人生の終わり
降り注ぐ火の粉の中、俺は拳を握りしめていた。
目の前には、天を突くような巨体を誇る悪魔。
その禍々しい爪が、逃げ遅れた少女を切り裂こうとした瞬間、俺の体が弾かれたように動いた。
「——させねえよ」
横から放った俺の拳が、悪魔の硬い外殻を砕く。轟音と共に巨体が吹き飛ぶ。
呆然とする少女に、俺は笑みを浮かべて手を差し伸べた。
「大丈夫か? 怪我はないか」
「あ、ありがとうございます……! でも、あんな化け物がまだあんなに……」
少女が指差す街の中心地には、山ほどもある巨大な悪魔が咆哮を上げていた。俺は迷わず、そいつに向かって走り出そうとする。
「待って! 無茶だよ、あなた一人じゃ死んじゃう!」
引き止める少女の声に、俺は肩越しに振り返った。
逆光の中、俺の背中は誰よりも大きく見えたはずだ。
「大丈夫、安心して。あんなやつ、俺がぶっ飛ばしてくるから」
少しだけキザに、自信たっぷりに俺は告げた。
「——だって僕は、ヒーローだから」
地面を蹴り、悪魔の顔面に渾身の一撃を叩き込もうとした、その瞬間。
「…………っ!」
跳ね起きると同時に、肺の中の空気をすべて吐き出した。
視界に入ってきたのは、灰色の天井と、湿気で剥げかかった壁紙。漂うのは、カビと埃が混ざり合った、この半年間嫌というほど嗅いできた、現実の匂いだ。
シーツ代わりの薄汚れた毛布が、寝汗でべったりと肌に張り付いている。
「…………なんだ、夢かよ」
自分の声が、情けないほど枯れていた。
ヒーロー? ぶっ飛ばす? 笑わせてくれる。
今の俺にできるのは、せいぜい朝の冷気に震えながら、重い体を起こすことくらいだ。
僕の名前は、雨海裕也。
半年前までは、日本の大学に通う、どこにでもいる学生だった。
専攻は研究職、毎日白衣を着て実験データと睨めっこするような、地味だが平穏な人生。
あの日、駅前での爆発を見に行かなければ、今頃は研究室で教授に絞られていたはずだ。
気づけば、この見知らぬ土地にいた。
最初に見た光景は、今でも忘れられない。初めて見る景色。見たこともない植物。行き交う人々が腰に下げた、模造品ではない真剣。
正直、その時は期待した。というか、確信した。
ついに僕の番が来たんだ、と。
異世界転移。ネット小説で何度も読んだ、人生逆転の黄金パターン。きっと僕には、この世界を救うための圧倒的な「チート能力」が備わっているはずだ。
僕は必死に試した。
「ステータス・オープン!」なんて叫んでみたり、掌をかざして「火よ出ろ!」と念じてみたり。
……結果は全滅だった。画面も出なければ、火の粉一つ出やしない。
でも、僕は諦めなかった。まだ「出し方」を知らないだけだと思ったんだ。
意を決して街の人に話しかけてみると、幸いにも言葉は通じた。
ここは「フラム王国」。大陸で最もでかい国だ。
話を聞けば、この世界の人々には一人一つ「スキル」という特殊能力が必ず備わっているという。
それは生まれた時から感覚で分かるものらしく、もし詳しく知りたければ「鑑定士」のところへ行けと教えられた。
僕は期待に胸を膨らませて、鑑定士の店を訪ねた。
怪しげな香炉が煙を上げる店内で、店主の男は僕の顔をじっと見つめた。
「……あんた、もしかして『ロスト』か?」
「ロスト……?」
「別世界から紛れ込んだ人間だよ。たまにいるんだ」
その言葉に、僕の期待は最高潮に達した。異世界人にだけ与えられる聖剣や、最強の魔力。そんな展開を夢想した。
「ああ、やっぱりな。あんた、スキルを持ってねえから、そうだと思ったよ」
「え……?」
「スキルってのは、この世界の理に組み込まれた神の恩恵だ。この世界で生まれた人間にしか宿らねえ。ロストは全員、スキルなしの『無能力者』なんだよ」
頭をハンマーで殴られたような衝撃だった。
店主は淡々と続けた。
「さて、鑑定料は2000ルドだ」
円じゃない。もちろんそんな金、持っているはずもない。
「……持ってません」
「はあ? 金もねえのに鑑定したのか? 騎士団に突き出されてえのか、この無能が」
騎士団なんてところに連れて行かれたら、身元不明の僕は二度と太陽を拝めないかもしれない。
青ざめる僕に、店主は舌打ちをして一つの仕事を提示した。
「……まあいい。ロストでもできる仕事を紹介してやる。そこで稼いで返せ」
それが、僕の地獄の始まりだった。
紹介されたのは、鉱山から掘り出された岩石の中から「魔石」を選別し、取り出す作業。
岩は鉄のように硬い。それを重いハンマーで砕き、指先ほどの小さな石を探し出す。
研究しかしてこなかった僕の細い腕は、初日で感覚を失った。
朝から晩まで働き、もらえる給料は雀の涙。
唯一の救いは、汚くてカビ臭い寮があることだけ。
ヒーローになるはずだった僕は、いつの間にか、その日暮らしの底辺労働者に成り下がっていた。
「……行かなきゃ」
自分語りは終わりだ。腹の虫が鳴る。
裕也は、ずっしりと重い作業着に袖を通し、寮を出た。
仕事場への道すがら、僕はポケットの中の「感触」を確かめた。
指先に触れる、冷たくて滑らかな石。
これは、仕事中にこっそりくすねた「透明化の魔石」だ。
数分間だけ姿を消すことができる。本来なら高値で売れる代物だが、見つかれば即死刑だろう。
だが、この不条理な世界で、これだけが僕の「唯一の宝物」であり、生き抜くための保険だった。
その時だ。
向こうから、柄の悪い、体格のいい男たちが三人、肩を揺らしながら歩いてくるのが見えた。
関わったら終わりだ。
僕は反射的にポケットの中の魔石を握り込む。
ふっと、自分の視界が揺らぎ、風景に溶け込む感覚。
……透明化。
男たちは、僕がさっきまでいた場所を素通りしていった。
数秒後、透明化が解ける。
「はぁ……心臓に悪い」
こんな臆病な使い道が、僕にふさわしい。
仕事場まであと少しというところで、後ろの路地裏から悲鳴が聞こえた。
「ひっ、やめてくれ! 金なら出すから!」
僕は足を止める。
無視しろ。関わるな。お前はヒーローじゃない。ただの無能だ。
脳内では合理的な判断が下されているのに、半年間、泥水をすするような生活を送ってきたはずなのに。
心の中の、まだ腐りきっていない「善意」のような何かが、激しく暴れた。
「……クソっ!」
僕は路地裏に飛び込んだ。
そこでは、さっきの三人の男たちが、一人の若い男を地面に這いつくばらせ、蹴り飛ばしていた。
「や、やめろ!」
自分の声が震えているのがわかった。
男たちが、ゆっくりと振り返る。猛獣のような目が、僕を捉えた。
「あぁ? なんだ、てめえ」
止めなきゃ。でも、どうやって?
僕が震えている間に、男の一人が一歩踏み出し、僕の腹を蹴り上げた。
「ぐはっ……!」
地面に転がる。追撃の蹴りが何度も体にめり込む。
視界の端で、さっきまでボコられていた男が、僕には目もくれず逃げていくのが見えた。
(……おい、嘘だろ)
助けたはずの相手に見捨てられ、僕は一方的に蹂躙される。
「生意気なんだよ、ヒーロー気取りのゴミが。少し熱い思いをさせてやる」
リーダー格の男が、不適な笑みを浮かべて右手をかざした。
その手から、ボウッと、真っ赤な炎を出した。
スキル。この世界の残酷な格差の象徴。
その炎は見る間に膨れ上がり、僕の視界を埋め尽くした。
「やめて、くれ……」
言葉は、笑い声にかき消された。
「死ねよ、ザコ」
放たれた火の玉が、僕の胸元で炸裂した。
一瞬の衝撃の後、襲ってきたのは、この世のものとは思えない熱。
服が燃え、皮膚が焼け、肉が爆ぜる音。
「あああああぁぁぁぁっ!!」
熱い。熱い。熱い。熱い。
思考が白く塗りつぶされる。
視界の端で、満足そうに逃げていく男たちの後ろ姿が見えた。
地面をのたうち回るが、炎は消えない。
脂の焼ける嫌な匂いが、自分の体から漂ってくる。
痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。
熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。
——ああ、やっぱり。
結局、僕は「何者か」になんてなれなかった。
異世界に来ても、無能は無能。
ヒーローになれるなんて、ただの傲慢な勘違いだったんだ。
僕は、大学で目的もなく研究をしていたあの時と同じ。
何の意味もなく、誰に知られることもなく、ここで燃え尽きて消えるだけ。
熱さが、ゆっくりと遠のいていく。
代わりに、深い深い、夜のような闇が僕を包み込もうとしていた。
僕は、静かに目を閉じた。




