第1話 落書き帳のページ
四月の光は、教室のホワイトボードまで桜色をひっぱってくる。窓の外で風がひと吹きするたび、校庭の桜はため息みたいに花びらを落とした。
美術部に籍だけ置いて二年目。早瀬匠は、放課後の昇降口でスニーカーの紐を結び直しながら、ため息をひとつついた。行き先は旧美術室。顧問の小山先生が「新入生に見せる前に掃除だけ頼む」と、雑巾と鍵を渡してきたのだ。提出物を出し忘れたときの罰みたいに軽く言っていたが、サボり気味の幽霊部員にお似合いの仕事だと自覚はあった。
旧美術室は、渡り廊下を抜けた先の別棟の三階にある。引退したクラブの部室や、用途不明の備品がたまるフロア。教室の扉は重く、鍵が引っかかる手応えがあった。ぎい、と開けると、油絵具の匂いと古い木の匂いが混じった空気が吐き出される。
窓は曇りガラスで、午後の光が薄く広がっていた。壁際にイーゼル、ロッカー、石膏像の首だけ。机の下には誰かの忘れたスケッチブックや画板が無造作に積まれている。床には細かい消しゴムのカスまで保存されているみたいだ。
匠は袖をまくり、雑巾をバケツの水で濡らして絞った。机の上をひとつひとつ拭きながら、必要以上に丁寧にやってる自分に気づく。誰かに見られるわけでもないのに、こういうときだけ真面目なモードになるのが自分でも面倒くさい。
棚の奥を拭こうと、画板をどけたときだった。段ボールの隙間に、表紙の角が少し覗いている。取り出すと、手のひらより少し大きいスケッチブック。表紙は厚紙で、外側の角がすこし潰れている。淡い鉛筆の線で、小さく名前が書かれていた。
桜子。
匠は眉をひそめた。どこかで聞いた名前だと思った瞬間、教室の窓際の席、髪を結う白いゴム、冬の終わりに配られた転校のお知らせ。薄く貼られていた記憶が、指でこすると色が戻るみたいに立ち上がってくる。
安堂桜子。去年の春、数か月だけ同じクラスにいた子。美術の授業で、誰よりも早く道具を片付けるのに、誰よりも遅くまで絵を見ていた子。転校の挨拶のとき、彼女は笑って手を振ったけれど、その笑顔が思い出そうとするほど霞んでいく。
スケッチブックの留めゴムを外す。最初のページには桜が描かれていた。細い線で、花びらは五枚。色は薄い鉛筆の濃淡だけなのに、不思議と淡いピンクが見える気がする。絵の下に、走り書きのような文字。
また明日も、花びらを描こうね。
自分に向けた言葉なのか、誰かと交わした約束なのか、それは分からない。匠は視線を落としたまま、ひとつ息を飲んだ。
ページをめくる。二枚目には、同じ枝が少しだけ広がり、花びらが一つ増えている。三枚目、また一枚。日記のように、毎日少しずつ増えていく桜。中ほどのページで花は満開に近づき、ところどころに空白のカケラが残されている。最後のページはまだ白い。そこだけぽっかり穴のようにあいていた。
匠はスケッチブックを閉じ、手に残った紙の乾いた感触を確かめるみたいに指で表紙を撫でた。棚に戻して、鍵を閉める。何かを見つけたときの高揚と、知らない誰かの部屋に無断で入ったみたいな罪悪感が、胸の中で半分ずつ揺れていた。
帰り道、校門のそばでボールを蹴っていたサッカー部の一年が「先輩、お疲れっす」と言った。誰に向けた挨拶なのか分からず、曖昧に会釈だけ返す。道路脇の水たまりに夕焼けが落ちて、薄く震えるように揺れていた。
家に帰ると、台所から母の声がした。「今日は早いじゃない。夕飯七時ね」
「うん」と答えながら、冷蔵庫からスポーツドリンクを取り出す。喉を通る冷たさで、さっきの部屋の匂いを薄めようとする。でも消えない。桜子、という文字だけが、舌の裏側に張り付いたみたいに離れなかった。
夜。スマホを充電につなぎ、布団に寝転がる。タイムラインを流し見しても、テレビでバラエティをつけても、頭の片隅に透明な窓がひとつ残っていて、そこから鉛筆の線と花びらがひらひらと降ってくる。桜は好きでも嫌いでもない。美術の課題で描いたときは、手早く塗って終わらせた。自分の絵には、あのスケッチブックの最初の一枚にもない温度があるのか、と聞かれたら自信はない。
目をつむると、また明日も、という文字だけが残る。明日。明日の自分はなにか変わるんだろうか。そう考えながら、匠は眠りに落ちた。
翌日。授業が終わってチャイムが鳴ると、教室の背後で椅子の音が昂ぶった。部活の新歓で騒がしい廊下を抜けると、風が昨日より少し冷たい。渡り廊下のガラスに、自分の顔が反射している。どこにでもいる二年の顔。髪は寝癖をごまかして、制服は規定のラインからはみ出ないように気をつけて着ている。人混みでも風景でも、できるだけ真ん中を歩く癖。誰にも迷惑をかけず、誰の記憶にも残らない歩き方。
重い鍵を回して旧美術室を開けると、ほこりが昨日より舞い上がった気がした。匠は迷って、それからまっすぐ棚に向かう。一度閉じたものを、もう一度開けるのは妙に緊張する。留めゴムを外し、ゆっくり表紙をめくった。
花びらが、一つ増えていた。
昨日見た最後のページの手前に、ページが一枚差し込まれたように、同じ枝が同じ角度で、花びらが昨日より一つ多い。線の強さも、鉛筆の擦れ方も、同じ手の癖がある。紙は古いのに、線は新しい。匠はその矛盾を、指先の温度で確かめるように紙面に近づけた。鉛筆の粉のかすかな感触がある。描きたて、と言ってもいいくらいに新しい。
「お、やってるねえ」
背後から声がして、匠はスケッチブックを慌てて閉じた。振り向くと、小山先生がドアのところに立っていた。スーツの上着を脱いで腕まくりして、雑巾とゴミ袋を持っている。
「先生、昨日の掃除、一応終わりました」
「助かるよ。新入生連れてくる前に、最低限はね。どう? この部屋、怖くなかった?」
「別に。ちょっと匂いが……」
「だろうね。油の匂いは人を選ぶから」
先生は適当に机の上を拭きながら、匠の手元のスケッチブックに目を止めた。「それ、だれの?」
「わかりません。名前、桜子って」
「ああ。安堂。去年いた子だ。転校する前、ここの片付け手伝ってくれてね。スケッチブック、忘れていったのか」
「先生、これ、昨日と違う気がして」
「違う?」
匠は言葉に詰まった。昨日の最終ページと、今日の一枚増えたページ。誰かが夜のうちに入って、描いていった? 鍵は先生が持っているはずだ。
「ページが、増えたというか……」
先生は半分笑いながら首をかしげた。「落書きは増えるものだよ。現役のころの僕のノートも増殖したけど、成績は増えなかったからね」
「いや、そういうことじゃ」
説明をやめた。口に出すほど、自分でもばかばかしく思えてくる。先生は気にせずゴミ袋を抱えて、窓の桟のほこりを払った。
「そうだ、早瀬。来週の部活、顔は出せる? 新歓のデッサン会。幽霊でも幽霊なりに、顔は出しときなさい」
「考えます」
「考えます、は来ません、の意味だからね。来い」
先生は笑ってドアのほうに戻った。軽く手を振って去っていく背中を見送り、匠は静かになった部屋に一人残る。窓の隙間風が、ページの角をわずかに持ち上げた。
もう一度、開く。新しく増えた花びらに目を凝らす。枝の線は、最初のページより力強い。何かを決めたときの線だ。花びらの輪郭は少し震えているけれど、その揺れ方も含めて同じ人の手だと分かる。匠は、喉の奥が乾くのを感じた。
ここに、彼女は来ている。少なくとも、彼女の時間はここで続いている。
現実的な説明はいくらでもつく。先生が冗談で描いた、誰かが悪戯した、自分の見間違い。でも、指先の感触と目が見た線の重なりは、簡単な嘘を許さなかった。
机に座って、匠はシャープペンを取り出した。ページの端の空白に、小さく書く。
見ています。
それだけ。名前も何も書かずに、スケッチブックを閉じた。子どものころに拾ったボトルメールに返信するみたいな、ばかばかしい行為。でも、そうしないと今日の自分が帰れない気がした。
帰り際、廊下で同じクラスの古賀に会った。野球部の彼は、髪に汗が光っている。
「お、早瀬。今日、部活?」
「いや、掃除」
「お前んとこ、文化部なのに掃除多いな」
「そういう役回り」
軽口を返すと、古賀は笑って肩を叩いた。「土曜、コンビニ寄るなら一緒帰ろ。新しい唐揚げ、半額だってよ」
「検討する」
「それは来ないやつだな」
会話は短く途切れる。彼は走って階段を降り、匠はゆっくり歩いて渡り廊下を戻る。窓の向こうで、夕方の風が桜をまた揺らした。
その夜、匠はいつもより早く机に座った。シャープペンの芯を替え、ノートを開く。課題の数学の問題の隅に、無意識に枝を一本描いた。そこに花びらを五枚、増やす。形がいびつになるたび、消しゴムで直した。何度やっても、昨日のスケッチの最初の一枚のほうが生きて見える。
何が違うんだろう。輪郭、線の速さ、迷いの数。自分の線は、どこかで許しを求めて止まる。桜子の線は、止まらない。迷ったところも含めて、次の一筆を肯定している。
ノートを閉じて、ふと思い出す。転校の前の日、掃除の時間に、桜子は教室の窓ガラスに指で丸を描いていた。その丸が歪んだと笑って、指で伸ばして花の形にしていた。自分は黒板消しを叩きながら、その横顔を、なにも言わずに見ていた。声をかければよかった。今さら、そう思う。
次の日。授業が妙に長く感じられた。昼休みのパンの味もしない。六限のチャイムが救いの鐘に聞こえるのは大袈裟だけど、心理としてはそれに近い。匠は鞄を肩にかけたまま、廊下を早足で抜けて、渡り廊下を小走りに渡った。階段を二段飛ばしで上がる。息が上がる。心臓がうるさい。
鍵を開ける手が少し震えた。扉を引くと、木の匂いが昨日と同じように出迎える。周囲には誰もいない。窓の隙間風が紙を鳴らす音がしたのか、それとも自分の耳鳴りか。
棚からスケッチブックを取り出し、開いた。
花びらは、また一つ増えていた。枝は少し伸び、花の中心にはごく薄い影が落ちている。絵の下には、鉛筆の小さな文字がひとつ。
見えてるよ。
匠は肩から力が抜けるのを感じた。ふっと笑いそうになる。でも笑うと、どこかの糸が切れて全部夢になる気がして、口を結んだ。ページに触れると、線は昨日と同じく新しい。文字の癖は、あの走り書きと同じ。安堂桜子の筆跡。そう断言できるほどの材料はないのに、体のどこかで了解が鳴る。
周囲を見渡す。窓は閉まっている。カーテンはない。黒板には去年の秋に誰かが書いたデッサン用の注意書きが薄く残っていた。扉には内側から鍵はかからない。外の廊下は静かで、時々遠くの階段を上る足音がするだけだ。
匠は、シャープペンを取り出した。昨日と同じように端に書く。
どこにいるの?
迷った末、もう一行足した。
ひとことだけでいい。明日も来る。
書いたところを指で軽く押さえて乾かし、スケッチブックをそっと閉じる。胸の中に、小さな鼓動が二つあるみたいな感覚。自分の心臓と、紙の向こうから返ってくる返事を待つ心臓。
その日の帰り道、古賀には会わなかった。コンビニには寄らなかった。家に着くと、母が「今日は部活?」と聞いた。「掃除」とだけ答える。母は「えらいね」と言って、口元を少し緩めた。その何気ない一言が、たまらなくくすぐったかった。
夜。眠る前、スマホのカメラロールを眺めた。ほとんど食べ物と空ばかり。桜子の写真はない。当たり前だ。クラスの集合写真も自分は写る位置をいつも後ろに選ぶ。自分がいないことに誰も気づかないように。誰の記憶にも影響しないように。
その選択が、急に恥ずかしくなる。誰のせいでもないのに、誰のせいにもしないで済む逃げ方。スケッチブックに書かれた小さな「見えてるよ」は、自分のそういうところにまっすぐ刺さった。
三日目。授業をこなして、急いで渡り廊下を渡る。自分の足音が少しだけ誇張されて聞こえる。扉を開けると、空気が昨日と違った。言葉にできないが、部屋が誰かの呼吸を覚えている気配があった。
開いたスケッチブックには、花びらがまた増えていた。枝は前より低い位置まで伸びて、画面の隅に小さな蕾が描かれている。文字は、今度は少し長い。
窓の外。三時の風。体育館の陰が長い。ここで見てる。
匠は思わず窓の外を見た。三時を少し回ったところ。運動場ではバスケのドリブル音。体育館の壁は白くて、陰が伸びている。誰かがそこに立っている気配はない。それでも、見られていると感じる角度がある。鳥肌が立つ。怖い、より、どこか嬉しい。
迷って、匠は鉛筆を握り直した。文字を書くのではなく、ページの端に小さな花びらを一枚、描く。自分の線は相変わらず迷う。花びらは、少し歪んだまま完成した。
そのとき、廊下のほうからふいに足音が近づいた。扉が三センチほど開いて、スニーカーのつま先が見える。息を飲む間もなく、扉は閉じた。足音は、遠ざかる。
匠は立ち上がって扉に駆け寄り、ハンドルに手をかけた。開けようとして、思いとどまる。追いかけてどうする。名前も顔も分からない誰かに、何を言えばいい。
戻ってスケッチブックを開く。自分が描いた拙い花びらの横に、知らないうちに一本、線が足されていた。花びらの輪郭が、ほんの少しだけ整えられている。昨日までと同じ、迷いの少ない線で。
匠は笑ってしまった。声が少しだけ漏れた。返事を待つ必要は、もうないのかもしれない。ここは、二人で使う落書き帳だ。誰かと一緒にページを作っていくという感覚が、体の芯に火を点ける。
机の中を探ると、使いかけの色鉛筆が数本出てきた。赤、黄、薄いピンク。匠はピンクを手に取って、花の中心にほんの少しだけ色を差した。恐る恐る置いた色は、すぐに別の線で包み込まれたように見えた。目の錯覚かもしれない。でも、たぶん違う。紙の向こうにいる誰かが、笑っている気配がする。
帰り際、匠はスケッチブックの最後の白いページを一枚だけめくった。そこは、真っさらだ。何も描かれていない余白に、指でそっと触れる。紙は冷たい。けれど、その冷たさの奥に、まだ見たことのない春の温度が眠っているみたいだった。
階段を降りると、渡り廊下の先で古賀が手を振っていた。「おい、今日は寄るだろ」
「寄る」と返す。古賀は驚いた顔をして、すぐ笑う。「お前が即答、珍しいな」
「餃子ドッグが半額なんだろ」
「そう、それ。それだけじゃなくてさ、からあげ棒も……」
他愛ない話をしながらコンビニへ歩く。夕焼けが背中を押して、影が前に伸びる。匠はポケットの中のスマホではなく、右手を空けておいた。風が、桜の匂いを少しだけ運んできた気がした。
その夜。ベッドに横たわって、天井を眺める。今日のページのことを思い出すと、目が冴える。明日、どんな一枚が増えるだろう。花は、この先どこまで咲くだろう。満開の先に、散るページはくるのだろうか。最後の白いページは、いつ埋まるのか。
そして何より。あの文字を書いた人は、どこにいるのか。どこから見ているのか。窓の外、三時の風。体育館の陰。匠は明日、その場所に三時に行ってみようと決めた。結論を急ぐのは苦手だ。だけど、扉を開けることはできる。誰かに届く声で、名前を呼ぶことはできる。
明日、呼ぶ名前は、もう決めてある。
桜子。
それは、去年の冬に飲み込んだまま、言えなかった音だ。呼べば、たぶん、世界は何かを返す。返ってくるのが沈黙でも、風の音でも、鉛筆の線でも。どれでもいい。ページは、次の一枚を待っている。
眠りに落ちる直前、匠は薄暗い部屋の中で目を閉じながら、誰かの声を確かに聞いた気がした。耳ではなく、もっと奥のほうで。
また明日も、花びらを描こうね。
目を開けると、部屋は静かで、窓は閉まっていた。スマホの時計は、日付が変わる少し前。天井の暗がりに向かって、小さくうなずく。明日。三時。体育館の陰。ページの続き。
そうして匠は、眠りに落ちた。胸の中でふたつの鼓動が、同じリズムを刻んでいた。アニメの次回予告みたいに、次の場面の光だけがまぶたの裏で明滅している。白いページの向こうで、誰かの指先が待っている。花びらは、まだ増える。明日も。明後日も。名前を呼ぶときまで。名前を呼んだ、その先まで。




