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貧乏令嬢は婚談を諦めて高級料理を楽しんでいたら、性格が悪いと噂の侯爵様に求婚されました

作者: 星きあさ
掲載日:2026/05/22


 レナ・フォーゲル伯爵令嬢は、金に困っていた。


 正確に言えば、フォーゲル伯爵家そのものが困っていた。


 屋敷の屋根は雨漏りし、馬車は坂道でよく止まり、庭園では花よりも食べられる野草のほうが大切にされている。父は善良だが商才がなく、母は節約上手だが、節約するものがそろそろ尽きていた。


 だから、エーデル侯爵家から見合いの話が来たとき、レナは迷わず言った。


「お母様。行きます」


「レナ、本当にいいの? お相手は、あのコンラート・エーデル侯爵よ」


「ええ。お金持ちですもの」


「言い方」


 母にたしなめられたが、事実なので仕方がない。


 コンラート・エーデル侯爵。


 若くして侯爵位を継いだ大貴族で、広大な領地と莫大な資産を持つ男。漆黒の髪に、冷たい青の瞳。彫刻のように整った顔立ちで、社交界の令嬢たちが一度は憧れる美貌の持ち主だという。


 ただし、性格が悪い。


 ――と、社交界では言われている。


 見合いの席では令嬢を値踏みするような目で見て、ろくに会話もせず、失礼なことを平然と言うらしい。


 あまりにも婚談がまとまらないため、社交界では陰でこう笑われていた。


 ――あの方、国内すべての年頃の令嬢とお見合いしたんじゃないかしら。


 もちろん、本当にそういうわけではない。


 ただ、それくらい婚談が決まらない男として有名だった。


 もっとも、コンラート本人も結婚にはあまり乗り気ではないらしい。


 宝石、ドレス、流行の菓子店、夜会で誰が誰に微笑んだかという噂話。そうした話題を楽しそうに語る令嬢たちにも、彼はほとんど興味を示さないのだという。


 代わりに口にするのは、領地の話ばかり。


 魔の森の管理。害獣被害。狩猟場の整備。冬前の備蓄。村に下りてくる魔物の対処。


 見合い相手の令嬢たちは、エーデル侯爵領の広さや屋敷の豪華さには興味を示しても、魔の森の話になると、たいてい困ったように微笑むらしい。


 その結果、コンラート侯爵は退屈そうに黙り込み、態度が悪くなる。


 そして、相手を怒らせる。


 そんな男との見合い話が、なぜ貧乏伯爵家に舞い込んだのか。


 理由は単純だった。


 他に受ける令嬢が、少なくなってきたのである。


 とはいえ、フォーゲル伯爵家にとっては願ってもない話だった。


 何しろ相手には金がある。


 それも、雨漏りする屋根を直し、冬支度に困る領民へ穀物を配り、弟妹にまともな肉料理を食べさせられるくらいには、十分すぎるほどに。


 だからレナは、借り物の淡い若草色のドレスに袖を通し、できる限り淑女らしく背筋を伸ばして、王都でも名高い高級レストランの個室に座っていた。


 目の前には、噂の侯爵がいる。


 コンラート・エーデルは、悔しいほど美しい男だった。


 さらりと流れる黒髪。冷たい湖のような青い瞳。高い鼻梁に、薄く整った唇。


 これで性格さえまともなら、社交界の令嬢たちが放っておかなかっただろう。


 だからレナは、にこやかな微笑みを浮かべ、淑女らしく背筋を伸ばしていた。


 要するに、全力で猫を被っていた。


 だが、侯爵はため息をつき、あきらかに退屈そうに言った。


「……君も、これまでの令嬢と変わらないようだな。どうせ俺の財産目当てだろう」


 レナは心の中で、静かにうなずいた。


(まあ、そうですね)


 そこは否定できない。


 けれど、口に出すほど愚かではないので、レナはにこりと微笑んだ。


「本日はこんなに素敵なお店にお招きいただき、ありがとうございます」


「否定はしないのか」


「侯爵様ほどのお立場でしたら、そうお考えになるのも無理はありませんわ」


 コンラートの眉が、わずかに動いた。


 レナは心の中で、早々に結論を出した。


(ああ、やっぱり噂通りの方なのね)


 美形で金持ちでも、毎日この調子では胃が痛くなる。


 これは婚談成立など無理だ。


 けれど、レナは悲観しなかった。


 なぜなら、ここは王都でも名高い高級レストラン。


 そして、目の前には磨き抜かれた銀の食器と、ふっくらした白いパンが置かれている。


(どうせ侯爵様と本当に婚談を成立できるとは思ってなかったわ。今日は、こんなに高そうな食事にありつけただけで感謝しないと)


 ちょうどその時、前菜が運ばれてきた。


 白い皿の上には、薄く切られた果実と葉野菜、香ばしく炒った木の実が美しく盛られている。淡い黄金色のドレッシングがかかり、爽やかな香りがふわりと広がった。


 レナの目が、きらりと輝く。


「まあ……」


 思わず声が漏れた。


 レナは美しく盛りつけられた前菜を、そっとひと口味わった。


(なんて美味しいの……!)


 レナは我慢できず、給仕に尋ねた。


「失礼ですが、この果実はサラダに入れても合うのですね。甘みが強いものだと思っていましたが、酸味のあるドレッシングと合わせると、こんなにさっぱりするなんて」


 給仕の青年は少し驚いた顔をしたが、すぐに丁寧な笑みを浮かべた。


「はい。こちらは白蜜果でございます。熟しきる前のものを使いますと、甘みよりも香りと歯ざわりが立ちます」


「なるほど。熟す前の白蜜果……。うちの庭にも一本あります。いつも甘くなるまで待っていましたけれど、今度早めに摘んで試してみます」


 向かいに座るコンラートが、無言でこちらを見ている。


 だがレナの意識は、すでに皿の上に釘づけだった。


 次に運ばれてきたのは、根菜のポタージュだった。


 ひと口飲んだ瞬間、レナはまた顔を上げる。


「こちらの根菜は、この地域特有のものなのですか?」


「はい。王都近郊ではあまり出回らない、北西部産の月灯根でございます」


「月灯根! 聞いたことはあります。火を通すと甘みが増す根菜ですよね。こんなに滑らかになるのですね。帰りに市場で探してみます。種芋もあるかしら……」


「この時期でしたら、中央市場の西通りに並ぶことがございます」


「ありがとうございます。行ってみます」


 レナは真剣にうなずいた。


 そして次の肉料理が運ばれてきた瞬間、完全にスイッチが入った。


 皿の上には、香草をまとった肉が美しく盛りつけられている。表面は香ばしく焼かれ、中は柔らかそうに肉汁を含んでいた。


 レナは思わず身を乗り出す。


「この肉は一角ウサギですか?」


「はい。香草焼きでございます」


「やっぱり。臭みを消すのに何のハーブを使われています? ローズマリー……だけではないですよね。白霧草ですか?」


 給仕は、今度こそ目を丸くした。


「お客様、よくお分かりで。白霧草と、少量の岩塩花を使っております」


「岩塩花! なるほど、だから後味が重くないのですね。今度うちでも栽培してみたいわ。白霧草は湿り気のある木陰、岩塩花は日当たりのいい痩せた土のほうが向いているから、場所を分ければいけるかしら」


 そこまで言って、レナはようやく気づいた。


 ここは見合いの席だった。


 そして目の前には、金持ちで美形で性格が悪いと評判の侯爵がいる。


 レナはそっと背筋を伸ばし、淑女らしい微笑みを取り戻そうとした。


「……失礼いたしました」


     ◇


 コンラートは、目の前の令嬢をじっと見ていた。


 最初は、また同じだと思っていた。


 淡い若草色のドレスを着た伯爵令嬢は、礼儀正しく微笑み、淑女らしく背筋を伸ばして座っていた。


 だが、その微笑みはどこか作り物めいていた。


 どうせ、エーデル侯爵家の財産に興味があるのだろう。


 そう思ったから、わざと失礼なことを言った。


 コンラート自身、自分の態度が褒められたものではないことは分かっている。


 友人たちからも、顔を合わせるたびに言われていた。


「いい加減、結婚しろ。侯爵家の当主がいつまでも独り身でどうする」


 そのたびにコンラートは渋々見合いに出席し、またひとつ婚談を壊してきた。


 宝石、ドレス、流行の菓子店、夜会で誰が誰に微笑んだかという噂話。


 そうした話題を楽しそうに語る令嬢たちを、コンラートは否定するつもりはなかった。


 ただ、自分がその話を笑顔で聞ける男ではなかっただけだ。


 コンラートの関心は、いつも領地にあった。


 魔の森の管理。害獣被害。狩猟場の整備。冬前の備蓄。村に下りてくる魔物の対処。


 だが、そうした話を見合いの席で口にすると、たいていの令嬢は困ったように微笑む。


 そしてコンラートは退屈し、黙り込み、態度が悪くなる。


 その結果、婚談は壊れる。


 今日も、きっと同じだろう。


 そう思っていた。


 けれど、レナ・フォーゲルは違った。


 彼女は前菜を見た瞬間、目の色を変えた。


 白蜜果の熟し具合。月灯根の産地。白霧草と岩塩花の使い分け。


 ただ美味しいと喜ぶだけではない。食材を見て、土地を見て、育て方まで考えている。


 借り物らしいドレスを着て、淑女らしく取り繕おうとしているくせに、興味の向く先がまるで違う。


 コンラートは、久しぶりに退屈していなかった。


「お前は、思ったことがすべて口に出るんだな」


 口にした声は、いつものように冷たく聞こえただろう。


 だがコンラート自身は、ただ確認しただけだった。


     ◇


 冷たい指摘だった。


 レナは、へらりと笑った。


「ええ、そうなんですの。家族にはいつも注意されるのですが、つい癖で。煩わしくて恐れ入ります」


「……煩わしいと言われ慣れている返しだな」


「はい。わりと」


 コンラートは、初めて少しだけ表情を変えた。


 呆れているような、面白がっているような顔だった。


「料理に詳しいのか?」


「料理に詳しいといいますか、野菜を作ったり、肉を狩ったりしていますので、興味があるんですよね」


「肉を狩る?」


「あ、びっくりしますよね。うち、すごく貧乏なんですよ」


 レナは明るく笑った。


「食費を浮かせるには、自分で採るのが一番ですから」


 コンラートは黙り込んだ。


 その青い瞳が、先ほどまでよりもわずかに鋭くなったように見えた。


「……一角ウサギを、お前が狩るのか?」


 侯爵は鼻で笑った。


 レナは、まあそうなるよね、と思った。


 今の自分は、借り物とはいえ淡い色のドレスを着た貴族令嬢だ。森で泥にまみれ、ナイフを握って走り回る姿など、想像できるはずがない。


「わたしの加護は《狩猟の加護》なんです。一角ウサギ程度なら、投げナイフで捕まえられますよ。ヒュンって」


「……ヒュン」


「はい。ヒュンです」


「狩猟の加護なのか」


「ええ。一応これでも貴族令嬢なのに、面白いですよね」


 レナは軽く笑った。


 自分ではもう慣れているが、初対面の相手にはたいてい驚かれる。


 しかしコンラートは、馬鹿にしたように笑うでもなく、じっとレナを見つめていた。


「ああ、面白いな」


 その声は、先ほどまでの冷たく退屈そうなものとは違って聞こえた。


「今までで一番大きい獲物はなんだ?」


「これまでで一番大きかったのは、大牙猪ですね」


「大牙猪だと!?」


 コンラートが目を見開いた。


 大牙猪。


 馬車ほどの巨体と、太い牙を持つ魔猪である。畑を荒らすだけでなく、興奮すれば柵も納屋も突き破るため、村ではもっとも恐れられる害獣のひとつだった。


 レナは、少し恥ずかしそうに笑う。


「畑を荒らしていたので、罠にかけて動きを鈍らせてから、斧で喉を狙いました」


「……斧で」


「はい。父の古い伐採斧です。あの時は刃こぼれしてしまって、鍛冶屋さんにものすごく怒られました」


 コンラートは、しばらく言葉を失ったようにレナを見つめていた。


 淡い若草色のドレスを着て、できる限り淑女らしく座っているつもりなのに、話している内容は完全に猟師のそれである。


 さすがにこれは、侯爵様も引いたかもしれない。


 レナは慌てて口元を押さえた。


「あ、すみません。食事中にする話ではありませんでしたね」


     ◇


 コンラートは、目の前の令嬢から目を離せなかった。


 淡い若草色のドレスを着た、細い伯爵令嬢。


 けれど、その口から出てくるのは、熟練の猟師のような話ばかりだった。


 一角ウサギを投げナイフで仕留める。


 大牙猪を罠にかけ、斧で喉を狙う。


 食材をただ食べるだけでなく、育て方を考え、香草の使い分けに気づき、土地に合うかどうかまで思案する。


 これほど面白い令嬢が、これまでの見合い相手の中にいただろうか。


 いや、いなかった。


 魔の森を抱えるエーデル侯爵領では、優雅に微笑むだけの夫人など必要としていない。


 もちろん社交も大切だ。


 だが、それ以上に必要なのは、領地を知ろうとする目と、現実から逃げない胆力だった。


 レナ・フォーゲルには、それがある。


 コンラートは、ようやく見つけたのだと思った。


「いや、素晴らしい」


     ◇


「え?」


「君は素晴らしい」


 レナは瞬きをした。


 先ほどまで氷のようだった青い瞳が、今は獲物を見つけた猛禽のように輝いている。


「ぜひ我が領に来てほしい」


「え?」


「我がエーデル侯爵領には、魔の森がある。魔物の管理に長年苦労していた。普通の令嬢なら話を聞いただけで青ざめるが、君なら違う」


「あの、侯爵様?」


「共に狩猟をしよう」


「え? なにをおっしゃっておられるんですか?」


「結婚してほしい」


「話が急すぎませんか!?」


 レナは思わず椅子から腰を浮かせた。


 つい先ほどまで、侯爵は明らかに見合いに興味がなかったはずだ。


 それがなぜ、一角ウサギと大牙猪の話をしただけで求婚になるのか。


 少なくとも、コンラートは冗談を言っている顔ではなかった。


「俺は、見合いというものが嫌いだった」


(でしょうね)


 レナは心の中で相槌を打つ。


「宝石やドレス、流行の店、誰が誰と踊ったかという噂話。そういう話題が悪いとは言わない。だが、俺にはどうしても興味が持てなかった」


 コンラートは、少しだけ苦々しげに息を吐いた。


「俺の領地には魔の森がある。魔物被害もある。冬の備蓄を誤れば、村が苦しむ。だが、その話をすると、たいていの令嬢は困ったように笑うだけだった」


「それで、あの態度に?」


「否定はしない。俺は、興味のない人間から、さらに興味のない話を聞くのが苦手だ」


「なるほど。露骨に態度に出てましたもんね」


「そうだな。どうもこればかりは我慢ができないんだ」


 そこは認めるのか。


 レナは、少しだけ困った顔をした。


 けれどコンラートは、まったく怯まない。


「だが君には興味がある。食材を見る目も、領地の作物を考える頭も、獲物を狩る腕もある。魔の森を抱える我が領に、これほどふさわしい令嬢はいない」


「そんな偏った一面だけで決めてよろしいのでしょうか?」


「もちろんだ。それ以外が多少破綻していても、面白ければ俺は我慢できる」


 コンラートは真顔で言った。


 それから、わずかに身を乗り出す。


「我が領なら、毎日最高のジビエが食べられる。牧場では肉質のよい家畜も育てている」


 レナの肩が、ぴくりと動いた。


「珍しい野菜も果実も育て放題だ。森の周辺には肥沃な土地がある」


 レナの瞳が揺れた。


「さらに、フォーゲル伯爵家の借金は一括で返済しよう。屋敷の修繕費も出す。他に欲しいものがあれば、できる限り用意する。金はあるからな」


 レナは静かに椅子へ座り直した。


 そして、にこりと微笑む。


「侯爵様」


「ああ」


「このお見合い、成立でお願いいたします」


 コンラートは満足げにうなずいた。


「いい判断だ」


「はい。人生で一番よい判断をした気がします」


「結局、俺自身が君を金で釣ってしまったようで、少々気が咎めるがな」


「お金だけでもないです」


「それは食材か?」


 コンラートは笑って聞いた。


 レナは少し考えた。それから、少しだけ目を伏せて答える。


「わたしの加護や、これまでの暮らしを面白いと肯定してくださった方は、侯爵様が初めてです」


 コンラートは一瞬だけ目を見開き、それからわずかに口元を緩めた。


 その表情は、噂に聞く性格の悪い侯爵とは少し違って見えた。


     ◇


 後日。


 王都の夜会では、貴族たちがひそひそと噂していた。


「聞いたか? あのエーデル侯爵に、フォーゲル伯爵家の令嬢が嫁ぐらしい」


「まあ……お気の毒に」


「あの性格の悪い侯爵に見初められるなんて、可哀想だわ」


 そんな同情の視線の先で、レナとコンラートは並んで立っていた。


 レナは楽しそうに目を輝かせる。


「今度の休みは、東の森に行きませんか? あちらに香りのいい野草があると聞きました」


「いいな。ついでに黒角鹿を狩ろう。肉質がいい」


「黒角鹿! 煮込みにしたら絶対おいしいやつですね」


「ああ。君なら一撃で仕留められるだろう」


「任せてください。ヒュンっていきます」


 レナが小さく手首を振ってみせると、コンラートは目元をやわらげた。


「……本当に、君は狩猟の話をしている時が一番生き生きしているな」


「そうでしょうか?」


「ああ。この広間にいる誰よりも輝いている」


 あまりにも真顔で言われて、レナは思わず瞬きをした。


「こ、コンラート様。そういうことは、もう少し小さな声で……」


「なぜだ。事実だろう」


 レナが頬を赤らめて視線をそらすと、コンラートは愉快そうに低く笑った。


 夜会の場では、令嬢に対して歯の浮くような賛辞を贈る男性など珍しくない。


 けれどコンラートの場合、その声音があまりにも真剣だった。


 まるで本気で、この華やかな広間にいる誰よりも、レナだけが美しいと思っているように。


 そしてたぶん、本当にそう思っているのだ。


 それが分かるようになってしまったから、レナは困っていた。


 最初は、屋根を直せるお金と、弟妹が不自由なく暮らせる未来に惹かれた。


 けれど今は、それだけではない。


「それにしても、そのドレスはよく似合っている」


「ありがとうございます。コンラート様が贈ってくださったものですから」


「当然だ。君には、若草色も似合うが、深い緑もよく映えると思った。森の中に立っていたら、きっともっと美しい」


「夜会用のドレスで森には入りませんよ?」


「分かっている」


 コンラートはそこで、ふとレナのドレスへ視線を落とした。


 深い緑の布地には、光の角度によって細かな模様が浮かび上がる。派手すぎるわけではない。けれど上質な生地と丁寧な仕立ては、見る者が見ればすぐに分かるものだった。


「……昔の俺は、令嬢たちがドレスの話をするたびに、ただ流行や趣味の話をしているのだと思っていた」


「違うのですか?」


「違ったらしい」


 コンラートは、少しだけ苦笑した。


「君のドレスを用意するようになって、ようやく分かった。どの仕立屋を使うか。どんな生地を選ぶか。誰に紹介された店か。流行をどこまで取り入れ、家の格や本人の雰囲気にどう合わせるか。あれはただの装いではなく、家の財力や人脈、センスを示すものだったんだな」


 レナは目を瞬かせた。


「つまり、令嬢の皆様は……」


「ああ。俺に向かって、自分や家の価値をきちんと示してくれていたのだろう。俺が、それを理解していなかっただけだ」


 コンラートは淡々と言ったが、その声にはわずかな反省が滲んでいた。


「以前の俺は、ドレスの話など退屈だと思っていた。だが今なら、少しは分かる。君に似合う一着を選ぶだけでも、これほど考えることが多いのだからな」


「コンラート様……」


「もっとも、俺の場合は、君が森の中でも動きやすいかどうかまで考えてしまうが」


「夜会用のドレスですよ?」


「分かっている。だから狩猟用の服も用意した」


「え? この間、狩猟用の服は送っていただいたばかりですが」


「あの時送ったものは青色で、今回は緑だ」


 コンラートは整った顔で、レナに甘く微笑んだ。


「コンラート様は、少し……甘やかしすぎではありませんか?」


「そうか? ただ、君の喜ぶ顔が見たいだけなんだが」


 レナは小さく息を呑んだ。


 その一言に、胸の奥がふわりと温かくなる。


 ああ、困った。


 そういうところだ。


 彼はたぶん、甘い言葉を言っているつもりはない。


 ただ本当に、レナが喜ぶと思ったから用意したのだ。


 それが分かるから、余計に胸が落ち着かなくなる。


 コンラートは、レナの手を取る。


 手袋越しに触れる指先は、夜会の礼儀としてはごく自然なものだった。


 けれど、その親指がほんの少しだけ、レナの指を撫でる。


「俺は、君が楽しそうにしているのを見るのが好きだ」


「……っ」


「君が食材を見つけて目を輝かせるところも、獲物の足跡を見て急に真剣になるところも、狩りの話になると止まらなくなるところも、全部いい」


「こ、コンラート様」


「何だ」


「本当に、そういうのは屋敷に帰ってからにしてください……」


 レナが耳まで赤くして小声で訴えると、コンラートは少し考えた。


「……では、少し早いが屋敷に帰るとするか」


「まだ来たばかりですよ」


「そうだな。なら、せっかくの君の美しい緑のドレス姿を、今のうちに目に焼き付けておくことにしよう」


 コンラートの青い瞳は明らかに笑っている。


 レナは小さくうつむいた。


 恥ずかしい。


 けれど、嫌ではなかった。


 むしろ、そんなふうに真っ直ぐ見つめられるたびに、胸の奥がくすぐったくなる。


 レナはこれまで、自分の加護も、狩猟好きな性分も、令嬢らしくないものだと思ってきた。


 家族は笑って受け入れてくれたけれど、社交界では隠すべきものだった。


 でもコンラートは違う。


 彼は、レナが隠そうとしていたものを見つけて、面白いと言った。


 素晴らしいと言った。


 そのうえ、誰よりも美しいとまで言ってくる。


 そんな人を好きにならずにいられるほど、レナは器用ではなかった。


「……コンラート様と出会えて、本当に良かったです」


 コンラートの動きが、ほんの少し止まった。


 レナは恥ずかしさをごまかすように、早口で続ける。


「こんなに大切にしていただけるとは思っていませんでした」


「俺は性格が悪いと有名だからな」


「ご存じだったのですね」


「当然だ。だが、俺も、こんなに大切にしたいと思う人ができるとは思っていなかった」


 コンラートのまっすぐな言葉に、レナは一瞬、息をするのを忘れてしまった。


「……そのお顔でその言葉は、ずるいです」


 レナはコンラートを直視できず、目を伏せて呟く。


 その横顔を見て、コンラートは満足そうに目を細めた。


「コンラート様」


「何だ」


「やっぱり、少し早めに屋敷へ帰りましょうか」


 レナの言葉に、コンラートが笑った。


 周囲の貴族たちは、相変わらず同情の目を向けている。


 けれど当の本人は、コンラートの隣でたいそう幸せそうに笑っていた。


 貧乏伯爵令嬢レナ・フォーゲルには、これ以上の良縁などありえなかった。


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