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第1話 終わりの見えない旅路

本当にこの道を進んでいて、正しいのだろうか。


終わりの見えない旅路。

目標に近づいているのか、遠ざかっているのかすら定かではない。


森は思っていた以上に深く、光は遮られ、冷たい風が枝葉を揺らすたびに微かなざわめきが耳をくすぐる。

杉本真也は背後を振り返る余裕もなく、ただ前へと足を踏み出しながら悪態をついた。


「くそっ、なんなんだ……!」


苛立ちの中でふと、冷静に自分の状況を見つめ直す。

不幸中の幸いと言うべきか。空気がある。呼吸ができる。生きている。

それだけが、せめてもの救いだった。


気がついたときには、すでに森の中に立っていた。

なぜ自分がひとりで彷徨っているのか、杉本は必死に思いを巡らせる。

事の発端は――赤羽の悪臭事件から二週間ほど経った夜、再び巻き込まれた異変だった。


---------


「こんばんは杉本さん、ご無事ですか?」


夜勤に向かう長瀬が、出勤途中に杉本を見かけて笑顔で挨拶する。

中肉中背で、少しとぼけた印象の中年男性・長瀬良治。

彼とは、赤羽駅前で起きた不可解な悪臭事件の夜に出会った。


その夜、駅前には突如として酸とも腐臭ともつかぬ不快な匂いが広がり、人々は次々と倒れ、救急車で運ばれていった。

赤羽駅前勤務の警察官・杉本は、異臭騒ぎの治安維持に奔走していた。

倒れた人々の中に長瀬もおり、杉本は咄嗟に彼を支え、共に救急車に乗り込んだ。


救急車の中で意識を取り戻した長瀬は、異臭の中で感じた違和感を語り始める。


「私は……確かに……何かを見た……いや、見た気がするんです」


杉本は、長瀬の言葉に耳を傾けながら、彼にも異臭を吸った者に特有の症状が現れていることに気づいた。

同様の症状――意識障害や幻覚――は、すでに複数の患者に確認されていた。

だが、長瀬の語る“違和感”は、ただの幻覚として片づけるには、あまりにも生々しく、現実味を帯びていた。


彼はその感覚を、繰り返し呟くように訴え続ける。


「歪んだ視界の中に、蠢く影を見たような気がするんです」


言葉は混乱しており、要領を得ない会話が続いた。

だが、次第に意識がはっきりしてくるにつれ、長瀬の話す内容も徐々に明瞭になっていった。


救急車の窓から見える街の灯りが、遠ざかるように流れていく。

車内の揺れとサイレンの音が、現実と非現実の境界を曖昧にする中、杉本は長瀬の言葉に耳を澄ませていた。

その声の奥に、確かに“何か”が潜んでいるような気がした。


得体の知れない意識の気配、幻覚とも言えぬ空間の歪み。

そして、人とも動物ともつかぬ奇妙な影との邂逅。

二人はその影を相手に、必死で戦っていた。


その夜の経験を共有した杉本と長瀬は、警官と市民という枠を越え、戦友のような絆を築いていた。


異臭事件から二週間が過ぎ、赤羽駅前も長瀬自身も、ようやく平穏を取り戻しつつあった。

そんなある日――


---------


「長瀬か。ずいぶん落ち着いてきたみたいだな」


勤務中の杉本を見つけた長瀬が声をかける。

杉本は口元を緩ませ、穏やかに返事を返す。

平和な日常の会話。だが、その束の間に再び影が踊る。


ぐわん!


長瀬の視界が揺れ、歪む。


異臭事件の夜と同じ時間帯、同じ夜。

漆黒の手が影から伸び、長瀬を襲う。

歪みの中へ、有無を言わさず引きずり込まれていく。


突然の襲撃。

杉本は躊躇なく手を伸ばすが、虚しくも虚空を掴むだけだった。


間に合わなかった。


一瞬の出来事に呆然としていると、杉本の足元にも闇が広がる。

避ける間もなく、彼もまた闇へと落ちていった。


つい先ほどまで笑顔で話していた友人を目の前で攫われ、そして自分自身も囚われた悔しさ。

杉本は己の無力さを嘆き、怒りを吐き出す。


「くそっ……何もできなかった!」


真っ暗な視界の中、落ち続ける恐怖と怒りが交錯し、気が狂いそうになる。

不快な落下感の中で、怒りをぶちまけるように叫ぶ。


パァァ……


怒りと恐怖で意識が遠のきかけたその瞬間、突如として強い光が杉本を包み込む。


「はっ? なんだ……?」


暗闇を照らす強烈な光。

その中に、幻想的な女神の姿がゆっくりと浮かび上がる。


女神は、有無を言わさず一気に言葉を捲し立てた。


「時間がありません。手短に説明します。あなたに、人々を救うための力を授けます。その力をうまく使えば、多くの命を救えるでしょう。もし失敗しても、責めたりはしません。ご武運を祈ります」


――本当に、一瞬の出来事だった。


目を見開きながら、何が起こったのか混乱していると、やがて闇の崩落は終わりを迎えた。

朦朧とした意識の中、杉本は歪み、軋み、溶け合う不可思議な空間を延々と落ち続けているように感じていた。

だが次の瞬間、まるで椅子から転げ落ちるような衝撃が身体を打ち、意識が急激に覚醒する。


ドスン!……ぼてて。


「うわわっ!」


朝日がうっすらと差し込む森の中へ、暗闇から吐き出されるように転がり落ちた。

尻もちの衝撃は、長く落ち続けていたとは思えないほど軽かった。

だが、まるで狐や狸に化かされたような現状に、杉本の混乱はさらに深まり、苛立ちを募らせる。


「くそっ、何がどうなってやがる……」


冬の森を思わせる冷気が、警察官の制服を透して身体を締めつける。

腰に下げていた拳銃も警棒も、ここではまるで役に立たない。

道らしい道はなく、踏み跡と呼べるのは獣道にも満たない荒れた一本道だけだった。


半ば放心状態のまま、ぽつんと佇んでいると、森の奥から視線のような圧がじわりと肌を撫でる。

微かな人影のようなものを追いかけるが、枝の陰に溶けて見失ってしまう。

杉本は苛立ちと恐怖を誤魔化すように、荒れた地面を蹴飛ばした。

固い岩を蹴り上げ、その痛みが腹の底に響く。


と、その時。蹴り上げた視界の先に、古びたペットボトルが転がっているのを見つけた。


「ペットボトル……? どこかに人がいるのか?」


空っぽの容器に、どこか安堵を覚える。

それは、ほかに情報らしいものが何一つないせいかもしれない。

突然、見慣れぬ山奥に放り出された混乱した頭は、見慣れた文明の産物に縋るような安心感を求めていた。


ここはどこなのか。長瀬はどうしたのか。あの女性の声はいったい……。

疑問が頭の中をぐるぐると巡る。

杉本はまとまらない思考に不安を覚えながらも、ペットボトルをそっと拾い上げ、ポケットへ押し込んだ。

僅かな手がかりでも、道しるべになるかもしれない。


そう思った次の瞬間、頭上で風が巻き起こった。


暗い梢がうねり、突風に巻き込まれた杉本は、風の中に沸き起こる闇の重圧に呑まれていく。

背後から何かが襲いかかる気配に、反射的に身をかがめる。


だが、足がもつれ、崖から転げ落ちるように深い闇の瘴気へと引きずり込まれてしまった。


「くそっ……!」


暗い瘴気が渦巻く空中で拳銃を握りしめたまま、意識は遠のいていく。

そして最後に、耳をつんざくような少年の声が頭の中で響いた。


──「揺らぐ世界を見たか、人間よ」


目が覚めると、杉本は冷たい朝露に濡れた苔の上に寝転んでいた。

何がどうなったのか戸惑うばかりだが、どうやら闇の暴風からは逃れられたらしい。

胸を打つ痛みで息を吸うと、腰の拳銃も警棒も消え失せ、右手に残るのは――見知らぬ細長い杖だった。


不思議なことに、杖を握るほどに、ほんのりと暖かな光が手のひらに広がる。


頭の中で、美しく澄んだ女性の声が囁く。


──「探索者(Explorer)の力を手にしたあなたなら、真実を知ることができるでしょう」


朦朧とした視界の中、杉本は杖を振りかざす。


「なんだ……何が起こってるんだ?」


次々と起こる不可思議な現象と謎の声。

混乱は、いまだ収まる気配すらない。


だが――杉本の冒険譚は、彼の感情などお構いなしに進行していく。

唐突に足元の苔が淡い輪郭を帯び、まるでコンパスが指し示すように「北」の方角を示した。

手にした杖が発するこの感覚──不思議な力を感じる。

なぜだか、魔法の力だと直感した。


「……こっちに行けってことか?」


腰の痛みをこらえてゆっくりと立ち上がる。

不安に胸を締めつけられながらも、杉本の足は、まるで何かに引かれるように前へと動いた。

空気は粘りつくように重く、肌にまとわりつく霧の中を、もがくように進んでいく。


服は獣道の茂みに擦り切れ、冷たい朝露に晒された身体は、まだ芯まで冷え切っていた。

だが、不思議な導きに身を任せて進むと、眼前の森は確かに様相を変えていた。


木々の幹に残る樹液や、地面に漂う湿気のひとつひとつが、彼の“探索者”スキルに応えてくれる。


──人間が足を踏み入れてはいけない世界。


そんな言葉が、どこかで囁かれた気がした。

それでも杉本は振り返らずに進んだ。

杖の先が示す方向、茂みをかき分けた向こうに、かすかな村の灯りが揺れている。


「……あの光が、俺の行く先なのか」


森の暗闇と静寂を背に、杉本真也は自分を導いた不思議な力を信じ、一歩を踏み出した。

次回、第2話「辺境村オレリウムの灯り」

薄暗い森の先にある、小さな村。今夜は祝福の夜なのに……歓迎できぬ“何か”が近づいていると、村長は呟く。

夜空に輝く二つの月。ひとつは青く悲しげに、もうひとつは赤く燃え上がるように警鐘を鳴らす。

影の群れは、闇の瘴気を纏いながら咆哮を上げ、村人たちに襲いかかる――。

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