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鏡の中の笑顔

作者: 木下みのる

 俺は、鏡の前に立って、にこりと笑ってみた。とても幸せそうな顔だ。悩み事など何一つない俺には、相応しい笑顔だ。

 俺は昔から、噓をつくのが下手だった。しかし、笑顔の演技だけは人一倍自信がある、いや、あったはずだった。


「お前の笑顔、なんか胡散臭い」


 昨日、久しぶりに会った兄から言われた一言だ。俺は、「いつも能天気で幸せそう」だとか「幸せそうで羨ましいよ」だとかは言われ慣れていた。だから、そんなことを言われたのは初めてだった。

 理由を問い詰めてみたものの、無視を決め込まれた。言いたいことだけ言って去っていく。なんて自分勝手なやつだ。

 もう一度、鏡の中の自分を見た。幸せそうだ。胡散臭そうには見えない。

 俺はほっとして、布団の中に潜り込んだ。



 夢を見た。長い夢だ。今の会社に入社してからの、長い夢。

 上司は俺のことを褒めていたし、同僚は俺の事を羨んでいた。

 どうやら俺はこの職場で一番優秀らしい。とても誇らしい気分だ。

 後輩に、「今日は俺の奢りだ」だとか偉そうにしてみた。

 後輩は俺に尊敬に眼差しを向けていた。

 すごく幸せだ。ふわふわとした幸福感に包まれていた。

 ……唐突に、俺の前に鏡が現れた。

 俺は鏡の中を覗き込んでみた。

 鏡の中の自分は、ちっとも笑っていなかった。



 ハッとして目を開いた。少し心臓がバクバクしている。

 時計を見ると、眠り始めてから、まだ一時間しか経っていなかった。時間がそこまで過ぎていないことにがっかりした。

 再び、鏡の前に立ってみた。

 鏡の中の自分は、笑っていた。とても幸せそうだ。

 俺は、なぜか自分の笑顔に吐き気を覚えて、口をおさえた。立っていることができなくなり、その場に座り込んだ。

 数分経ってから、もう一度鏡の中の自分を見た。いつも通りの笑顔だ。何も胡散臭くない。幸せそうだ。

 俺は立ち上がって、もう一度布団のなかに潜り込もうとする。

 布団に手をかけると、ピンポーンと、間抜けなチャイムの音が鳴った。のろのろと立ち上がり、来訪者を見る。兄だった。

 俺は慌てて笑顔を取り繕うと、扉を開けた。扉の外は眩しかったが、顔を歪ませないように気を付けた。

 兄は俺の笑顔を見ると、顔をしかめた。


「おい、昼飯は?」


 俺は黙って笑顔を貫き通した。兄はため息をつくと、勝手に家の中に入っていった。俺はそれを止める気力もなく、そのまま兄を通した。

 兄は勝手にやかんを取り出すと、お湯を沸かし始めた。持って来た袋の中からカップ麺を二つ取り出し、お湯を注いで、机に置いた。

 兄は静かだった。スマホを取り出し、タイマーをセットして、勝手に座った。


「座れよ」


 兄は少し居心地悪そうに、俺を席に促した。俺は兄に言われるがまま座った。膝の上にある自分の手をじっと見つめて、時が過ぎるのを待った。兄と目を合わせたくはなかった。

 三分後、タイマーが鳴って、兄は俺に箸とカップ麺を差し出した。俺はそっとそれを受け取ると、ちらりと兄の方を見た。兄は勢いよく麺をすすっていた。


 目の前のカップ麺を眺めていると、ふと昔の思い出が頭に浮かんだ。

 小学生のときのことだ。中学生の兄はやんちゃばかりで家におらず、両親は共働き、俺は大抵家に一人だった。正直寂しかった。でも、両親を心配させたくなくて、幸せそうに笑うようにしていた。両親はそんな俺の顔を見ていつもほっとしていた。しかし、兄は違った。俺の笑顔を見て、不快そうな顔をしていた。

 その日も、いつも通り留守番の日だった。ただ、その日はいつもと違って兄がいた。一人じゃないのが少し嬉しかった。俺がリビングで宿題をしていると、兄が無言でカップ麺を差し出した。座って、麺をすすり始めた。訳が分からなかったが、とりあえず兄の真似をして麺をすすった。久しぶりに兄と食卓を囲めたのがなんとなく嬉しくて、自然と笑みがこぼれた。俺の笑顔を見て、兄は満足そうに、にやっと笑った。


 昔と同じように、兄の真似をして、ずるずると勢いよく麺をすすってみた。


「会社で、俺、いつも失敗ばかりなんだよ」


 ぽつりと、言葉が漏れていた。一言漏れると、止まらなかった。


「いつも黙ってにこにこして、ほんと情けないよな」

「後輩も同僚も俺より優秀でさ」

「上司にはいつも叱られてばっかで」

「世の中俺より苦しい人なんていっぱいいるはずなのに」

「なんでかな、しんどいんだ」


 気づけば、箸を動かすのをやめて、俺は泣いていた。嗚咽交じりの俺の言葉を、兄は黙って聞いていた。泣きながらだったから、何を言っているか分からないところもあっただろう。しかし、兄は静かに聞いてくれていた。

 泣き終わると、羞恥心で胸がいっぱいだった。正直、兄の前で泣くつもりなど無かった。気まずいし、恥ずかしい。


「顔洗ってくる」


 俺がそう言うと、兄は「おう」とだけ返事した。兄も少し気まずかったのかもしれない。

 顔を洗ったあと、鏡を覗き込んでみた。

 鏡の中の俺は、笑顔ではなかった。幸せそうでもなかった。しかし、とてもすっきりとした顔をしていた。

供養


2025年2月8日 投稿

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― 新着の感想 ―
外見的な笑顔ではなく、心からの笑顔こそが幸せなんですよね。 気持ちがスッキリしていて、いい感じに読めました。
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