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広場へ戻った彼らが見たものは、あたり一面が水浸しになった床であった。
「おい、ここだ」
オリヴァーが床の一部を指さしていた。そこには大きな床板がずれ動き、床に投げ出されたように置かれていた。ずれ動いた部分は、ぽっかりと大きな穴が開いている。
「ここは水道の一部みたいだぜ」
オリヴァーが言うように、そこは大量の水が流れていた。地下の水脈からくみ上げられた水が迷宮内を循環しているのだ。
「水の勢いが思ったより強い」アンリは顔をしかめた。「それに、ひとが通るには天井が低すぎて呼吸する空間がまったくない」
アンリは首を振って天を仰いだ。「水道はダメだ。こんなのを溺れずに進むことのできる者はいない」
その言葉で、アンリはデレクの考えた脱出方法に期待していたのだとみんなにわかった。
「でも、この水道を誰かが通ってやって来た」
レトは床にしゃがみこんで、空いた床をのぞきながらつぶやいた。
「ここで床板を押し上げ、この階層に入ってきた」
レトは濡れた床に指先をつけると、濡れた跡をなぞった。
「この階層に入ったものは、この通路に向かい、そのまま奥へ進んでいる」
レトは通路の先を指さした。レトが指さしたのはルーベンが倒れていた部屋へ通じる通路だ。
「まさか……」レティーシャが声を震わせた。「ルーベン……?」
「この水路を使って、この階層までやって来たって言うのか?」
アンリは信じられないという表情だ。
「さっき話しましたね。死骸者は死の罠を恐れないと。なぜなら、すでに死んでいるから」
レトは立ち上がりながら言った。「死者が今さら溺死すると思いますか?」
その言葉を否定できる者は誰もいなかった。そう。デレクでさえ苦々しい表情を浮かべながらも無言だった。
「濡れた跡をたどりましょう。ルーベン氏を見つけられるかもしれません」
レトはそう言うとデレクに顔を向けた。
「どうでしょうか?」
「わかった。好きにしろ。お前が先頭だ」
デレクはうなずいたが、危険な先行を押し付けるあたりはさすがだった。
一方、レトは嫌な顔ひとつ見せずに、先頭に立って歩き出した。言われずともそうするつもりだったらしい。
濡れた跡は、ところどころ途切れながらも、ほとんど一本の筋のようになって通路の中央を通っていた。途中の分かれ道にも迷う様子もなく進んでいる。ランタンの光を反射し、濡れた跡がキラキラ光るので、跡をたどるのは簡単だった。
水跡は、そのまま部屋の前を通り過ぎていた。
「部屋に戻ったわけじゃないんだ……」
メルルはつぶやいた。
その後は、誰も発言するわけでもなく、無言の追跡が続いた。
「おい……。どういうわけだ?」
アンリが困惑したような声をあげた。
水跡の行き先は、6層へ通じると思われる扉だった。しかし、行く手を阻んでいたはずの扉は消え失せ、そこに真っ黒な空間が開いていたのである。水跡はその空間へ消えていた。
「階段だ。降りる階段がある!」
リュートがランタンの明かりを空間に差し入れて声をあげた。周りの者たちも、おそるおそる近づいて空間をのぞき込む。
「……たしかに、階段だ」
リュートの肩越しからのぞきこんだアンリがつぶやいた。
「でも、どうして、今度は6層への階段が現れたの?」
レティーシャは理解できない不安を隠すことができないようだ。眉をしかめている。
「どうする? 下に行ってみるか?」
アンリは周りに尋ねた。
「今すぐはやめたほうがいいかもしれません」
言い出したのはレトだ。
「この水跡がルーベン氏によるものだとすれば、僕たちは降りなければならないでしょう。ですが、それは同時に、ルーベン氏が待ち伏せる領域へ足を踏み入れることも意味します」
「ルーベンが……待ち伏せる?」
アンリは小声でつぶやき、レティーシャは表情をこわばらせた。
「どうも、ルーベン氏は僕たちを追ってきたようなので」
レトの答えに、今度はリュートが顔をこわばらせた。
「追ってきたって……。死骸者がそんなことを考えるものなのか?」
「皆さんに説明したように、死骸者は屍霊と根本的に別の存在です。生前と同程度の知性をもち、行動ができる。生者を見れば見境なく襲う屍霊のほうが凶暴で脅威ですが、死骸者は知恵がある分、対応が厄介なのです。
加えて、感情や行動原理は生前とまるで変わってしまうので、生前の思考や癖をもとに対応を考えることもできません。
今回、僕たちが追うルーベン氏はルーベン氏であって実態は別だと考えなければならないのです。
もし、ルーベン氏がほかの死骸者と同様に、僕たちを死の世界に引き込むことを考えているのであれば、あの手この手で僕たちの命を狙うことでしょう。ギガントラットのような対処法がわかっていればどうにかなる相手ではないのです。
そのことを踏まえずに、のこのこと6層なんかに足を踏み入れたら、僕たちは簡単に狩り殺されかねません」
「ご高説ありがとさん」
デレクが愛想のいい笑顔でレトに近づいた。
――危ない。
メルルの頭のなかで何かが危険を知らせた瞬間、レトの身体がふっとんで通路の壁に激突した。
デレクの重い脚が、レトを蹴り飛ばしたのだ。
「レトさん!」メルルは叫ぶやレトのもとへ駆け寄った。
「おい、探偵。俺は言ったよな? お前に発言権なんて認めていねぇって。そう言ったのは、ついさっきだぞ? それをべらべらしゃべりやがって。いいかげん覚えろよな。それとも何か? アージャ族はさっき言われたことも忘れてしまうほど頭が悪いのかよ!」
デレクは床に転がったレトを見下ろして、大声で吐きつけた。顔には忌々しさがありありと浮かんでいる。
「だったら、さっさと下へ行ったらいいでしょ!」
メルルは倒れているレトに手をかけたまま泣き叫んだ。
「レトさんは生命に危険があるから、わざわざ注意してあげただけなのに! それなのに、こんな仕打ちをするなんて!」
「おいおい、お嬢ちゃん。お前はこんな劣等民族をかばうのか? こっちが言っているのは、この世界で『まっとう』に生きるための講義だぜ? いいか、この世界にはちゃんと序列ってのが存在する。王様、貴族、それに平民。ガリヤ族、それ以外。人間、それ以外ってな。いったい、この世界のどこに序列や区別がないなんて言える? 加えて、ここじゃ弱肉強食世界だ。弱い奴は強い奴の言うことを聞かなきゃならねぇんだよ」
デレクはずしりと重い脚を一歩、メルルに向けて踏み出した。
「こいつはガリヤ族じゃねぇ。薄汚いアージャ族だ。そして、俺よりも弱い。第2層できちんと序列をつけてやったんだぞ。誰にもわかりやすくな。こいつは、せっかくわかりやすくつけてもらった序列を無視する行動をした。罰を受けるのは当然だろうが!」
とてもまともな理屈とは思えない。力があれば、暴力に長けていれば、こんな子供じみた理屈を平気でこねられるのか。メルルは怒りと呆れの感情が頭のなかでごちゃまぜになる感覚になった。
メルルが何かを言おうと口を開きかけたとき、顔がさっと暗くなった。誰かがメルルの前に立ったのだ。
「デレク殿」
メルルの前に立ったのはロズウェルだった。
「もう、ここまでにしませんか? あなたは、このか弱い女の子も折檻するつもりなのですか? しかし、それは、誇り高きガリヤ族の男がする行動ではありませんでしょう?」
ロズウェルは静かな表情で話しかける。さらにメルルに詰め寄りかけたデレクはその歩みを止めた。不機嫌そうな顔つきでロズウェルの顔を睨みつける。
「神官様よ。ここはあんたの顔を立てておくが、忘れんでくれよ。ここは迷宮のなか、冒険者の世界なんだ。冒険者の流儀ってものをないがしろにされちゃ、さすがのあんたにも力づくでわからせてもらうぜ」
「心得ましょう」ロズウェルは小さくうなずいた。




