第4話 約束の絵
春の終わりが近づいていた。
昼休みの校庭には、吹き抜ける風のたびに桜の花びらが舞う。校舎の屋上から見下ろすと、まるで誰かが筆で空に描いたみたいに、ピンクの線が弧を描いていた。
早瀬匠は、屋上のフェンスに肘をかけてその景色を見ていた。
胸ポケットの中には、例のスケッチブックがある。ページをめくるたびに、彼女の筆跡と声が浮かぶようになってから、毎日持ち歩くのが習慣になっていた。重さなんてないはずなのに、不思議と手のひらが温かい。
――もうすぐ春が終わる。
桜の季節が過ぎれば、またいつもの日常に戻る。だけど今年の春だけは、何かが違っていた。
その違いを確かめるために、匠は一年前のことを思い出していた。
◇
一年前の春。
美術部の写生大会の日、校庭の一番奥、古い桜の木の下で、安堂桜子はスケッチブックを膝に乗せていた。
白い帽子のつばを押さえながら、彼女は風に揺れる花びらを目で追っていた。線はやわらかく、色は淡く、まるで彼女自身が桜の一部みたいだった。
匠は隣で、同じ木を描いていた。
けれど、何度描いても桜子のような線が引けなかった。鉛筆が紙の上を滑るたび、自分の中の何かがすり減っていくようで、焦れば焦るほど、花びらの形が崩れた。
「焦らなくていいよ、早瀬くん」
彼女が笑って言った。
その声は、春の風よりも柔らかかった。
「絵はね、描こうとしすぎると遠ざかるんだよ。桜って、見上げるよりも、見上げられてる気持ちで描くほうがきれいに見えるんだって」
「見上げられてる……?」
「うん。ほら、桜も、見てくれてるよ」
そう言って、彼女は木の幹にそっと手を置いた。
笑顔のまま、少し風に目を細めて、それから空を見上げた。
その瞬間、世界がひとつの色に溶けたように見えた。
あの日の光景を、匠はずっと忘れられなかった。
だけど、写生大会の後。
桜子は学校を休むようになった。
数日後、担任から「転校することになった」と告げられたとき、クラスの空気は一瞬止まった。
理由は「家庭の事情」とだけ。けれど、誰もが察していた。桜子がよく保健室で咳き込んでいたこと。体育のとき、青白い顔で無理に笑っていたこと。
――病気。
それ以上は、誰も言葉にできなかった。
彼女が最後に学校へ来たのは、転校前日の放課後だった。
昇降口の前で、絵の具のついたエプロン姿のまま立っていた匠に、桜子は小さく手を振った。
「ごめんね、途中でいなくなっちゃって。あの桜、完成したら……卒業式に見せてね」
その言葉を最後に、彼女は笑った。
けれど、その約束は果たせなかった。
次の日から、匠の筆は止まった。
◇
スケッチブックに現れる花びらは、まるであの日の続きを促すようだった。
描きかけの枝。途中で止まった線。
今なら、描ける気がした。
放課後、旧美術室。
窓を開けると、夕陽が差し込み、埃が金色に光る。机の上にスケッチブックを広げて、匠は鉛筆を持った。
最初の線を引くと、少しだけ手が震えた。けれど、その震えが生きている証拠のように思えた。
花びらを描き足す。枝を伸ばす。影を置く。
線の一つひとつが、心臓の鼓動みたいに響いた。
途中でふと視線を上げると、窓の外に咲良が立っていた。
「先輩、やっぱりここにいた」
笑顔で言う咲良は、放課後の光を背負っていた。
彼女の髪が、夕陽の色をまとって揺れる。
「先生が探してましたよ。……あ、これ、ポスター、みんな褒めてました」
「本当か?」
「はい。“優しい絵だね”って。私もそう思いました。なんか、見てると落ち着くんです。……この桜、すごく優しいですね」
“優しい”。
その言葉が、心の奥に落ちた。
優しい絵なんて、自分で描けたことはなかった。
けれど、今なら少しだけ分かる気がした。
この絵には、誰かの思いが宿っている。
桜子の線と、俺の線。二人の記憶が混ざって、やっとひとつの形になった。
咲良は机の上のスケッチブックに目をとめた。
表紙の端に書かれた「桜子」という名前を見て、小さくつぶやいた。
「この人の絵、好きです。……なんか、あったかい」
匠は返事をしようとして、言葉を失った。
咲良の声が、ふと桜子の声と重なった。
――また明日も、花びらを描こうね。
そのフレーズが脳裏に浮かんだ瞬間、胸がきゅっと痛んだ。
「どうしたんですか?」
「……いや、なんでもない。ありがとう、咲良」
笑顔を作るのに、少し時間がかかった。
◇
夜。
机の上のスケッチブックを開くと、また新しい文字が現れていた。
――もうすぐ、春が終わるね。
――完成した桜、見たいな。
字の形が、前より少し淡い。
線の強さが、どこか遠くに霞んでいるように見えた。
まるで、風に乗って消えていく声みたいだった。
匠はすぐにペンを取った。
――まだ、描いてるよ。
――間に合うよ。
――桜、咲かせてみせる。
書き終えた瞬間、ページがかすかに震えた。
光の加減かと思ったけれど、紙の端がほんの少しだけ動いた気がした。
風もないのに。
その夜、匠は眠れなかった。
何度もページを開いては閉じ、文字が変わっていないか確かめた。
時計の針が二時を指すころ、目を閉じて天井を見つめた。
まぶたの裏に、満開の桜が広がる。
桜子が笑う姿。咲良の笑顔。二つの光が重なって、春の夜を照らしていた。
◇
次の日。
校庭の桜の木の下で、スケッチブックを広げた。
風が穏やかで、枝の間をすり抜けた光が柔らかく地面に落ちる。
スケッチブックを開くと、昨日の続きを描くように、花びらの輪郭が薄く浮かび上がっていた。
匠はその上を、ゆっくりとなぞった。
鉛筆の音が、まるで彼女の声みたいに響く。
「もう少しだな……」
つぶやくと、背後から声がした。
「やっぱり、先輩の絵、好きです」
振り返ると、咲良が立っていた。
彼女の手には部室から持ってきた折りたたみ椅子と水筒。
「勝手にお邪魔しました。今日、空がきれいだったから」
「いいよ。……この桜、今日で完成させたいんだ」
「じゃあ、見届けます」
咲良は桜の木を見上げて、微笑んだ。
「先輩の桜、ほんとに優しい。枝が風を抱いてるみたいで」
「風を、抱いてる?」
「はい。散るんじゃなくて、包んでる感じ。……誰かを思って描いてるんですか?」
その質問に、匠は少しだけ間を置いて答えた。
「昔、約束したんだ。満開の桜を、見せるって」
「約束、ですか」
「……うん。ずっと、果たせなかった約束」
咲良は何も言わず、静かに頷いた。
風が吹いて、花びらが二人の肩に降り積もる。
匠は最後の枝を描ききり、深呼吸をした。
「できた」
見開きいっぱいに咲いた桜は、光を受けて本物のように淡く揺れた。
桜子の描いた最初の線も、俺の線も、混ざり合ってひとつになっている。
咲良が覗き込み、目を細めた。
「すごい……。あたたかいです。なんか、見てると泣きそうになります」
匠は笑った。
「それなら、きっと彼女も喜ぶ」
その言葉を口にした瞬間、強い風が吹いた。
スケッチブックのページがめくれ、白い花びらが一斉に空へ舞い上がる。
紙の上で光が瞬き、淡い影が広がる。
そして、ページの端に新しい文字が浮かび上がった。
――ありがとう。
――やっと、咲いたね。
咲良は驚いて、息をのんだ。
「今、これ……」
「見えたのか?」
「はい。……え、これ、どういう……」
匠は微笑んだ。
「“声のない会話”だよ。少し、変わった友達と話してるだけ」
風が止んだ。
スケッチブックの桜は静かに揺れ、ひとひらの花びらが膝の上に落ちた。
それは、まるで誰かが「おつかれさま」と言っているみたいだった。
◇
夜。
机の上にスケッチブックを広げた。
ページの中央には、昼間のままの桜。
けれど、その下に新しい文字があった。
――もうすぐ、春が終わるね。
――完成した桜、見たいな。
匠は、ページに指を置いた。
「見せるよ。明日、校庭で」
返事はなかった。
けれど、ページの花びらがほんの少し揺れた気がした。
窓の外は、夜風にかすかに桜の香りが混ざっている。
匠はそっと目を閉じた。
春の記憶。
彼女の声。
そして、満開の絵。
すべてがひとつになって、胸の奥で淡く灯っていた。
――約束は、これで終わりじゃない。
描いた絵を、誰かに見せること。
それが、彼女の願いの“本当の続きを”描くことなんだと思った。
匠はシャープペンを取り、ページの端に短く書いた。
――見せに行く。だから、見ててくれ。
花びらがふわりと揺れた。
その動きは、まるで微笑みのようだった。
夜が深まる。
スケッチブックの上で、春の夢が静かに揺れていた。




