えていた。
ネリネはそこで初めて気づいた。
この人は怖かったのだ。
本当に自分から嫌われたのかもしれないと。
「……ごめんなさい」
背中へ腕を回した。
すると抱擁が少しだけ強くなる。
「もう逃げないか?」
ネリネはすぐには答えられなかった。
侯爵家の問題がある。
周囲を巻き込む恐怖も消えていない。
その迷いを察したのか、ゼルヴァインが身体を離した。
「だったら、逃げてもいい」
予想外の言葉だった。
「え?」
「どこまででも追うから」
真顔だった。
冗談ではない。
ネリネはぽかんとしたあと、思わず笑ってしまった。
「普通は、逃げないでくれって言うところですよ」
「逃げるなと言って、お前を縛るのは嫌だ」
ゼルヴァインはネリネの髪を一房だけ掬った。
触れても拒まれないことを確認するように、指先で優しく撫でる。
「だから逃げたいなら逃げればいい。ただし俺は追う。世界の果てでも、海の向こうでも、魔境の底でも探す」
「重いですよ」
「知っている」
「少しくらい直す気は?」
「ない」
即答された。
呆れながらも、胸の奥が甘く疼いた。
ネリネはその感覚を、もう否定できなかった。
◇
その日のうちに王都へ戻ることになった。
ただし馬車ではない。
ゼルヴァインが王都の冒険者ギルドへ連絡すると、翌日の昼には飛竜便が迎えに来た。
黒金級冒険者の権力というものを、ネリネは初めて実感した。
さらに王都へ到着すると、驚くべき事態が待っていた。
ギルド本部の長。
騎士団副団長。
王国財務官。
そして王太子の側近。
そうそうたる面々が会議室に集まっていたのである。
「どういうことですか……」
ネリネが青ざめて尋ねると、ゼルヴァインは平然としていた。
「知り合いに連絡した」
「知り合いの規模がおかしいです」
ネリネは頭を抱えたくなった。
しかも問題は、すでにネリネ個人への嫌がらせという範囲を越えていた。
調査の結果、ギルド副支部長がラディシェル侯爵家から長年にわたり賄賂を受け取っていたことが判明したのである。
特定の冒険者へ不利な依頼を回す。
侯爵家と取引のある商会へ希少素材を優先的に流す。
薬草や魔石の買取価格を操作する。
さらに、ギルドの内部情報まで漏洩させていた。
証拠は次々に見つかった。
それでもネリネには疑問があった。
いくら調査したとはいえ、あまりにも早すぎる。
そう尋ねると、ギルド本部長が苦笑した。
「クロウが以前から怪しいと言っていたんだ。ただ、本人が面倒がって正式に告発しなかった」
ネリネは隣を見る。
ゼルヴァインは目を逸らした。
「……どうして告発しなかったんですか」
「面倒だった」
「本当に面倒だったんですね!?」
思わず声を上げる。
けれど今度は、その面倒くさがりの男が動いた。
ネリネが傷つけられたから。
それだけの理由で。
調査は三日間続いた。
そして四日目。
ラディシェル侯爵家へ王家直属の監査官が入った。
エルヴィラは最後まで、自分が何をしたのか理解していなかったらしい。
侯爵令嬢である自分が平民の女を追い払って何が悪い。
そう主張したという。
だが問題はそこだけではない。
脅迫。
ギルドへの不当介入。
職員への圧力。
そして父親である侯爵が関与した贈収賄と情報漏洩。
積み重なった罪は大きかった。
侯爵は爵位を一代限りの伯爵へ降格され、王都に所有していた屋敷と複数の領地を没収された。
エルヴィラ本人は王都の社交界から事実上追放。
決まっていた縁談も破談になった。
さらに不正へ加担したギルド副支部長は解雇され、横領まで発覚したことで投獄された。
ネリネはその知らせを、自宅で聞いた。
以前の借家ではない。
ゼルヴァインの家である。
「どうしてこうなったんでしょう……」
ソファに座りながら呟いた。
王都へ戻った翌日。
ゼルヴァインは当然のようにネリネを自宅へ連れてきた。
侯爵家の監視が残っている可能性があるから、という理由だった。
それ自体は理解できる。
問題は家だった。
王都北部の高級住宅街。
庭付き三階建て。
使用人十二名。
浴室はネリネが以前住んでいた部屋より広かった。
そして本人は、この豪邸をほとんど使っていなかったらしい。
依頼で外にいることが多いからだ。
「ネリネが住むなら買っておいてよかった」
初日にそう言われた。
ネリネのために買ったわけではないはずなのだが、本人の中ではすでにそういうことになっているらしい。
そして現在。
そのゼルヴァインは、ネリネの隣で書類を読んでいた。
侯爵家に関する最終報告書である。
「軽いな」
不満そうに呟いた。
「何がです?」
「処分」
「充分重いです!」
「お前を脅した」
ゼルヴァインは本気で納得していなかった。
「死刑でもいい」
「駄目です」
「じゃあ国外追放」
「駄目です」
「北方鉱山送り」
「絶対駄目です」
ネリネが睨むと、ようやく黙った。
しかし不満は残っているらしく、眉間には深い皺が寄っている。
ネリネは溜息をつき、その眉間を指で押した。
「もういいんです。私のせいで周りの人が傷つく心配もなくなったんですから」
そう言うと、ゼルヴァインの表情が変わった。
「お前のせいじゃない」
「でも――」
「違う」
声は静かだった。
それでも断固としていた。
「悪いことをした人間が悪い。お前が責任を背負う必要はない」
ネリネは黙った。
ゼルヴァインの大きな手が頬へ触れる。
もう彼は触れることを迷わなくなっていた。
その代わり、一度触れ始めるとなかなか離してくれない。
「次からは俺に言え」
「次があってほしくないですけど」
「何かあったら、だ」
親指が頬を撫でる。
「俺を頼れ。お前一人で抱えて、勝手にいなくなるな」
その声音に滲む痛みを感じて、ネリネは胸が苦しくなった。
「……心配しました?」
「した」
即答だった。
「王都中を探した。川にも落ちていないか調べた。事件に巻き込まれた可能性も考えた。誘拐だった場合に備えて裏社会の連中にも聞いた」
「そこまで……」
「お前が死んでいたらどうしようと思った」
ネリネは息を呑んだ。
金色の目が揺れている。
あの数日間。
自分は彼を傷つけないために逃げたつもりだった。
けれど実際には、何より酷い形で傷つけていたのかもしれない。
「ごめんなさい」
ネリネは彼の手へ自分の手を重ねた。
「もう、黙っていなくなったりしません」
「本当か?」
「はい」
「絶対?」
「絶対です」
するとゼルヴァインはようやく安心したようだった。
しかし次の瞬間。
「なら結婚してくれ」
「どうしてそうなるんですか!?」
あまりにも自然に求婚を挟まれ、ネリネは叫んだ。
ゼルヴァインは真顔で首を傾げた。
「好きだと言った」
「言いましたけど!」
「俺も好きだ」
「知っています!」
「なら問題ない」
「あります!」
これまで何度も繰り返したやり取りだった。
ただ一つだけ違う。
以前のネリネなら、ここで断っていた。
けれど今日は。
返事をしようとして、言葉が出てこなかった。
ゼルヴァインが不思議そうにこちらを見ている。
ネリネは膝の上で指を組んだ。
「……一つだけ条件があります」
彼の目が見開かれた。
「何でも言え」
「何でもは怖いです」
「国が欲しいなら取ってくる」
「いりません!」
本当にやりかねないので慌てて止める。
ネリネは一度深呼吸した。
「私は、あなたに養われるだけの妻にはなりたくありません。薬草の仕事を続けたいです」
「分かった」
「それから、何でも買って与えればいいと思わないこと」
「努力する」
「養蜂場も買わない」
「……努力する」
「そこは約束してください」
「分かった」
ものすごく残念そうだった。
ネリネは笑いそうになるのを堪えた。
「あと、無茶をしない。怪我を隠さない。食事を抜かない。依頼から帰ったらちゃんと休む」
「多くないか?」
「嫌なら結婚しません」
「全部守る」
即答だった。
ネリネはとうとう吹き出した。
ゼルヴァインは笑われた理由が分からないらしく、怪訝そうな顔をしている。
こんな人を好きになったのだ。
面倒で。
重くて。
恐ろしいほど強くて。
けれど、自分にだけは驚くほど優しい男を。
「じゃあ」
ネリネは彼の手を握った。
「よろしくお願いします」
しばらく反応がなかった。
「……ゼルヴァイン?」
「それは」
珍しく声が掠れている。
「結婚する、という意味か?」
「ほかに何があるんですか」
次の瞬間。
視界が反転した。
「きゃっ!」
抱き上げられたのだと理解したときには、ゼルヴァインの腕の中にいた。
「ちょっと、下ろしてください!」
「無理だ」
「どうして!?」
「嬉しい」
あまりにも真っ直ぐ言われて、何も言えなくなる。
ゼルヴァインはネリネを抱き上げたまま、額を肩へ押しつけた。
「三年待った」
その声に、ネリネは胸が熱くなった。
「二年でしょう。最初の一年は求婚していませんでしたよ」
「俺の中では三年だ」
「出会ったときからですか?」
「ああ」
知らなかった。
ネリネは驚いて彼を見る。
ゼルヴァインは少し考え、懐かしむように目を細めた。
「あの日、赤竜を倒して戻ったとき、腕が裂けていてもどうでもよかった。なのにお前だけが本気で怒った」
「怪我人だったからです」
「知っている。それでも嬉しかった」
彼の腕に少し力が入った。
「俺が怪我をすることを、本気で嫌がってくれる人間がいるんだと思った」
ネリネは何も言えなくなった。
強いから。
ゼルヴァインだから。
誰もが彼なら大丈夫だと思っていた。
本人もそう思っていたのだろう。
けれどネリネにとっては違った。
伝説の冒険者であろうと、血を流していれば怪我人である。
痛いものは痛い。
死ぬときは死ぬ。
だから心配した。
それだけだった。
「それからずっと好きだった」
囁かれた言葉が胸の奥へ落ちていく。
「お前が俺を好きになるまで待つつもりだった。十年でも二十年でも」
「おばあちゃんになってしまいますよ」
「それでもいい」
「あなたは本当に……」
重い。
けれど嫌ではなかった。
むしろ今は、その重さが愛おしい。
ネリネは彼の首へ腕を回した。
「私も好きです」
今度は逃げずに言えた。
ゼルヴァインの顔が近づいた。
けれど唇が触れる直前で止まる。
「口づけてもいいか?」
ネリネは少し笑った。
こんなところだけ律儀なのだ。
「はい」
唇が重なった。
最初は触れるだけだった。
けれど離れたあと、もう一度。
今度は先ほどより長い。
ネリネは目を閉じ、彼の服を握った。
ようやく離れたときには、二人とも少し息が乱れていた。
「……もう一度」
ゼルヴァインが言う。
「駄目です」
「なぜ?」
「一回許したら何回するつもりなんですか」
「できるだけ」
「駄目です」
ネリネが額を押して遠ざけると、不満そうな顔をされた。
恐ろしい魔獣を睨むときと同じ顔である。
けれどネリネにはもう怖くない。
「結婚したら毎日できるんですよ」
宥めるつもりで言った。
言ってから失敗したと思った。
ゼルヴァインの目が光った。
「明日結婚しよう」
「しません!」
「なぜだ」
「準備があります!」
「必要ない」
「私には必要です!」
結局、結婚式は三か月後になった。
◇
婚約した翌日から、ネリネは別の意味で逃げたくなった。
ゼルヴァインの溺愛が悪化したのである。
もともと酷かった。
婚約してからは遠慮までなくなった。
朝起きれば迎えに来る。
食事は隣。
出勤するときはギルドまで送る。
帰りも迎えに来る。
ネリネが薬草採取へ行くと言えば、最高位冒険者が護衛として同行する。
森で角兎が一匹出ただけなのに、災害級魔獣と戦うような顔で剣へ手をかけたときには、本気で止めた。
さらに問題なのが贈り物だった。
「これは何ですか」
ある日の朝。
庭に停まった豪華な馬車を前に、ネリネは尋ねた。
「馬車だ」
「それは分かります」
「お前の通勤用」
「ギルドまで歩いて十五分です!」
「雨の日に濡れる」
「傘があります!」
馬車は返品させた。
翌週には宝石商が来た。
指輪だけなら分かる。
しかし首飾り、耳飾り、腕輪、髪飾りまで並べ始めた。
全部最高級品だった。
「ゼルヴァイン」
「似合うと思う」
「そういう問題ではありません」
結局、婚約指輪だけ受け取った。
すると翌日は服飾商が来た。
「ゼルヴァイン!」
「俺は何も頼んでいない」
「本当ですか?」
「本当だ」
珍しく無実だった。
屋敷の使用人たちが、未来の女主人へ贈り物をしたいと言い出したらしい。
ネリネは頭を抱えた。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
これまでずっと母と二人で暮らし、母が亡くなってからは一人だった。
帰る場所に誰かがいる。
自分の帰宅を待ってくれる。
食卓を囲む相手がいる。
そんな当たり前の温かさを、ネリネは初めて知った。
そして三か月後。
二人は結婚した。
大聖堂ではない。
ゼルヴァインが所有する王都郊外の小さな屋敷、その庭だった。
招待客も多くない。
ギルドの仲間たちと、ネリネが世話になった人々だけ。
国王から参列したいという打診があったらしいが、ネリネが卒倒しかけたのでゼルヴァインが断った。
代わりに巨大な祝いの品が届いた。
式の日。
白い花で飾られた庭を歩きながら、ネリネは少しだけ泣いた。
母にも見てほしかった。
そう思ったからだ。
祭壇の前で待っていたゼルヴァインは、ネリネを見ると動かなくなった。
黒を基調とした礼装姿だった。
いつもよりさらに整った姿に、こちらまで緊張する。
彼の前へ着く。
「……変ですか?」
不安になって尋ねた。
返事がない。
「ゼルヴァイン?」
ようやく彼が息を吐いた。
「綺麗だ」
たった一言。
けれど今まで聞いたどんな褒め言葉より嬉しかった。
誓いを交わした。
指輪を交換した。
そして口づける。
拍手が庭いっぱいに広がった。
ネリネは恥ずかしくてすぐ離れようとしたのだが、腰へ回された腕がそれを許してくれなかった。
予定よりかなり長い口づけになり、参列していた冒険者たちから囃し立てられた。
ようやく解放されたとき、ネリネは真っ赤になって夫を睨んだ。
「長いです!」
「三年待った」
「それを免罪符にしないでください!」
ゼルヴァインは珍しく声を立てて笑った。
その笑顔を見た瞬間。
まあいいか、とネリネは思ってしまった。
◇
結婚から半年後。
ネリネは王都冒険者ギルドの薬草部門で働き続けていた。
ただし以前とは少し立場が違う。
薬草鑑定係から正式な薬草師へ昇格したのである。
ゼルヴァインの口利きではない。
資格試験を受け、自分の力で合格した。
その日は認定証を抱えて屋敷へ帰った。
玄関を開けると、使用人より先にゼルヴァインが来た。
「おかえり」
「ただいま帰りました」
このやり取りにも、ようやく慣れた。
認定証を見せる。
ゼルヴァインは自分が黒金級へ昇格したときより嬉しそうな顔をした。
「祝いをしよう」
「普通のでお願いしますね」
「分かっている」
「国王陛下は呼ばないでください」
「分かっている」
「建物も買わないでください」
そこで返事が止まった。
ネリネは目を細めた。
「ゼルヴァイン?」
「薬草店があったほうが便利かと思って」
「買ったんですか!?」
「まだ買っていない」
「まだ?」
「候補は三軒ある」
「却下です!」
結局、その日の夕食は使用人たちも交えた小さな祝いになった。
食後。
二人で庭を歩いた。
秋の夜風が心地よい。
空には満月が浮かんでいる。
ゼルヴァインがネリネの手を握った。
結婚して半年経っても、この人は毎日のように手を繋ぎたがる。
「寒くないか?」
「大丈夫です」
「上着を持ってくる」
「大丈夫ですって」
「風邪を引く」
心配性も相変わらずだった。
ネリネは笑いながら彼の腕へ身体を寄せた。
「こうすれば暖かいです」
ゼルヴァインが固まった。
未だにネリネから甘えると弱い。
そのことを最近知った。
耳が僅かに赤くなっている。
「……ネリネ」
「なんですか?」
「もう少し近く」
「充分近いですよ」
「足りない」
「重いです」
「知っている」
いつもの返事だった。
ネリネは笑った。
王都から逃げたあの日。
もう二度と会わないつもりだった。
自分さえ消えれば全部丸く収まると思っていた。
今なら分かる。
間違っていた。
逃げることそのものが悪いわけではない。
怖ければ逃げてもいい。
疲れたら立ち止まってもいい。
けれど、一人ですべてを背負う必要はなかった。
「ゼルヴァイン」
ネリネが呼ぶと、彼がこちらを見る。
「もし私が、あのときもっと遠くまで逃げていたらどうしていました?」
少し意地悪な質問だった。
ゼルヴァインは考えることすらしなかった。
「追った」
「国外まで行っても?」
「追う」
「海を渡っても?」
「追う」
「世界の反対側まで逃げても?」
「追う」
予想通りだった。
ネリネは笑った。
「諦めるという選択肢はないんですね」
「ない」
ゼルヴァインは足を止めた。
月明かりの下、金色の瞳がネリネを映す。
「お前が俺を嫌いなら、無理に連れ戻したりはしない。ただ、困っているなら助けたい。泣いているならそばにいたい。俺を好きなのに一人で逃げているなら、何度でも追う」
大きな手が頬を包んだ。
「見つけるまで」
その言葉が、胸の奥を甘く締めつける。
ネリネは彼の手へ頬を寄せた。
「じゃあ、もう追いかけっこは終わりですね」
「なぜ?」
「もう逃げませんから」
ゼルヴァインが目を細めた。
そして、とても大切なものを確かめるように尋ねる。
「ずっと?」
「ずっとです」
「死ぬまで?」
「そうですね」
「死んだあとも?」
「それは分かりませんよ」
「俺は追う」
「死後まで追わないでください!」
思わず笑ってしまった。
ゼルヴァインも笑う。
それから彼はネリネを抱き寄せた。
胸へ耳を当てると、規則正しい鼓動が聞こえる。
この音が好きだった。
自分より遥かに強い人なのに、ここにちゃんと生きているのだと分かるから。
「好きだ」
頭上から落ちてきた言葉に、ネリネは目を閉じた。
毎日言われる。
朝にも。
夜にも。
依頼へ出る前にも。
帰ってきたあとにも。
それでも飽きることはなかった。
「私も好きです」
返すと、腕の力が強くなる。
少し苦しい。
けれど離してほしいとは思わない。
あの日、王都から逃げた自分に教えてあげたい。
あなたは四日かけて逃げるけれど。
その男は、それより速く追ってくる。
どれだけ遠くへ行っても。
どれだけ隠れても。
きっと見つけてしまう。
そして見つけたあと、一生離すつもりなどない。
覚悟しておいたほうがいい。
世界で一番強くて。
世界で一番重くて。
どうしようもないほど一途な男に。
あなたはこれから、嫌というほど愛されるのだから。
◇
なお、その一年後。
王都冒険者ギルドの近くに、新しい薬草店が開店した。
店主はネリネ・クロウ。
薬草の販売だけでなく、若い冒険者へ薬草採取の知識を教える小さな教室も併設されている。
ネリネが長年思い描いていた店だった。
もちろん開店資金は自分で貯めた。
夫からは借りていない。
土地も自分で探した。
建物も中古物件を借りた。
それなのに開店初日。
店の裏手に見覚えのない建物が増えていた。
「ゼルヴァイン」
嫌な予感を覚えながら夫を呼ぶ。
ゼルヴァインは素知らぬ顔をしていた。
「あれは何ですか」
「倉庫」
「私、借りてませんよね?」
「ああ」
「誰のです?」
「俺のだ」
ネリネは目を閉じた。
「何を入れるんです?」
「薬草」
「どうして?」
「お前が使うと思って」
やっぱり。
問い詰めた結果、さらに恐ろしい事実が判明した。
ゼルヴァインは希少薬草を安定供給するため、南部にある広大な農園と契約していた。
北方からは氷結草。
西方からは月光花。
南方からは赤蜜草。
さらに東の森に生息する希少な治癒茸まで定期輸送する予定だという。
「やりすぎです!」
「そうか?」
「私の店ですよ!?」
「知っている」
「小さな薬草店なんです!」
「いずれ大きくなる」
「なりません!」
店先で夫婦喧嘩を始めた二人を、ギルドの冒険者たちが笑いながら眺めていた。
結局、倉庫は返品できなかった。
ただし大量の薬草については、冒険者ギルドの治療院へ格安で卸すことになった。
結果として治療薬の価格が下がり、多くの冒険者が恩恵を受けた。
ネリネとしては複雑だった。
夫を叱りたいのに、人助けになってしまっている。
「次からは相談してください」
閉店後。
帳簿を確認しながら念を押した。
向かいに座ったゼルヴァインは素直に頷く。
「分かった」
「本当に?」
「ああ」
「勝手に何か買わない?」
「買わない」
怪しい。
ネリネがじっと見つめると、ゼルヴァインが目を逸らした。
「……何か買いましたね?」
「買っていない」
「じゃあ何をしたんです?」
沈黙。
ネリネはさらに目を細めた。
やがて観念したゼルヴァインが口を開く。
「山を一つ借りた」
「山!?」
「薬草を育てるために」
「ゼルヴァイン!」
ネリネの声が店内に響く。
夫はまったく反省していなかった。
むしろ怒っている妻を見る目が嬉しそうですらある。
「何で嬉しそうなんですか!」
「昔を思い出した」
「何の話です?」
「初めて会った日も、お前は俺を怒っていた」
そう言われて、ネリネは言葉に詰まった。
三年前。
血だらけの腕を平然と差し出してきた男。
それを見て怒鳴った自分。
すべてはそこから始まった。
「……だからって怒らせないでください」
「善処する」
「善処じゃなくて約束です」
「分かった」
ゼルヴァインが立ち上がる。
そしてネリネのところまで来ると、背後から抱きしめた。
「ちょっと。仕事中ですよ」
「閉店した」
「帳簿が残っています」
「明日でいい」
「駄目です」
口では叱りながらも、ネリネは腕を振りほどかなかった。
肩へ顎を載せられる。
「ネリネ」
「はい?」
「幸せか?」
唐突だった。
ネリネは帳簿から顔を上げた。
窓の外には夜の王都が広がっている。
自分の店。
好きな仕事。
帰る家。
そして、背中には大好きな人の温もり。
答えなど考える必要もなかった。
「幸せですよ」
そう言うと、ゼルヴァインは安心したように息を吐いた。
ネリネは笑う。
「あなたは?」
「幸せだ」
「そうですか」
「ああ」
抱きしめる腕がまた少し強くなった。
「だから怖い」
思いがけない言葉だった。
ネリネは振り返った。
「何がです?」
「失うのが」
最強の冒険者が。
竜すら一人で倒す男が。
こんな顔をする。
ネリネは身体の向きを変え、彼と向き合った。
「失いませんよ」
「絶対とは言えない」
「そうですね」
人間だから。
いつかは死ぬ。
事故もある。
病気もある。
未来のすべてを約束することなど誰にもできない。
だからネリネは、別の約束をした。
「でも、私は自分からあなたの前からいなくなったりしません」
ゼルヴァインがこちらを見る。
「もう逃げません」
あの日、宿屋の扉越しに交わした言葉を思い出す。
ゼルヴァインは長い間黙っていた。
それから、ネリネの左手を取る。
薬指には結婚指輪がある。
彼はそこへ静かに口づけた。
「約束だ」
「はい」
「破ったら追う」
「だから逃げませんって」
「念のためだ」
「相変わらず重いですね」
「嫌か?」
ネリネは少し考えるふりをした。
夫の表情が僅かに緊張する。
それがおかしくて、笑ってしまう。
「いいえ」
ネリネは背伸びをして、自分から彼の唇へ口づけた。
驚いた金色の瞳が見開かれる。
すぐに離れる。
「大好きですよ」
言った瞬間。
ゼルヴァインの目つきが変わった。
ネリネは嫌な予感を覚えた。
「……帰るぞ」
「帳簿がまだ」
「明日だ」
「駄目です」
「ネリネ」
「駄目です」
「好きだ」
「それで誤魔化されません」
「愛している」
「増やしても駄目です」
「一生大事にする」
「知っています」
そこでネリネは笑った。
ゼルヴァインも、少し遅れて笑った。
窓の外には、穏やかな夜が広がっている。
もう逃げる必要はない。
追いかけてもらう必要もない。
それでもきっと、この先も何度となく喧嘩をする。
ゼルヴァインは勝手に何かを買うだろう。
ネリネは怒るだろう。
彼は反省した顔をしながら、たぶん半分くらいしか反省しない。
それでもいい。
一緒に怒って。
一緒に笑って。
帰る場所を同じにして。
今日も明日も、その次の日も。
二人で生きていけばいい。
かつて逃げた女は、ようやく自分から男の手を握った。
追い続けた男は、その手を決して強く掴みすぎることなく、それでも二度と離れないよう大切に握り返した。
そして二人は、その夜も並んで家へ帰る。
世界最強と呼ばれる冒険者は、妻が石畳の小さな段差につまずいただけで大騒ぎし、とうとう途中から彼女を抱き上げてしまった。
ネリネが人目を気にして下ろせと怒っても、夫は聞かない。
「怪我をしたら困る」
「この程度で怪我しません!」
「念のためだ」
「恥ずかしいんです!」
「俺は嬉しい」
「あなたの感想は聞いてません!」
夜の王都へ、ネリネの声が響いた。
通りすがりの冒険者たちが笑っている。
けれどゼルヴァインは気にも留めない。
腕の中にいる妻だけを見つめている。
ネリネはしばらく抵抗していたものの、やがて諦めて彼の胸へ額を預けた。
規則正しい鼓動が聞こえた。
ああ。
やっぱり、この音が好きだ。
そう思ってしまったから、もう怒れなかった。
「ゼルヴァイン」
「なんだ?」
「明日は歩いて帰りますからね」
「ああ」
「絶対ですよ」
「努力する」
「約束してください!」
また笑い声が響く。
そんな二人を、月だけが静かに見下ろしていた。
逃げても。
隠れても。
遠く離れても。
追いかけてくる人がいる。
けれど今のネリネは知っている。
それは恐ろしいことではない。
少なくとも、自分にとっては。
追いついたあとで無理やり連れ戻すのではなく、隣を歩いてくれる人だから。
泣けば涙を拭い。
怖ければ守り。
間違えれば一緒に考え。
そしてネリネが自分の足で歩き出すまで、いつまででも待ってくれる男だから。
だからもう、逃げない。
この重すぎる愛情を。
呆れるほど一途な男を。
今度は自分から選ぶ。
「ねえ、ゼルヴァイン」
夫の腕の中でネリネは笑った。
「私を見つけてくれて、ありがとう」
足が止まった。
ゼルヴァインは何も答えなかった。
ただ、ネリネを抱く腕が震えた。
やがてその額が、彼女の額へそっと重なる。
「何度でも見つける」
低く、優しい声だった。
「お前がどこへ行っても」
ネリネは目を細めた。
「じゃあ、迷子になっても安心ですね」
「ああ」
「でも、もうあなたからは逃げませんよ」
「知っている」
「それでも追うんですか?」
「追う」
「どうして?」
ゼルヴァインは当然のことのように答えた。
「お前を愛しているから」
困った夫である。
本当に。
どうしようもないほど。
ネリネは笑いながら彼の首へ腕を回した。
今度の口づけは、どちらからともなく重なった。
そして――。
逃げた女と、追いかけた男の物語は、そこで終わらない。
二人にとっては。
ようやくそこから。
同じ道を歩く物語が始まったのだった。
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