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桜の花びらに名前をつけたら、君が笑った。 ──春の風の中に、君の声がまだ残っていた。  作者: しげみち みり


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第4話 約束の絵

 春の終わりが近づいていた。

 昼休みの校庭には、吹き抜ける風のたびに桜の花びらが舞う。校舎の屋上から見下ろすと、まるで誰かが筆で空に描いたみたいに、ピンクの線が弧を描いていた。


 早瀬匠は、屋上のフェンスに肘をかけてその景色を見ていた。

 胸ポケットの中には、例のスケッチブックがある。ページをめくるたびに、彼女の筆跡と声が浮かぶようになってから、毎日持ち歩くのが習慣になっていた。重さなんてないはずなのに、不思議と手のひらが温かい。


 ――もうすぐ春が終わる。

 桜の季節が過ぎれば、またいつもの日常に戻る。だけど今年の春だけは、何かが違っていた。

 その違いを確かめるために、匠は一年前のことを思い出していた。



 一年前の春。

 美術部の写生大会の日、校庭の一番奥、古い桜の木の下で、安堂桜子はスケッチブックを膝に乗せていた。

 白い帽子のつばを押さえながら、彼女は風に揺れる花びらを目で追っていた。線はやわらかく、色は淡く、まるで彼女自身が桜の一部みたいだった。

 匠は隣で、同じ木を描いていた。

 けれど、何度描いても桜子のような線が引けなかった。鉛筆が紙の上を滑るたび、自分の中の何かがすり減っていくようで、焦れば焦るほど、花びらの形が崩れた。


「焦らなくていいよ、早瀬くん」


 彼女が笑って言った。

 その声は、春の風よりも柔らかかった。

 「絵はね、描こうとしすぎると遠ざかるんだよ。桜って、見上げるよりも、見上げられてる気持ちで描くほうがきれいに見えるんだって」

「見上げられてる……?」

「うん。ほら、桜も、見てくれてるよ」

 そう言って、彼女は木の幹にそっと手を置いた。

 笑顔のまま、少し風に目を細めて、それから空を見上げた。

 その瞬間、世界がひとつの色に溶けたように見えた。

 あの日の光景を、匠はずっと忘れられなかった。


 だけど、写生大会の後。

 桜子は学校を休むようになった。

 数日後、担任から「転校することになった」と告げられたとき、クラスの空気は一瞬止まった。

 理由は「家庭の事情」とだけ。けれど、誰もが察していた。桜子がよく保健室で咳き込んでいたこと。体育のとき、青白い顔で無理に笑っていたこと。

 ――病気。

 それ以上は、誰も言葉にできなかった。


 彼女が最後に学校へ来たのは、転校前日の放課後だった。

 昇降口の前で、絵の具のついたエプロン姿のまま立っていた匠に、桜子は小さく手を振った。

「ごめんね、途中でいなくなっちゃって。あの桜、完成したら……卒業式に見せてね」

 その言葉を最後に、彼女は笑った。

 けれど、その約束は果たせなかった。

 次の日から、匠の筆は止まった。



 スケッチブックに現れる花びらは、まるであの日の続きを促すようだった。

 描きかけの枝。途中で止まった線。

 今なら、描ける気がした。


 放課後、旧美術室。

 窓を開けると、夕陽が差し込み、埃が金色に光る。机の上にスケッチブックを広げて、匠は鉛筆を持った。

 最初の線を引くと、少しだけ手が震えた。けれど、その震えが生きている証拠のように思えた。

 花びらを描き足す。枝を伸ばす。影を置く。

 線の一つひとつが、心臓の鼓動みたいに響いた。

 途中でふと視線を上げると、窓の外に咲良が立っていた。


「先輩、やっぱりここにいた」


 笑顔で言う咲良は、放課後の光を背負っていた。

 彼女の髪が、夕陽の色をまとって揺れる。

「先生が探してましたよ。……あ、これ、ポスター、みんな褒めてました」

「本当か?」

「はい。“優しい絵だね”って。私もそう思いました。なんか、見てると落ち着くんです。……この桜、すごく優しいですね」


 “優しい”。

 その言葉が、心の奥に落ちた。

 優しい絵なんて、自分で描けたことはなかった。

 けれど、今なら少しだけ分かる気がした。

 この絵には、誰かの思いが宿っている。

 桜子の線と、俺の線。二人の記憶が混ざって、やっとひとつの形になった。


 咲良は机の上のスケッチブックに目をとめた。

 表紙の端に書かれた「桜子」という名前を見て、小さくつぶやいた。

「この人の絵、好きです。……なんか、あったかい」

 匠は返事をしようとして、言葉を失った。

 咲良の声が、ふと桜子の声と重なった。

 ――また明日も、花びらを描こうね。

 そのフレーズが脳裏に浮かんだ瞬間、胸がきゅっと痛んだ。


「どうしたんですか?」

「……いや、なんでもない。ありがとう、咲良」

 笑顔を作るのに、少し時間がかかった。



 夜。

 机の上のスケッチブックを開くと、また新しい文字が現れていた。


 ――もうすぐ、春が終わるね。

 ――完成した桜、見たいな。


 字の形が、前より少し淡い。

 線の強さが、どこか遠くに霞んでいるように見えた。

 まるで、風に乗って消えていく声みたいだった。


 匠はすぐにペンを取った。


 ――まだ、描いてるよ。

 ――間に合うよ。

 ――桜、咲かせてみせる。


 書き終えた瞬間、ページがかすかに震えた。

 光の加減かと思ったけれど、紙の端がほんの少しだけ動いた気がした。

 風もないのに。

 その夜、匠は眠れなかった。

 何度もページを開いては閉じ、文字が変わっていないか確かめた。

 時計の針が二時を指すころ、目を閉じて天井を見つめた。

 まぶたの裏に、満開の桜が広がる。

 桜子が笑う姿。咲良の笑顔。二つの光が重なって、春の夜を照らしていた。



 次の日。

 校庭の桜の木の下で、スケッチブックを広げた。

 風が穏やかで、枝の間をすり抜けた光が柔らかく地面に落ちる。

 スケッチブックを開くと、昨日の続きを描くように、花びらの輪郭が薄く浮かび上がっていた。

 匠はその上を、ゆっくりとなぞった。

 鉛筆の音が、まるで彼女の声みたいに響く。


「もう少しだな……」


 つぶやくと、背後から声がした。


「やっぱり、先輩の絵、好きです」


 振り返ると、咲良が立っていた。

 彼女の手には部室から持ってきた折りたたみ椅子と水筒。

「勝手にお邪魔しました。今日、空がきれいだったから」

「いいよ。……この桜、今日で完成させたいんだ」

「じゃあ、見届けます」


 咲良は桜の木を見上げて、微笑んだ。

「先輩の桜、ほんとに優しい。枝が風を抱いてるみたいで」

「風を、抱いてる?」

「はい。散るんじゃなくて、包んでる感じ。……誰かを思って描いてるんですか?」

 その質問に、匠は少しだけ間を置いて答えた。

「昔、約束したんだ。満開の桜を、見せるって」

「約束、ですか」

「……うん。ずっと、果たせなかった約束」

 咲良は何も言わず、静かに頷いた。

 風が吹いて、花びらが二人の肩に降り積もる。

 匠は最後の枝を描ききり、深呼吸をした。


「できた」


 見開きいっぱいに咲いた桜は、光を受けて本物のように淡く揺れた。

 桜子の描いた最初の線も、俺の線も、混ざり合ってひとつになっている。

 咲良が覗き込み、目を細めた。

「すごい……。あたたかいです。なんか、見てると泣きそうになります」

 匠は笑った。

「それなら、きっと彼女も喜ぶ」


 その言葉を口にした瞬間、強い風が吹いた。

 スケッチブックのページがめくれ、白い花びらが一斉に空へ舞い上がる。

 紙の上で光が瞬き、淡い影が広がる。

 そして、ページの端に新しい文字が浮かび上がった。


 ――ありがとう。

 ――やっと、咲いたね。


 咲良は驚いて、息をのんだ。

「今、これ……」

「見えたのか?」

「はい。……え、これ、どういう……」

 匠は微笑んだ。

「“声のない会話”だよ。少し、変わった友達と話してるだけ」


 風が止んだ。

 スケッチブックの桜は静かに揺れ、ひとひらの花びらが膝の上に落ちた。

 それは、まるで誰かが「おつかれさま」と言っているみたいだった。



 夜。

 机の上にスケッチブックを広げた。

 ページの中央には、昼間のままの桜。

 けれど、その下に新しい文字があった。


 ――もうすぐ、春が終わるね。

 ――完成した桜、見たいな。


 匠は、ページに指を置いた。

「見せるよ。明日、校庭で」

 返事はなかった。

 けれど、ページの花びらがほんの少し揺れた気がした。


 窓の外は、夜風にかすかに桜の香りが混ざっている。

 匠はそっと目を閉じた。

 春の記憶。

 彼女の声。

 そして、満開の絵。

 すべてがひとつになって、胸の奥で淡く灯っていた。


 ――約束は、これで終わりじゃない。

 描いた絵を、誰かに見せること。

 それが、彼女の願いの“本当の続きを”描くことなんだと思った。


 匠はシャープペンを取り、ページの端に短く書いた。


 ――見せに行く。だから、見ててくれ。


 花びらがふわりと揺れた。

 その動きは、まるで微笑みのようだった。


 夜が深まる。

 スケッチブックの上で、春の夢が静かに揺れていた。

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