おかえりなさい、の声が聞きたくて
とある冬の寒い日。帰宅途中に、お腹と心を暖めてくれるくれる場所があったら……。
現代日本のどこかの街の物語。
ぴゅうぴゅうと肌を刺すような北風に、さっきから小さな白いものが混じるようになった。
吐く息は白くて、本当はマスクで塞ぎたい口元だけど、眼鏡が曇るので安全のために外歩きでは外している私。
あ、もちろん曇り止めの存在は知ってるのよ。使うのを忘れているだけ。
そんな冬の寒さの仕事終わり。
年の暮れからあったクリスマスイルミネーションも消えて、ただただ寒いだけの冬の夜。
自由な一人暮らしの私には、帰る時間に部屋を暖めてくれる人も、美味しそうな匂いを換気扇から流してくれる晩御飯を作ってくれる人も、そして、おかえりなさいと言ってくれる人もいない。
はぁ……寒い時は、寂しさを感じやすいっていうのは本当だよね。
人肌恋しくて彼氏をつくる友人たちの気持ちも、今ならわかる気がする。
会社を出て、いつもの電車に乗り、最寄り駅のいつもの出口から出て、バスに乗る列に並ぼうとして──。
「え、何かあったの?」
思わず声に出るくらい、バス停には長蛇の列。そりゃ通勤通学で混む時間とはいえ、いつもの倍近くいるのは何かあったとしか思えない。
「3番乗り場、4番乗り場のバスをご利用のお客様にお知らせしまーす!」
私の疑問に答えてくれるかのように、乗り場で誘導の方かな?制服着た人がお知らせしてくれた話によると、この路線の途中で事故があって、もう何本も遅延しているのだそう。代車を回すにも、今出せる車も運転手もいなくて……ということで、他の路線やタクシーを使うか、少し時間をおいてからご利用くださいということだった。
それを聞いて周囲を見てもタクシー乗り場も長蛇の列だし、バスは……。
あー。詰んだ。
まあ、私には帰りを待つ人もいないし、帰宅して急いでやることもないし、明日はお休みだし、この列に並んでまで早く帰る必要はないんだけど。
それはそれで、いいんだけど。
中には、おうちの人にお迎えに来て電話かける高校生や、おうちの人に先に寝てていいからという会社員がいて、この行列の人たちには、帰りを待つ人がいるんだなぁと、なんだか突然、現実を突きつけられた気がして。
心が、すっと冷えた気がした。
あ、これやばい。泣きそう。
私は、混乱のバス乗り場から離れて、とりあえず何か食べようと、私はコートの合わせを握りしめて商店街へとロータリーを離れた。
◇
いつもの最寄り駅の、いつもの時間。
本当なら、今頃バスに揺られていたはずなのに。
平日夜の商店街は、昼間のそれとは雰囲気が変わっていて、街灯やお店の看板が眩しくて、そこかしこから漏れ聞こえる賑やかな笑い声や、店員さんの元気な接客の声が聞こえてきて、なんとなくヨソモノが紛れ込んでごめんなさいという気持ちになってしまう。
ご飯食べて支払いさえすれば、お店の人にとって、他の人と何ら変わらない『お客様』なんだろうけれど、今は、ひとりでご飯を食べるには、少しだけ寂しくて。
うーん。
こんな時は、適度に静かで、女性ひとりでも浮かないカフェの方がいいかなと思うけれど、それだと足りない!とお腹の中から抗議するように、小さな音が鳴る。
うーん、何食べよ。
牛丼やラーメン…は、ゆっくりできないし。
ファストフードの気分じゃないし。
飲み屋系は、絡まれると面倒だし。
あ〜あ、こんな時に、某大盛りメニューの喫茶店があれば、お腹も満たしてゆっくりできるのに。
空腹を満たす、そしてバスの時間を待つ。
それを両立させるお店……普段、あまり商店街で利用するお店が少なすぎて、こういう時に迷ってしまう自分が情けない。
あ、そうだ。
ふと思い出して、私はスマホを取り出した。
確か……えっと……。
寒さで動きが鈍い指先で、検索ワードを入力して、表示を待つこと数秒。
今いる商店街の、飲食店検索結果を出して、スクロールしつつ良さそうなお店を探していく。
あ、ここ良さそう。
スクロールした一番下にあった、お店の名は。
『家庭料理 わが家』
家庭の食卓に並ぶような料理と、寛ぐ時間をご提供します。
あいうえお順で一番最後だし、お料理画像もなくて店名と内容だけの紹介だけど、なんだか気になって、そこに行くことにした。
◇
暖簾と、磨りガラスの引き戸、そして足元にある小さな看板。
検索して見つけたお店は、商店街の端の方にあって、賑やかな駅近くから来た人は、ここまでのお店に吸い込まれていくのか、私と同じお店を目指す人は今のところいない。
さて、ここでいいかな?と迷ったのも一瞬のこと。換気扇から漂う「おうちご飯」の香りに、私の手は、お店の引き戸をカラカラと開けていた。
「おかえりなさい」
一歩店内に入ったかな?というタイミングで、優しい女の人の声がした。
えっ?と潜ったばかりの暖簾の向こうに、他に誰かいるのかと振り返ったけれど、誰もいない。
店内に視線を戻すと、カウンターの奥の調理場に立つ女の人……年齢的に、私の親世代かな?という人が、にっこり微笑んでくれた。
「あら、驚かせちゃったかしら。うちはね、いらっしゃいの代わりに、おかえりなさいって言うのよ。さあ、寒かったでしょう、こっちにどうぞ」
促されるまま、足を進め、空いていたカウンターの端っこに腰を掛ける。
足元には、リュックも入るかなという大きなプラスチックのカゴがあって、ありがたく使わせてもらうことにした。コートは……。
「あ、コートは、そこにあるハンガーを使ってもいいし、手元に置きたいなら、カゴをもう一つ持ってくるからね」
熱いおしぼりと、ぬるめのお茶を出しながら、カウンターの向こうから、そう声かけられた。あ、こういう気遣い嬉しいな。熱々のお茶だと、口や胃の温度差にびっくりするけど、ぬるめなら優しいし。ハンガーも、シワになることを気にしない私のコートには、手元にあった方が安心だ。何より忘れないし。
「ありがとうございます。じゃあ、カゴをもう一つお借りしてもいいですか?」
そう返した私に、はーいと返事をしながら、すぐにカゴを持ってきてくれて、ついでにメニューの説明もしてくれた。
「うちのお店はね、家に帰ってきたかのように、寛いでもらうの。だから、一応メニューは用意しているけど、苦手なものは言ってくれたら変更できるし、メニューにないものでも、材料があれば作るからね。とりあえず、お酒飲むなら、それに合わせるけど、今日はご飯の気分かしら?」
なるほど。店名が『我が家』で『おかえりなさい』の言葉で出迎えてくれるのね。
もう長いこと一人暮らしだった私には、なんとなく照れくさいような嬉しいような、そんな気分でお酒を飲んじゃうと、酔いそうだったので、あれこれとご飯メニューを注文した。
出されたお茶を頂きながら、店内をなんとなく見渡すと、おかみさん(と勝手に呼ばせてもらおう)と、カウンターに私の他に2人連れ。そしてテーブル席にも数人いて、ガラガラではないけれど、混んではいないことに少しほっとした。ここなら、バスの運行が落ち着くまで、ゆっくりできそうだね。
◇
「はい、お待たせ。まずは、胃に優しく温かいものからね。今から揚げ物するから、ゆっくり食べててね」
ことり、とカウンターに置かれたのは、おでんの大根とがんもどき。少な目の白ご飯と、白菜の漬物。これで日本酒も美味しそうだけど、まずは冷えた身体を温めよう。
ほかほかと湯気をたてている大根に、箸をいれると、少しの抵抗のあとにきれいに一口分を取り分けられた。表面は出汁の色で薄めのきつね色で、中は白いかな?と思ったけど、中まで表面と同じ色……ということは、これは何時間もコトコトと煮込まれたおでん。どうしよう、見ただけで、もう美味しい。口の中は、熱々だから気をつけなきゃという慎重さと、早くその大根を味わいたいという欲求で、忙しい。
ふー、ふー、はふっ、はふはふっ。
少し冷ましたぐらいじゃ、全然冷えないほかほか大根が、口の中でじゅわりと旨味を広げている。出汁をたっぷり含んだスポンジのように溶けていくと、あとには大根の味もしっかり感じられて……ああ、これは日本酒……いや、白ご飯にしよう。
はふはふと、忙しい口の中に、大根の味が残っているうちに、つやつやした白ご飯を一口迎え入れる。
ご飯の甘味と、さっぱりしつつ、出汁の旨味とのバランスが……最高!
美味しさを噛みしめている私に、おかみさんが「はい、唐揚げお待たせ」と、揚げたてをカウンターに並べてくれた。そして、これも好きなら食べる?と、ポテサラを見せてくれたので、迷わず「お願いします!」と言った私は、結局、我慢できなくて、瓶ビールを1本だけ追加でお願いしたのだった。
さて、おでんのがんもどきは、あとのお楽しみにして、まずは、口の中を冷やすためにも、ポテサラをひとくち。
潰し切っていない、形の残ったポテトと、薄切りハム、そして、ゆで卵。他には何もない、シンプルすぎるポテサラは、私の好みにぴったり。好きな人もいるだろうし、たまにはいいけど、実は、きゅうりや、玉ねぎ、サラミなどが入ったポテサラ苦手なのよね。実家でも、この3つの材料と、基本の味付けと、マヨネーズたっぷりで、家族がそれぞれ好きに味を追加していたの。黒胡椒やチーズ、一味やカレー粉、マスタードなどなど、外のおかずや、お酒に合わせる時なんかで、楽しんでいたっけ。懐かしいなぁ。
そして、そして!
もう揚げていたときから、にんにくと生姜醬油の匂いがたまらなくて、ようやく手元に届いた唐揚げ。
猫舌ではないものの、さすがに揚げたてにかぶりつく危険は避けて、ポテサラを食べて、ビールをコップに注いで……ああ、良い。
ポテサラの優しい甘さ酸っぱさを、ビールの苦味が程よく洗い流してくれる。
やばい。このままだと、ポテサラだけでビール一本飲んでしまいそう。
では……と、さっそく、唐揚げを箸で持ち上げ、口元に運ぶ。
ずしりと重いくらいの唐揚げは、一口で食べられない大きさで、なんだか懐かしい。目で、耳で、鼻で楽しんだ唐揚げを、ようやく口の中に迎え入れて、がぶり。
うん、美味しい。少し濃いくらいの、ご飯にもお酒にも合う味付けと、昔ながらの薄い衣、もも肉のジューシーさ、それらが一気に口の中に広がって。
そして、ここでビール!
手酌でついでいたビールのコップを持って、まだ熱さの残る口の中へ流し込む。
ごく、ごくっ、ごくっ、3口でコップを空にしてしまった。まあ、メーカーの名前が入った、小さなコップなのでね、そんなジョッキみたいにたくさんは入っていないし、と心の中で言い訳しつつ、唐揚げとビールの余韻を楽しんでいる私に、声がかかる。
「美味しそうに食べてくれて、嬉しいねぇ」
カウンターの向こうから、にこにこ顔のおかみさんが話しかけてくれた。
あ、全部見られてたの、よね……うわ、ほんと家にいるみたいに寛いで食べちゃってた。
「あ、はい。どのお料理も本当に美味しいです」
とりあえず、そう返事をしておく。
美味しいのは、本当。だけど、突然のことで、ちょっと慌てた私は、外用の顔に戻すのに必死で、無難な答え方しかできなかったのよ。
「初めて来てくれて、こんなに美味しそうに食べてくれなんて、お店を開いてて良かったわ」
にこにこ顔で、話しを繋いでくれたおかみさんに、そういえばと聞いてみることにした。
「あ、あの、こちらのお店は何時まで営業されていますか?バスの運行が乱れているみたいなので、もう少しゆっくりしていても大丈夫ですか?」
そう。初めてのお店で、とにかく開いていることだけは確認して入ったものの、閉まる時間を確認していなかったのよね。お酒で頭が曖昧になる前に、それは確認しておかないと。
「ああ、今日はちょっと乱れているみたいね。うちは、バスの最終便までは営業していますよ。外も寒いし、しっかり食べて温まっていってね」
「そうなんですね、ありがとうございます」
よし。これで、心配なく飲め…食べられるね。危ない危ない、つい、お酒をメインに考えそうになった。今日は、このビール瓶一本だけにするんだ。
そうこうしているうちに、先に居たお客さんが帰ったり、新しいお客さんが来たりと、店内は少し慌ただしくなって、おかみさんとのお喋りも自然に止まって、私は、唐揚げとポテサラと向き合う時間に戻った。
◇
ビールの最後の1杯をコップについで、程よく冷めたがんもどきを食べながら、もう少し食べようか、これで終わりにしようか迷っていると。
「そろそろ、ご飯もの食べる?お茶漬けか、おにぎりができるよ」
タイミングを見ていたかのように、おかみさんから声がかかる。
うーん、どちらも好きだけど、今日の気分は……。
「おにぎりをお願いします」
「はい、おにぎりね。うちは、小さ目のを2つ出すけど、具は、梅干しと、昆布、おかか、きんぴらが選べるよ。どれがいい?」
「じゃあ、梅と、えーっと、きんぴらでお願いします」
「梅ときんぴらね、ちょっと待っててね」
数分待って、小ぶりのおにぎりが2つ、海苔を添えて出てきた。
この海苔を自分で巻くのね、おにぎりなんてコンビニくらいしか最近食べないから、こういうの久しぶり。手のひらにすっぽり収まるくらいのサイズで、味違いの2種類。こういうところも、嬉しいなぁ。
もぐもぐしている私に、はいどうぞ、と熱い玄米茶を、おかみさんが持ってきてくれた。それに、新しいおしぼりも。
「さっき来たお客さんの話だと、バスの運行もだいぶ落ち着いてきたみたいよ。時間があるなら、このままゆっくりいてもいいからね」
と声をかけて、またカウンターの中に戻っていく。
あんまりにも居心地良くて、まだまだ長居したいけど、うーん。もうお腹はいっぱいだし、これ以上お酒飲むと帰りが心配だし、どうしようかな。
うーんうーんと悩むこと数分。
寒さの中で、またトラブルに合っても嫌だし、今日は帰ろうかな。
そう決めて、レジでお会計をした。
もうお店の場所も分かったし、食べたくなったら、また来よう。
お釣りを受け取り、お財布を鞄に戻していると、小さなカードをおかみさんが渡してくれた。
「ああ、そうそう。これ渡しておくね。うちの営業時間が書いてあるから、良かったらまた来て、食べてってね」
「ありがとうございます。美味しかったので、また来ますね」
「あら、ありがとう。待ってるわね」
じゃあ、とお店の引き戸に手をかけ、外に出ようとする私の背中に、おかみさんの声がかかる。
「今日はありがとね、また帰っておいでね」
ああ、これが、このお店のお見送りの挨拶なんだ。
最初に戸惑った「おかえりなさい」が、今度は「また帰っておいで」と見送ってくれる。
私は、顔だけ振り返って「はい、また!」と返事をして、お店を出た。
お腹も身体もぽかぽかで、そして、心もぽかぽか、ぬくぬくなのは、きっと食べたもの以上の温もりを得られたから。
久しぶりに聞いた「おかえりなさい」も、そして「また帰っておいでね」も、お店の挨拶なんだと分かっていても、私にはそれ以上の価値があったんだ。
そう分かった時には、バス停に着いて列の後ろに並んだけれど、頭は「次は何を食べようかな」と、次回のメニューを楽しんでいて、寒さも、行列も、全然気にならなかった。
我ながら、胃袋掴まれただけで単純だな、と思うけれど、たぶん、心も掴まれた気がする。
また、あのお店に行こう。そして。
「おかえりなさい」を言ってもらうんだ。
寒い夜には「おかえりなさい」と言ってくれる人が待つ家って、それだけで暖かいよねと思ったことから書いてみました。
暖房やあったかいお料理もだけど、帰りを待つ人がいる。
そんな小さな幸せが、冬の寒さ疲れを吹き飛ばしてくれますように。




