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桜の花びらに名前をつけたら、君が笑った。 ──春の風の中に、君の声がまだ残っていた。  作者: 妙原奇天


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第6話 花びらの微笑み

 四月の二週目、校庭は若葉色が勝っていた。風が吹くたび、枝の先にまだ幼い緑が光って、地面には花びらの名残がいくつか貼り付いている。遠目にはもう桜の季節は過去形で、代わりに新しい匂いが校舎の廊下に満ちていた。ワックスの甘い匂い、体育館から上がってくるゴム底のこすれる音、新入生の声の高さ。世界が新しいページを開いた、という演出は毎年同じなのに、今年はたしかに少し違って見える。


 朝のホームルーム。担任の早口は相変わらずで、黒板の角に粉がたまる。出欠を取り終えたあと、連絡事項の最後に小山先生が顔を出し、「美術部、新歓展示に追加が出ました」と言った。ざわめきが一瞬だけ静かになり、すぐ戻る。その一秒の静けさに、俺は息を吸い直す。あの数日で、校内のいくつかの場所に桜のポスターが増えた。昇降口、購買前、図書室の入口。小さいサイズのやつは掲示板の角にも貼った。立ち止まる人の数は統計を取っていないけれど、感じとしては去年までの俺の足音の数より多い。


 チャイムが鳴る。廊下に出ると、咲良が画鋲の箱とクリップを抱えて走ってきた。髪をひとつにまとめたゴムは新しいらしく、白い小さな花がついている。

「先輩、新しい場所、貼ってきました。図書委員の先輩がね、入口の左の柱がベストって」

「助かる。図書室の先輩はそういうの、理解がある」

「あと、今日の放課後に一年生が三人、見学来るって。ちゃんと幽霊卒業してる姿、見せてください」

「する」

 返事を短くし過ぎたかなと思って、付け足す。「ありがとう」

 咲良は胸の前で親指と人差し指を小さく丸にして見せた。声に出さない拍手みたいに、指先だけが二回触れ合う。あの音が、紙の向こうの誰かに届けばいい、と今年の俺は自然に考えるようになってしまった。


 放課後。現役の美術室で一年生にデッサン用の鉛筆を配り、椅子の高さを合わせ、イーゼルの使い方を説明する。手を動かす間だけは、言葉がよく出る。指の位置、肘の力、肩を固めないこと。自分に言っているのと同じ説明を、誰かに渡す。渡すほうが、覚える。覚えると、また渡せる。二年の先輩らしいことを言った自覚が少しだけ気恥ずかしいけれど、一年生は素直に頷いてくれる。その素直さに助けられながら、俺はひとつひとつ、去年までできなかったことをやっている。


 見学がひと段落したところで、咲良が袖を引いた。

「先輩。あっち、行きませんか」

「あっち」

「うん。あっち」


 もちろん、分かっている。あっちの部屋。渡り廊下を渡った先の別棟三階。扉は重く、鍵はいつもの冷たさで指先に触れる。引き戸を開けると、油の匂いと木の匂いが混ざった空気が迎えてくれた。窓は曇りガラスで、午後の光が柔らかく広がる。机の木目は、あの日と同じ筋を持っている。ここは時間の歩幅が少し違う。


 棚からスケッチブックを出す。留めゴムを外す。表紙の角の小さな欠けも、指に馴染んだ。咲良が「いいですか」と小さく聞く。俺は頷いて、スケッチブックを彼女のほうへ押し出す。咲良は深呼吸をひとつしてから、最終ページへ指を滑らせた。


 ページには、小さなイラストが描かれていた。シンプルな線で、二人の人物が桜の木の下で笑っている。片方は短く、片方は少し髪が長い。細い線なのに、そこに風がある。枝の先に、花の形が小さくまとまっていて、地面には丸い影。絵の下には、短い言葉がひとつだけ。


 ありがとう


 咲良は息を飲んで、目尻に笑い皺を作った。声に出さないまま、口の形だけで「ありがとう」となぞる。それから指先で、ページの端をそっと押さえる。彼女の指は、いつもより少しだけ冷たい。でも、押さえる力は静かで、揺らさない。

「……やっぱり、先輩。見せられたんですね」

「うん」

 言葉はそれだけだったけど、胸の中では長い文章が続いていた。あの朝の光、名前をつけた瞬間の白い揺れ、掲示板の前の静けさ、足の止まる音。全部がこの「ありがとう」に続いている。そして、この一言から、またこちら側で続けるべきことがある。


 咲良はページから目を離し、窓の曇りガラスを見た。曇りガラスの向こうは春風で、体育館の壁が白く光っている。彼女はそれに向かって小さく頭を下げた。誰に、という説明は不要だった。

「私、最初は勝手に重ねてるだけだと思ってたけど、違った。ちゃんと別の人で、ちゃんとここにいて。ちゃんと二人で描いた絵だったんだ」

「そうだな」

「それでね、私、ちょっとだけ、さみしくて、でも、すごく、嬉しいです」

 さみしいと嬉しいが、並んで言える日が来るとは思っていなかった。俺はゆっくりと首を縦に振る。見える角度のうなずきじゃなくても、うなずくことで体に入ってくる呼吸がある。呼吸が整うと、言葉も整う。

「ありがとう、咲良」

「私のほうこそ」


 ページは、それ以上は変わらなかった。鉛筆が勝手に転がることも、花びらが増えることもない。静かな終わり方だ、と一瞬思う。でも、終わりという言葉にはまだ早い。このページは閉じたけれど、別のページは開いた。俺のほうのページ。掲示板、展示、誰かの目線。約束の続きを、こちらで書いていく。


 現役の美術室に戻ると、一年生の一人が「先輩、鉛筆の濃さの違いって楽しいですね」と言った。俺は笑って、楽しいよ、と返す。それはほんとにそうだ。濃さの違いは、考えの違いに似ている。重ね方で景色が変わる。消し方でも変わる。少し残った跡が、後で光になるときがある。


 新歓は週の終わりまで続いた。見学の人数は多い日もあれば少ない日もある。ポスターの前で立ち止まる人は、時間帯によって種類が変わる。朝は遅刻ギリギリの人が一瞬だけ視線を横に流し、昼は購買の列から離れた子が友だちの肩を指でつつく。放課後は帰宅部の二人組がスマホを上げて、画面越しに桜を摘むジェスチャーをして笑う。俺はその全部を遠目に見て、心のどこかで数える。数えたところで何にもならないけれど、数えることが今の俺の線の一部になっていた。


 土曜日。部室の片付けを終えると、小山先生が手を叩いた。

「よし。来週からは制作に戻るぞ。新入生も入ったし、展示も一段落。早瀬、次は自分の作品に時間を使え」

「はい」

「題は決まってるのか」

「決まってます」

「それは頼もしい。提出の締め切りは来月の終わり。間に合わせろ」

 先生の「間に合わせろ」は脅しではなくて、背中を押す言い方だ。締め切りの線を床に引いてくれるタイプの大人。うちの部室には、こういう人がいて助かる。俺はその線を気持ちよく跨いで、制作のメモをひとつ作る。題は一言。桜子。さっきと同じ言葉だけど、中身は別。別だからこそ、同じ言葉を使うことに意味がある。


 月曜日。新学期の空気が落ち着いて、クラスの席替えの噂も落ち着いて、始業前の教室に静けさが戻る。同じ景色の中で、気づくことだけが増える。廊下の向こうで笑い声がして、同時に昇降口の方向から風が吹きあがってくる。春特有の上向きの風。音が耳の奥で跳ねた。


 昼休み、咲良が弁当を半分持ってきた。梅干しが真ん中にのっていて、卵焼きは甘い。彼女は卵焼きをひとつ俺の弁当箱に移し、代わりに俺のきんぴらを自分のほうへ移した。交換の速度はスムーズで、たぶんどこの学校でも毎日起きている儀式だ。そういうリズムの中に、自分が自然に収まっているのが、思わぬところでうれしい。

「先輩、今度、図書室でミニ展示のスペースもらえそうです」

「本当に?」

「司書の先生が、季節の小スペースならいいって。サイズは小さいけど、見出しは自由にしていいって」

「見出し」

「うん。例えば“春の見開き”とか“紙の上の風”とか。私は“誰かの足が止まる場所”が好き」

「いいな、それ」

「でしょ。先輩の桜、ひとつ貸してください。複製でいいから」

「やるよ。題は」

「“桜子”。それで」

 咲良は言い切って、蓋をぱちんと閉めた。言い切る力は強い。迷いの数が自然に減る。彼女のそういうところに、助けられている。


 放課後。図書室の入口の左の柱に、ミニサイズの桜の複製を貼る。下に小さくキャプションを付ける。「美術部春展示より」。その下にさらに小さく、題。桜子。図書室の空気は静かで、紙の擦れる音が小さく響く。誰かが本を抱えて通り過ぎるとき、ほんの少しだけ視線がこちらに向く。止まらなくてもいい。向くだけで、十分だ。


 その帰りに、あっちの部屋に寄る。扉を開ける。光が斜めに入って、机の上に白い帯を作る。スケッチブックは棚のいつもの場所。取り出して、最後のページをもう一度開く。二人の人物と桜の線は変わらない。ありがとうは、そのままの濃さでそこにある。ページをそっと撫でる。紙の乾き具合は少しずつ変わっている。春が、薄くなっていく。


 椅子に座り、シャープペンを取り出す。ページの隅の余白に、小さく書く。


 たのしかった

 たのしませてもらった

 これからも見せる

 ここにいる

 ここからも渡す


 返事は、来ない。来ないことに、体が慣れつつある。来ない静けさの中に、別の音があるのも知っている。紙が紙の音で呼吸する。窓の外の風が曇りガラスを撫でる。体育館の壁が遠くで鳴る。世界の音に、俺の音を足す。ページは閉じても、音は残る。


 翌日、雨。校庭は薄く濡れて、掲示板のポスターに小さな水滴がついた。朝の昇降口で、古賀がポスターの前で足を止めていた。彼は自分の親指の爪の先で水滴をひとつ掬い、落とした。水滴は紙の上を転がって、桜の花弁の中心で止まる。

「これ、いいな」

「ありがとうございます」

「俺、こういうの、素直に“いい”って言えるようになったわ」

「それは、だいぶ偉い」

「だろ?」

 古賀の声は軽く、背負っている空気も軽い。軽さは悪いことじゃない。軽さがなければ届かないところがある。彼はそれを知っているタイプだ。俺は軽さを借りて、今日も渡す。


 やがて、雨は上がる。空気が洗われ、校庭の土の匂いが近くなる。若葉が明るくなり、風が少し冷たい。午後の授業が終わると、クラスの何人かが「購買寄る?」と声を掛け合う。俺は「行く」と言って、部室に寄る。片付けをして、鍵を持って、渡り廊下を渡る。歩幅のリズムは一定だ。心臓の音も一定だ。いいリズムだ。


 扉を開ける。光はいつもの柔らかさ。机の上には何もない。棚からスケッチブックを出す。最終ページを開く。線は変わらない。文字も変わらない。けれど、ページの上の空気が少し軽い。軽くなったのは、こちら側の体のほうかもしれない。どちらでもいい。手のひらを紙にかざす。自分の体温が、紙に吸われていく感じがする。紙は冷たい。冷たさの奥に、春がまだ残っている。


 咲良が遅れて入ってきた。小走りで、机の前で止まる。

「先輩。図書室のやつ、見てくれてる人、今日、二人いました」

「二人」

「一人は本を抱えて、もう一人はスマホを持ってた。どっちも、三秒くらい止まった」

「三秒」

「長いんですよ、三秒って。止まる時間のなかでは、けっこう長い」

「そうだな」

「ねえ、先輩。私、あの“ありがとう”、誰に向けられてるのか、ずっと考えてたんです。たぶん、先輩に、で、たぶん、私にも、で、たぶん、ここで足を止める人にも、だと思う」

「そうだと思う」

「だから、私も言っておきます。ありがとう」

 彼女はページに向かって頭を下げ、同じ言葉をもう一度、声に出さずに口で言う。ありがとう。その唇の形は、声がなくても伝わる種類の言葉だ。


 新学期の喧噪が徐々に薄れ、季節が本当に入れ替わる。桜の話題は夕食のニュースから消え、天気予報の背景の色が黄緑に傾く。校庭の目立つ場所は、野球部や陸上部の声で満ちて、あの桜の木の下はベンチ代わりになる。ベンチに座る誰かの笑い声が風に混じって、あっちの部屋の曇りガラスを震わせる。震えは目には見えないけれど、ページの上の線はそれを知っている。たぶん知っている。知っている、と決める自由は、描く自由と同じくらい大切だ。


 金曜日。新歓の最終日。現役の美術室で一年生が片付けをしている間、小山先生が俺の肩を軽く叩いた。

「早瀬。良かったな」

「何がですか」

「いろいろ。言葉にするとどこかが薄くなるから、いろいろでいい」

「いろいろ、で受け取ります」

 先生は満足そうに頷き、窓を開ける。春の残り香が入ってきて、机の上の紙をわずかに揺らした。


 その日、最後にあっちの部屋へ行く。扉を開ける。空気はいつもどおりで、光もいつもどおり。机は静かで、棚の位置は変わらない。スケッチブックを取り出して、最終ページを開く。二人の人物は笑っていて、桜の枝は短い影を落としている。ありがとうは真ん中の下で、紙に吸い込まれるように馴染んでいる。


「咲良」

「はい」

「閉じよう」

「はい」


 咲良がページをそっと閉じる。留めゴムを掛ける。手の動きはゆっくりで、指先の力は均等で、紙の端に無駄な摩擦を残さない。閉じた表紙に手のひらを重ねる。二人で、数秒だけ、同じ温度を紙の上に置く。これでいい、と体が言う。


 棚に戻す。鍵を閉める。扉を引く。廊下に出る。渡り廊下は少し風が強い。夕方の光が前から差して、足元の影が長い。体育館の壁にぶつかった風が戻ってきて、頬を撫でる。階段を降りる前に、咲良がふと立ち止まって空を見上げた。

「先輩。空、やっと初夏の顔ですね」

「そうだな」

「桜は散ったけど、匂い、まだちょっとだけあります」

「するな」

「また、春が来ますね」

「来る」

 来る、という未来形が、今年の俺の口で自然に発音できるのは、少し驚きだ。来る、を信じられるのは、今をちゃんと見ているからだ。見せたい人のいない春は寂しいけれど、見せたい場所は増えた。見せたい相手も、ひとりだけじゃなくなった。そのことを、胸の中で丁寧にたたんでおく。


 土曜日の午前、学校は静かだ。掲示板のポスターを新しいものに貼り替えるために登校した俺は、昇降口の風に思わず目を細めた。乾いていて、少し冷たくて、どこか甘い。誰もいない廊下を歩き、あっちの部屋の前まで来る。鍵は今日は持っていない。開けない。扉の前に立って、呼吸だけ合わせる。扉の向こうとこちらで、風のリズムが同じになるまで待つ。合わせ終えたら、深く息を吐く。今日の分の線は、ここで引けた。


 そのあと、現役の美術室に回って、新しい紙を取り出す。大きめのサイズ。鉛筆を削る。芯の角度を確かめ、最初の線を引く。線は、去年までの俺より迷いが少ない。迷いがないのではない。少ない。迷っても、戻せる。戻してから進める。進みすぎない。止まりすぎない。約束を守る速度。


 昼。校庭に出ると、ベンチに腰かけていた古賀が片手を挙げた。

「よう、早瀬。今日は?」

「貼り替えと、少し描く」

「偉い。俺は少し走る」

「走れ」

「走る」

 古賀が立ち上がり、コートの外周を軽く走り始める。彼の足音が軽くて、地面が少しずつ返事をする。そういう音の積み重ねで、学校は日々を作っている。俺はその音に背中を押されて、視線を桜の木のほうへ移す。若葉が風で裏返り、白っぽく光る。枝の影が短く、動きが速い。春は、完全に過去形になっている。それでも、匂いの層は薄く残っていて、風のある瞬間だけそこが濃くなる。


 夕方。日が傾きかけた教室に戻ると、机の上に細い光が一本落ちていた。窓ガラスの端で何かが反射して、線になっている。俺は机の端にそっと座り、その線を指で遮ってみる。影が指の形に変わる。形は簡単に変わる。けれど意志は残る。意志を線にする。線を見せる。見せた先で、誰かの足が一秒止まる。その一秒に、春が宿る。


 帰り支度をして、教室の電気を消す。廊下の窓から、最後の光が斜めに入って、掲示板の桜の色が一瞬だけ濃くなる。咲良が昨日貼った小さな複製は、角が少し浮いていて、画鋲をもう一つ足す必要がある。明日、足す。明後日、別の場所にも足す。そういう地道な作業が、今年は苦じゃない。むしろ楽しい。楽しい、と自分で言える。


 昇降口まで来ると、春風が正面から吹いた。誰もいない机の上に、どこからか運ばれてきた一枚の花びらがふわりと落ちるのが見えた。色は薄い。紙の上に落ちた花びらは、光を弾いて一瞬だけ明るくなった。誰もいないのに、その明るさは十分だった。誰かが見ていなくても、確かに起きる光景がある。誰かが見れば、それは記憶になる。記憶になったものは、紙の上でもう一度、呼吸できる。


「先輩」


 背後で咲良の声がした。振り向くと、彼女は息を弾ませながら走ってきて、俺の視線の先を追った。机の上の花びらを見て、小さく笑う。

「まだ、いる」

「いるな」

「春の最後のノートの、最後の行、って感じ」

「うまい」

「でしょ」


 咲良は花びらに触れないように机の角を撫で、顔を上げた。目は明るい。新学期の目だ。彼女は言う。

「ねえ先輩。私、来年の春に、またここで見たいです。同じじゃなくていい。新しいのを」

「見せるよ」

「約束」

「約束」


 言葉は短く交わされ、風がその上を通り過ぎる。風は言葉を散らさない。むしろ、言葉を紙に押し込んでくれる。押し込まれた言葉は、来年の春にまたページの上でふくらむ。そういう循環に、やっと自分の線が乗れた気がした。


 外へ出る。空は若葉の色と同じくらいに、やさしい。俺は空を見上げ、ゆっくり頷く。誰に、という説明はいらない。自分にも、ここにも、遠くにも。頷くことで、体の中の音がきれいに揃う。揃った音は、来年まで続く。


 春風が、もう一度吹いた。昇降口の机の上の花びらが、ひらりと跳ねて、光を弾いた。誰もいない机の上で、それはきれいだった。誰もいないからこそ、なおさらきれいだった。ページは閉じた。けれど、絵は残る。匂いも、音も、約束も。残ったものは、次の季節の最初の線になる。


 俺は歩き出す。脚は軽い。背中も軽い。肩のリュックの重さは、今日も四割、スケッチブック。でもそれは、持たされている重さじゃなく、自分で持ちたい重さだ。去年は持てなかった重さ。今は持てる。持って、見せる。見せながら、描く。描きながら、渡す。渡しながら、受け取る。


 今年の春は終わった。終わったけれど、終わりはもう痛くない。終わりの手前にたっぷりと白い余白があり、その余白が来年の春の最初の呼吸になる。俺はその余白を見て、目を細めた。


 ありがとう、の一言は、紙の上に残っている。残り続ける。その上に、来年の言葉を重ねる準備はできている。準備ができているときの世界は、やさしい。やさしさは弱さと違って、受け取った数だけ増える。


 歩く。風が吹く。若葉が揺れる。どこかの窓から、誰かの笑い声がこぼれる。それら全部の上に、薄く透明な桜の匂いがまだある。薄くても、確かにある。


 俺は空をもう一度だけ見上げて、静かに頷いた。春は、また来る。桜は、また咲く。そのとき俺は、ここにいる。ここで描く。ここで渡す。ここで笑う。ページはめくられ続ける。そのたびに、どこかで誰かの足が一秒止まる。その一秒の積み重ねの先で、きっとまた、花びらが光を弾く。


 了

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