夢の根源
睡魔を倒し、静かな森を後にしたムギは、なおも感じる微かな違和感に立ち止まった。睡魔の消滅と共に森は元に戻ったはずなのに、空気のどこかに異様なざわめきが残っている。
「これは……終わりじゃない。」
ムギは小さくつぶやいた。形見の糸がわずかに震え、方向を示すかのように伸びていく。それはまるで「次へ進め」と告げるようだった。
「睡魔がどこから来るのか……その正体を知らなきゃ。」
糸に導かれるまま、ムギは再び歩き出した。
森を抜けた先に広がるのは、終わりの見えない灰色の荒野だった。空はどんよりと曇り、風が冷たく吹き抜けていく。荒野にはひび割れた大地が広がり、ところどころに黒い霧が漂っていた。
その霧に足を踏み入れると、ムギの胸に鋭い痛みが走る。
「っ……なんだ、これ……?」
霧の中から不意に幻影が浮かび上がる。それは笑顔の父の姿だった。しかし、次の瞬間、その笑顔は苦痛に歪み、形が崩れていく。
「お父さん……!」
ムギは手を伸ばすが、その姿は霧に溶けて消えてしまった。
「……これも睡魔の仕業?」
ムギは自分の鼓動を落ち着かせようと深呼吸した。形見の糸を握りしめ、心を強く保つ。
「感情を揺さぶって、弱らせようとしてるんだ……惑わされない。」
進むごとに霧は濃くなり、幻影が次々と現れる。父だけではなく、幼い頃の友人や大切にしていた思い出の光景がムギの前に広がった。それらが苦しみや悲しみを伴う形で現れ、ムギを試すかのように襲いかかる。
しかし、ムギは一歩も引かなかった。
「私は負けない……こんなところで止まるわけにはいかない!」
糸を操り、防御の魔法陣を作り出して霧を断ち切る。幻影は次々と消え、霧が晴れた先に、一つの巨大な門が現れた。
その門は不気味な黒い石でできており、表面には無数の模様が刻まれている。模様は不規則に見えるが、どこかで見たような形をしている気がした。
「これ……父と練習したあやとりの模様……?」
ムギは糸を引き、指先で模様をなぞるように動かす。すると、門全体が低い音を立てて開き始めた。
門の向こう側から吹き出す冷たい風に、ムギの体が一瞬震える。しかし、その風の中には確かに「何か」が潜んでいる気配があった。
「ここに……睡魔を生み出している何かがいる。」
ムギは決意を胸に抱き、門をくぐった。
門の先は暗闇に包まれていたが、足元には不気味な赤い光を放つ模様が浮かび上がっている。それは巨大な魔法陣のように見えた。中心に向かうほど模様は複雑になり、ムギの中に強い嫌悪感と不安を呼び起こす。
「……ここが、睡魔の根源……?」
遠くから声が聞こえてきた。低く、耳をつんざくような声だった。
「誰だ……? なぜここへ来た。」
暗闇の中からゆっくりと現れたのは、睡魔を遥かに超える圧倒的な存在感を持つ影。全身が黒い霧に包まれており、その中心には赤く輝く巨大な瞳が一つだけ浮かんでいる。
「私の名はアビス。この地で全ての夢を支配し、睡魔を生み出すものだ。」
その声にムギは息を飲んだ。目の前の存在が、全ての睡魔の根源であることを直感的に理解した。
「やっぱり……お前が睡魔を操って、人々の夢と時間を奪ってるんだな!」
アビスは小さく笑ったようだった。
「操っている? 違う。睡魔は私そのものだ。私の欠片が形を成し、夢を喰らう。それがこの世界の理だ。」
ムギは糸を握りしめた。
「そんな理、間違ってる! 私はお前を止める!」
アビスの瞳が不気味に光る。
「止める? 愚かな。夢は人間の弱さが生むもの。その弱さを糧にしている私を、お前がどうにかできると思うか?」
アビスが手をかざすと、周囲の闇がムギに襲いかかってきた。無数の睡魔が闇から現れ、ムギを取り囲む。
「私は負けない……!」
ムギは形見の糸を掲げ、魔法陣を編み上げる。光が放たれ、睡魔たちを一掃するが、その数は際限なく増えていく。
「お前の力では無意味だ。」
アビスの冷たい声が響く中、ムギの心に焦りが募っていく。しかし、彼女はその感情を必死に抑え込んだ。
「父さんが教えてくれた……糸には終わりがない。編み続ける限り、必ず新しい道が開けるって。」
ムギは再び深呼吸をし、全神経を集中させた。今までとは違う、より大きな魔法陣を紡ぎ出す。
闇と光の激突が、次の瞬間、幕を開けた。