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「おい」
アンリが立ち止まって声をあげた。「何か音が聞こえないか?」
全員が立ち止まって耳をすませると、どこからか水の流れる音が聞こえる。
「この階層には水道が使える箇所がいくつかあった」
リュートが通路の奥を指さした。「この先にもあっただろ?」
一行はルーベンが倒れていた部屋の前を通り過ぎ、音の聞こえるほうへ進んだ。すぐに、グリュックが洗い物をしている場面に出会った。通路のつきあたりが小さな広場のように広がっており、通路は左右に分かれていた。小さな広場には手水と思われる器が載った台と、ひとひとりは横たわって水を浴びられるような窪みがあった。手水の上には水を流す石製の樋があり、その先から水が流れている。水は手水からあふれて窪みに向かって落ちていた。
グリュックはこちらに背を向けて、窪みに落ちる水を使って何かを洗っているところだ。ざぶざぶという洗う音が広場全体に響いている。
「グリュックさん、何を洗ってるんです?」
メルルが声をかけると、グリュックはくるりと顔を向けた。
「ぐ、グリュックさん……」
振り向いたグリュックの顔は、頬のあたりが腫れていた。鼻や口から血を流した様子も見られる。
グリュックは蒼ざめたメルルの顔を見ると苦笑を浮かべた。
「やぁ」
そう言うと顔をそむけるように前を向いて作業に戻る。
「さっき仕留めた大トカゲをさばいているんです。大トカゲの肉は美味しいのですが、血に毒がありますからね。加熱すれば壊れる性質ですが、できるだけ洗い落としたほうがいいんです。まぁ、誰も生で食べようとは思わないでしょうが……」
グリュックは顔を水道に向けたまま説明を続ける。メルルはグリュックの隣へ駆け寄った。
「グリュックさん、顔をこちらに向けてください!」
メルルはそう言うなり、グリュックの身体を自分に向けた。ケガの具合を確かめると、両手をグリュックの前に掲げた。
「少し、じっとしてください!」
メルルは強い口調で言うと、回復魔法の呪文を唱え始めた。
間もなくグリュックは顔の腫れが引いて元どおりになった。ケガとしては大したものでなかったようだ。
「すみません、私なんかのために……」
グリュックは本当に申し訳なさそうに頭をかく。
「『なんか』じゃありません! デレクさんですか? グリュックさんの顔をこんなにしたの」
メルルは完全に憤って、強い口調で尋ねる。
「気にしないでください。私は気にしてませんから。さっきも、ここで鼻血など洗い流し、腫れを水で冷やしたので、だいぶ楽でした。もちろん、メルルさんのお心遣いには感謝しています。ですが、私にあまり優しくなさらないでください」
「そんな……」
「団長に目をつけられますよ」
その言葉にメルルは次の言葉が出なかった。
『悪狼』と呼ばれるだけあって、デレクは乱暴者だ。気に入らないことがあれば暴力で訴えようとする。ただの暴れん坊であれば対処はできる。しかし、デレクは戦いに長けた男なのだ。デレクにとって、暴力は特技だと言える。そんな男を相手に、メルルがどうかできるはずもなかった。実際、レトがデレクとの果し合いで敗れているのだ。
「お嬢ちゃん、頼むから事を荒立てないでくれよ」
肩に手を置かれて見上げると、そこにアンリの顔があった。かなりのしかめ面だ。
「俺たちは『銀狼団』と争いたくないんだ。奴らはひとりひとりが俺たちよりも強い。もし、全面戦争にでもなったら勝てる見込みはない」
アンリはちらりとレトに視線を送った。「たぶん、あんたの先輩が味方してくれてもな」
レトは少し離れた場所で、じっとこちらを見ている。表情には何の感情も見られない。レトは怒っていても、喜んでいても、感情がおもてに現れることはほとんどない。そのせいで、グリュックがデレクから暴力を受けていたことに憤りを感じているのか、それとも何も感じていないのか、表情からうかがうことはできない。しかし、メルルは知っている。レトはこういうことを一番怒る人間だと。
そのレトが沈黙しているのだ。メルルは小さくうなずくと立ち上がった。意図まではつかめないが、レトがそのままにするとは思えない。ここは、アンリの言葉に従うふりをして様子をみよう。そう考えたのだ。
ずうううん……。
お腹に響くような音が響いたのはそのときである。大きくはないが重低音の強い音。空気がびりびり震えたような気さえする。
「な、何だ?」
アンリも立ち上がって、あたりにランタンの明かりを向けた。多くの者が明かりを手にしているおかげで、あたりはそれなりに明るいが、それでも通路の奥は闇に近い。見えにくい状況でアンリが困惑の表情を浮かべていると、通路の奥からオリヴァーが姿を現した。続いて、ロズウェル、デレクと銀狼団の面々が現れる。
「おい、今の音は何だ? 何か重いものが落ちたような感じだったが」
デレクが広場に集まった者たちを見渡しながら尋ねた。
しかし、誰も音の出どころも、その正体もわからないので説明できる者がいない。誰もが無言で小さく首を振るだけだ。
「チッ。使えねぇな」
デレクは忌々しそうに舌打ちした。
そのとき、デレクの背後からクラリスが現れた。「ちょっとまずいことになったよ」
デレクは顔だけ振り返った。「まずい? 何がだ?」
クラリスは少し言いにくそうな表情になった。デレクだけでなく、アンリたち『マドラス団』の者たちにも不安そうな視線を送っている。
「おい、クラリス。早く話せ。何がまずいんだ?」
デレクが急かすと、クラリスは覚悟を決めたように口を開いた。
「4層へ戻る階段が消えてしまった」




