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通路を戻りながら、リューゼは自分の心がどこかほかのところを歩いていると感じていた。心ここにあらずといったところか。
さっきは、リュートが口を挟んだおかげで、レトの追及が自分にも向かわずにすんだ。もしかすると、リュートもその追及をかわすために話の流れを変えることをしたのかもしれない。
それならそれでいい。自分に、そんな腹芸のようなことができたか自信がないからだ。流れに身を任すだけで面倒ごとから回避できるのであれば、周りの思惑などどうでもいいのだ。
――そう――。
ルーベンが『厄介』な話を持ち出したのは、レティーシャに対してだけではなかったのだ……。
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「……今の話、簡単にわかるよう、もう一度説明してくれる?」
リューゼは目を伏せたまま言葉を吐き出した。
「簡単に言えば、側室として君を迎えると言ったんだ」
答えるルーベンの声は落ち着いたものだった。
マドラス伯の屋敷、談話室でリューゼはソファに座っていた。ルーベンは少し離れたバーカウンターで、彼女から背を向けて立っていた。グラスに酒を注いでいるところだ。
「この間、結婚しようって言ってくれたのは、そういう意味だったの?」
「あのときはそうじゃなかった。でも事情が変わったんだ」
「事情って?」
「君の身分が問題になった」
「平民の女は貴族の妻としてふさわしくない。そういうことね?」
リューゼの問いに、ルーベンは一瞬動きが止まった。しかし、すぐに「そうだ」と返した。
「あのとき、あなたから結婚を申し込まれたとき、私、言ったじゃない。『私でいいの? 平民の女でいいの?』って。あなたは『君がいいんだ』って言ってくれた。だから、結婚を決めたのに。両親は心から喜んでくれたわ。『おめでとう』って言ってもらえた。でも、側室としての婚姻でした、なんて聞いたら……、あのふたりはどんな顔をすると思う? 私だって納得できないわよ! それに……、側室ってことは、あなたに正室となる方との婚姻話があがっている……ということよね?」
「チェスタトン男爵のご息女だ」ルーベンはうなずいた。
「かつて、勇者リオンと浮名を流したうわさのあるご令嬢だ。うわさのせいで嫁ぎ先の見つからない娘を、父上が受け入れることにしたんだ。チェスタトン家は、母上の親戚筋にあたるからね。改めて絆を深めたいのだろう」
「いわゆる政略結婚ってことね」リューゼは暗い顔でつぶやいた。
「顔を合わせたことはもちろん、手紙のやり取りすらしたことがない相手だ。情も湧くはずがないだろう? ただ、相手は貴族だ。ふさわしい待遇で迎えなきゃならない」
「あなたは受け入れたの? その話を? そんなに簡単なことなの? 結婚することって?」
「僕は貴族だ」
ルーベンはくるりと身体の向きを変えた。その表情には一切の感情が見られなかった。
「貴族には貴族としての生き方がある。それと、義務もね」
「あなたの生き方だの、義務だの、そんなの私にはどうでもいい」
リューゼは厳しい口調で言った。
「ご正室様のご機嫌うかがいをしながら、あなたと暮らしていくなんて私にできると思う? そんな暮らしなんて私には耐えられない。この婚姻話、なかったことにしましょう」
「何を頑なになってるんだ? 君が嫡男を生めば、そんなの問題じゃなくなるんだぞ」
ルーベンの言葉に、リューゼの顔つきが変わった。「嫡男?」
ルーベンはうなずいた。
「正室より側室が権勢をふるっているなんて話、そこらじゅうにある。いずれも正室に後継となる男子が生まれず、側室が嫡男を生んだ場合だ。そういう家では、側室が実質的な正室として扱われるんだ。不思議な話でもないだろう?」
「あなた、私に嫡男を生ませるために側室になれって言ってるの?」
「もちろん、君のことは愛してるさ。だから、結婚を申し込んだ。ただ、さっきも言ったとおり事情が変わった。結婚さえできればいいって状況じゃなくなったんだ。
君には、僕の状況を理解してもらい、ともに分かち合ってほしいんだ」
思わずリューゼは立ち上がった。
「分かち合う? そんな事情を? そういうのは分かち合うなんて言わない。ただの押し付けよ!」
「そう頑なになるなよ」
これまでルーベンの表情に変化はなかったが、さすがに不機嫌なものになっていた。
「君はどうしたいって言うんだ」
「さっき言ったじゃない。この婚姻話は、なしにしましょう。婚約は解消しましょうって!」
「だめだ」ルーベンの答えには取りつく島もなかった。
「どうして!」
「誰も僕から離れることは許さない。認められない!」
ルーベンは大きな声を出した。声の大きさに、リューゼの身体がびくっと震えた。
「絶対、許さない」
ルーベンの目には異常な熱がこもっていた。リューゼは初めて見るルーベンの目に戦慄を覚えた。この目には計り知れないほどの執着を感じる。リューゼはこのような目をする者をこれまで見たことがなかった。
「いいか。君が僕のもとから離れたりしたら、僕はそのままにはしない。君の両親は我がマドラス領の領民だ。君の両親がどうなるか覚悟してくれ。両親と一緒に逃げ出そうとしても無駄だ。僕は君の父親が歩けないことを知っている。父親だけ置いて逃げ出すことが君にできるか?」
ルーベンは本気だ――。
ルーベンの目を見たリューゼは確信できた。ルーベンの目は言葉以上に宣言であり、宣告だった。そして、それに抗うことが彼女には不可能であることも確信させた。それだけルーベンの目は、常軌を逸したものを感じさせたのだ。
「……あなたは……、私を、脅すの……? 貴族の、力を使ってまで……」
「これは脅しじゃないよ、リューゼ」ルーベンの声は落ち着きを取り戻していた。しかし、その『落ち着き』はリューゼの知るそれとは別物だった。リューゼはその声を聞いて、自分の身体が慄くのを感じた。
「僕は誰も不幸にしたくない。本当だ。『誰も』って言ったけど、それは僕自身も含まれている。頼むから君の身勝手で僕を不幸にしないでくれ。それに、僕の不幸は君にとっての不幸につながるだろ?」
ルーベンの理屈には否定以外の何も見当たらないが、今のリューゼには否定することができなかった。
狂っている。ルーベンは一番大事な部分で狂ってしまっている。彼女でなくとも、この状態の人間に抗える者などいるのだろうか? なだめすかし、調子を合わせる以外にできることなど……。
「わかったわ、ルーベン」
リューゼの口から出た言葉はそれで精いっぱいだった……。
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あれは、いつのことだったのだろう?
たぶん、リュートがマドラス伯とルーベンの諍いを耳にしたころと同じころだ。
おそらく、その諍いがルーベンを変えた。いや、かつてのルーベンにも身勝手な言動はあった。ただ、ひどいと思うほどでなかった。むしろ、その子供っぽい部分を可愛いと思ったことさえあったくらいだ。
そう。だからルーベンを愛するようになった。結婚の申し出を受けた。
自分が貴族社会に馴染めるとは思っていないが、ルーベンを支えていくことはできると思っていた。『マドラス団』で、副長であるアンリよりも団やルーベンを支えてきた自負が彼女にあったからだ。
しかし、あの出来事が彼女の自信を打ち砕いた。
名の知れぬ迷宮に彼女を落としてしまった。あのときの彼女はろくに装備もないなかで迷宮をさまよう弱者にすぎなかった。どう抗えばいいかもわからない、か弱い存在だった。
この、どこまでも深い『迷宮』から抜け出すには……、それが、ある人物の死によって可能であるなら……。
リューゼはそこで考えるのをやめて首を振った。
もう、あれは過去のものだ。ルーベンの言う、『状況が変わった』のだ。
今の自分は、この状況をどう乗り越えるか。そこだけを考えるのだ。
リューゼは後ろを振り返った。
彼女の後ろにはリュートがついて歩き、さらにその後ろをレトたちが歩いている。今するべきは、あの探偵に悟られないようにすることだ。たとえば、さっきまで彼女の胸の内に広がっていたものとか。
リューゼは前を向いて歩き続けた。




