プロローグ
雨海裕也は、どこにでもいる普通の大学生だった。
特に秀でた才能があるわけでもなく、かといって不真面目というわけでもない。講義に出て、適当に友人と学食を食べ、バイトに明け暮れる。そんな、平凡な毎日を繰り返していた。
ただ、心のどこかで、ずっと息苦しさを感じていた。
スマートフォンの画面を指でなぞれば、世界中の誰かが成し遂げた輝かしいニュースが飛び込んでくる。同年代の起業家、スポーツ選手、インフルエンサー。彼らと、何者でもない自分を比較しては、得体の知れない焦燥感に胸を焼かれる。
「俺だって、場所が違えばもっと……」
そんな、形にならない言い訳を飲み込むのが、彼の日常だった。
その日の夕方も、いつもと同じはずだった。
十月の中旬。少し肌寒くなった風が、大学のキャンパスを通り抜けていく。裕也はリュックを肩にかけ、最寄りの駅へと向かって歩いていた。夕食は何にしようか、明日のレポートはどうしようか。そんな、ありふれた思考が頭を占めていた。
——その瞬間、世界が震えた。
ドンッ、という、腹の底を直接突き上げるような鈍い衝撃音。
続いて、駅の方向から猛烈な熱風が吹き抜けた。街路樹が大きくしなり、周囲のビルに嵌め込まれたガラス窓が一斉に悲鳴を上げて砕け散る。
「……っ!? なんだ、今の」
裕也は反射的に腕で顔を覆った。
数秒遅れて、悲鳴が街を支配する。パニックに陥った人々が、駅とは逆方向へ、我先にと走り出した。
本来なら、裕也もその群れに混ざって逃げるべきだった。しかし、彼の足は止まっていた。
もうもうと立ち込める黒煙。その隙間から見える駅舎は、巨大な力で押しつぶされたように無残にひしゃげている。
「ガス爆発か? いや、でも……」
裕也の目に、異様な光景が映った。
爆心地の真ん中に、ゆらゆらと揺れる「空間の歪み」のようなものが見える。それは陽炎のように景色を歪ませ、周囲の瓦礫を吸い込んでいるようだった。
恐怖よりも、奇妙な高揚感が勝った。
この異常事態が、自分の退屈な人生を書き換えてくれるのではないか。そんな、根拠のない、そして致命的な期待が、彼の背中を押した。
引き寄せられるように、裕也は一歩を踏み出す。
一歩、また一歩と歪みに近づくにつれ、周囲の音が消えていった。人々の悲鳴も、サイレンの音も、風の音さえも。
世界から色彩が失われ、ただ、目の前の歪みだけが鮮烈な光を放ち始める。
「これは……」
裕也がその光に触れようと手を伸ばした瞬間、世界は完全に反転した。
胃袋を裏返されるような強烈な吐き気。重力が上下左右を失い、意識がバラバラに分解される。自分の名前さえも思い出せなくなるような、絶対的な暗闇。
——そして、唐突に感覚が戻ってきた。
「……がはっ、げほっ!」
激しくむせ返りながら、裕也は地面に這いつくばった。
肺に流れ込んできたのは、ひどく冷たく、そして「生臭い」空気だった。
アスファルトの硬さはない。手のひらに触れるのは、湿った泥と、不揃いに敷かれた冷たい石畳の感触。
裕也は、震える目蓋をゆっくりと持ち上げた。
目の前に広がっていたのは、駅前の景色ではなかった。
レンガ造りの古めかしい家々が並び、空には見たこともないほど巨大な、青白い月が浮かんでいる。
通りの向こうからは、金属が擦れ合うようなガチャガチャとした音が聞こえてくる。目を凝らせば、そこには鎧を纏い、槍を手にした男たちが歩いていた。
「え……?」
裕也は呆然と立ち上がった。
体が軽い。心臓の鼓動が耳元でうるさいほど鳴っている。
そこは、テレビやゲームでしか見たことのない、中世のファンタジーそのものの世界だった。
「本当に、来たのか? 異世界……」
口から出た言葉が、妙に白く濁って消えていく。
裕也の胸に、かつてない期待がこみ上げてきた。
ここでは、俺を知る者は誰もいない。
ここでは、俺は「特別な存在」になれるはずだ。
この手に、物語の主人公のような「力」が宿り、世界を変える冒険が始まる。
そう確信して、彼は自らの手のひらを見つめた。




