夢の狩場
ムギが一歩一歩ゆっくりと進んだ先に現れたのは不気味にねじれた木々が生い茂る森だった。葉の一枚一枚が銀色に光り、風が吹くたびに鈴のような音を立てる。どこか神秘的な空間だが、森全体が息を潜めているような、異様な緊張感が漂っている。
ムギは慎重に歩を進めながら、糸を指に絡めた。気配を探るために集中するが、突然、耳元で囁き声が響いた。
「ようこそ、夢の狩場へ……」
声と同時に、森の奥から漆黒の影が現れた。それは人の形をしているが、手足は異様に長く、身体は闇そのもののように揺らめいている。真っ赤な瞳だけが光り、ムギをじっと見つめている。
「お前が……睡魔か。」
ムギは静かに糸を引き締めた。睡魔はゆっくりと近づきながら、口元を歪めて笑う。
「そうだ。弱き者の夢を喰らい、時間を奪う。それが我が役目だ。だが、お前のように自ら夢に入り込んでくる者は珍しい……その勇気、称賛に値する。」
「勇気なんかじゃない。ただ……お前たちを倒すために来ただけ。」
ムギの声には迷いがなかった。しかし、睡魔はその言葉を楽しむように笑い声を上げた。
「倒す? 面白い。ならば試してみるがいい、少女よ。」
睡魔が手を振ると、周囲の木々が黒い霧に包まれ、ムギの視界が奪われる。次の瞬間、霧の中から無数の黒い蔓が伸び、ムギに襲いかかってきた。
「くっ……!」
ムギは即座に糸を操り、蔓を切り裂く魔法陣を編み上げる。光が迸り、蔓を焼き尽くすが、次々と新たな蔓が生まれてくる。
「感情を揺らせば、私の餌食だ……!」
睡魔の声が四方八方から響く。ムギの心に、不安と焦りがじわじわと広がっていく。しかし、彼女は深呼吸をして心を鎮めた。
「……落ち着け、私は負けない!」
再び糸を絡め、今度は自分の周囲に防御の魔法陣を展開した。淡い光がムギを包み込み、蔓を寄せ付けない。
「その程度では、私には届かぬ!」
睡魔は一瞬でムギの背後に回り込み、鋭い爪を振り下ろした。咄嗟に身をかわしたムギだが、頬にかすかな傷ができる。
「……強い。でも、諦めない!」
ムギは糸を素早く操り、複雑な模様を編み上げて攻撃の魔法陣を放った。光の矢が睡魔に向かって放たれるが、睡魔はそれをかわし、再び闇に溶け込む。
「悪くない……だが、その程度で私を倒せると思うな。」
ムギは息を整えながら、糸をさらに強く握りしめた。
「次は……絶対に当てる!」
睡魔の気配が再び動き出す。ムギは目を閉じ、感覚を研ぎ澄ませた。闇の中に潜む気配を捉え、次の一手を準備する。
ムギは静かに目を閉じた。視界が奪われても、感じ取れるものはある――父が教えてくれたあやとりの感覚が、今の自分を支えている。糸をゆっくりと指先で操りながら、闇の中に漂う睡魔の気配を探った。
「目を閉じたか……無駄なあがきだ。」
睡魔の声が遠くから響くが、その位置は定まらない。声が四方八方から反響し、まるで空間そのものが囁いているかのようだった。
「感情を揺さぶり、恐怖を与えれば、やがてお前も私のものになる。」
睡魔の言葉が頭の中に直接響き、ムギの心をかき乱そうとする。しかし、ムギは冷静さを保ち、かすかに感じる気配を追った。
――そこだ。
目を閉じたまま糸を動かし、瞬時に複雑な模様を作り上げる。空間に浮かび上がる光の輪が、一瞬の閃光を放つ。
「……甘いな!」
睡魔はムギの攻撃をかわし、すぐ背後に迫る。鋭い爪が再び振り下ろされるが、ムギは寸前で身をひねり、回避する。
「まだまだ……!」
ムギは地面に手をつき、素早く距離を取る。息が乱れるが、集中を切らさないよう自分に言い聞かせた。睡魔はその様子を見て、再び笑う。
「面白い。お前は他の獲物とは違うな……少し遊んでやろう。」
睡魔が手をかざすと、周囲の風景が歪み始めた。木々がねじれ、地面が波のように揺れる。ムギの足元が崩れ、バランスを崩す。
「っ……!」
足を踏み外しそうになるが、ムギは咄嗟に糸を地面に絡め、体を支えた。そのまま宙に浮かぶ形で糸を操り、空中に浮かぶ魔法陣を編み上げる。
「これで終わらせない……!」
ムギが放った光の矢が、再び睡魔に向かって飛んでいく。しかし、睡魔は軽々とかわし、闇に溶け込む。
「悪くない。だが、お前自身の限界も近いはずだ。」
ムギの体力は確かに消耗していた。しかし、諦めるわけにはいかない。父のため、自分のため――この戦いに勝つことが全てだった。
「まだ……負けない!」
ムギは糸を再び操り、今度は自分の周囲に巨大な魔法陣を展開した。光の結界が広がり、睡魔の動きを封じ込める。
睡魔は初めて、僅かに驚いたような様子を見せた。
「ほう……その糸でここまでの力を引き出すとはな。」
ムギの目が鋭く光る。
「これが私の力……父が残してくれた、私だけの戦い方だ!」
光が一気に強まる。睡魔は動きを封じられたまま、ムギをじっと見据える。
しかし――ムギも気づいていた。この結界を保てるのは、あと数瞬。次の一手が勝負を決める。
「次で……終わらせる……!」
お互いの視線が交差し、緊張が極限にまで高まる中、ムギは最後の糸を操り始めた。