出所後
「『もう戻ってくるなよ』か……。けっ、他人事だから言えんだよ」
そう悪態をついた男。雑草がちらほらと生えている砂利道に唾を吐き捨て、肩を怒らせながら歩いていた。刑務所を出たばかりのその体には自由の風が妙にこそばゆく、不快だった。
「今からまともな人生なんて送れるわけねえだろうが。また何かやってやらあ……」
そう息巻きながら、転がっていた石を蹴り飛ばす。土埃が舞い、靴とズボンの裾にかかった。石は横へ逸れ、道の脇に生い茂る青々とした雑草の中へ消えていった。郊外の一本道。まだ街まで遠い。男はあくびをし、伸びをした。
そのとき、黒塗りの車が静かに横に滑り込み、ぴたりと停まった。
運転席の窓が下がり、中からスーツ姿の男が顔を覗かせた。
「君、何をしているんだね?」
男はその堅い雰囲気に思わず身構えた。だが、よく考えればまだ何もしていないのだ。相手が警察だろうと怯える必要はない。だが出所して早々、面倒事はご免だ。
「いや、出所したばっかだからよ。とりあえず街に向かってんだ」
とりあえず、素直にそう答えた。そして、何か文句でもあるのか、というように睨む。スーツの男は「ああ、やはり君か」と呟き、頷いた。
「刑務所の前で待つように通達したはずだが、どうやら行き違いがあったようだな」
「へ? じゃあ、もしかして、おれを迎えに?」
「そうだ。こちらで生活の手助けをする。まずは車に乗ってくれ」
男は訝しみながらも、促されるまま車に乗り込んだ。
その後の展開は拍子抜けするほど順調だった。住居が用意され、冷蔵庫には食料が詰まり、翌日には仕事まで世話してもらえた。信じられないほどの手厚さだ。まさか社会がここまで更生支援に本腰を入れていたとは……と男は感心すら覚えた。
しかし……。
『警告、姿勢を正してください』
「あ、はい……」
『視線は前方を向いてください』
街で暮らすようになった男は、その変化に目を回した。街を歩いていると、至るところから無機質な声が飛んでくる。信号機、街灯、ビルの壁面。ありとあらゆる場所に監視カメラとスピーカーが設置されており、一挙一動を見張っているのだ。背筋を丸めるただけで、すぐに警告が飛ぶ。きょろきょろと視線を泳がせようものなら、即座に前を向くよう指示。さらに飲食店では箸の持ち方や食べ方にまで監視の声が響いた。
だが、それは男が前科者だからというわけではない。周囲の人々も同じように監視され、まるで当然のようにそのルールに従い暮らしていた。
「十数年、刑務所にいたとはいえ、世の中がこんなにも進化していたとは……いや、進化と言えるのか?」
『警告、独り言は不審行動です。市民に不安を与える行為はおやめなさい』
「うるせえな!」
『警告、暴言。減点一』
「ああああああ!」
『警告――』
刑務所の規則は厳しいと男は思っていた。だが、外の世界はそれ以上に自由が制限されていた。しかも、この制度はこの街だけでなく、国全体に敷かれているという。かつて凶悪犯罪が多発したことや、親が子供のしつけを学校や政府に丸投げしたことが、この結果を生んだらしい。
見張っているのは監視カメラだけではない。人々の目もまた、他人の行動を鋭く監視していた。『常識』から外れた行動を取ろうものなら、嬉々として通報する始末。
「ちょっと、そこのあなた! 警告が聞こえないの!? 何何騒いでるのよ。黙りなさいよ!」
見知らぬ中年の女が、男を睨みつけて怒鳴った。
男は黙り込み、ゆっくりと拳を握った。
「とっとと、どっか行きなさいよ! 警察呼ぶわよ!」
そして、無言のまま拳をぐっと振り上げた。
「ちょっと、何してんのよ! 馬鹿なの!? あっ、あんたのせいで私まで警告受けちゃったじゃないのよ! どうしてくれん――」
拳が女の顔面に叩き込まれた。鈍い音が響き、女は「ほぶっ!」と短く悲鳴を上げて地面に崩れ落ちた。
「いやあああああ!」
『警告!』
「キチガイだ!」
『警告! 差別的な表現は禁止されています』
警告音と悲鳴が重なり、商店街に響き渡る。男は近くの老人から杖をひったくり、商店のガラスを片っ端から叩き割り始めた。怒れる指揮者のように杖を振るい、破壊のリズムを奏でる。逃げ惑う人々の足音が、拍手のように響いた。
だが、それも長くは続かなかった。空から現れた無数のドローンの駆動音が、街の喧騒を一瞬で飲み込んだ。
男は抵抗する間もなく拘束され、この破壊劇はほんの数分で幕を閉じた。
それでも、男の口元には薄く満足げな笑みが浮かんでいた。
「ああ、これで刑務所の中に戻れる……」
「なんだ、刑務所目当てか……」
現場に駆けつけた警官の一人が、肩をすくめて息を吐いた。
「刑務所は今、満員御礼だぞ」