02 日夜願っている
「そんな!」
リチェリンは目を見開いた。
「だがそういうものだ。無実を訴えるより、さっさと遠くへ逃げてしまった方がいい。探して伝えるならそうい助言がいいね」
「でも……」
彼女は戸惑った。
「リチェリン」
ラスピーはいつもの笑みを消して厳しい表情をした。
「君には判らないかもしれないが、権力者というのはそういうものだ。事実よりも自分に都合のいいことを優先する」
「権力者ですって?」
彼女にはどうにも判らなかった。
「ラスピーさん、誰のことを言っているんですか?」
「ここはナイリアール。ナイリアンの首都だ。ここで権力者と言ったら、王陛下や王子殿下だな」
「まさか!」
今度はリチェリンがそう言った。
「どうしてオルフィが、そんな偉い方たちに悪く思われなくちゃならないの!?」
「別にオルフィ君が個人的に恨みを買った訳ではないだろう。だが彼でなくてはならない理由がある」
「それは、どんな?」
「さあ」
ラスピーは肩をすくめた。
「いまのはあちこちを旅してきた私の勘だ。だが彼は、闇雲に選ばれた生け贄ではないよ」
「生け贄だなんて……」
「いや、すまない。神女殿の前で使う言葉ではなかったな」
「いえ、そのことはいいの」
リチェリンは首を振った。
「でもそれじゃ、誤解を解こうとすることに意味はないの? オルフィを助けられないということ?」
くどくどと言葉尻に絡むことはしないで、彼女は考えを巡らせた。
「すぐに見つかれば、それもいいだろうけれど。どうしてか、向こうさんは急いでいるんだ。そんなことよりとにかくオルフィ君に逃げろと伝えてやらなければ」
「でも……」
「リチェリン、気持ちは判るが」
「違うの」
彼女はまた首を振る。
「もしかしたらオルフィは、もうナイリアールから逃げているのかもしれないわ。私、あの子が説明もせずに逃げるなんておかしいと思ったのだけれど、ラスピーさんが言ったようなことを考えたのかもしれない」
「ふむ。そうであればよいのだが」
「……どうして?」
「うん?」
「どうしてオルフィのことを心配してくれるの?」
「言った通りさ」
ラスピーは肩をすくめた。
「君はもちろん、カナト君もオルフィ君も可愛らしい」
「……ええと」
「可愛らしい子が困っているのを放っておくなんて人として恥ずかしいことだ」
どうにもきっぱりとラスピーが言うので、どうにもリチェリンは困惑した。
「私には妹がいるんだ」
それから彼は続けた。
「我が妹ながら、それは可愛らしくてな」
「そうなんですか」
何の話だろうと思いながらリチェリンは相槌を打つ。
「ああ。私は妹がもう可愛くて可愛くて可愛くて可愛くて……」
ラスピーは両の拳をぎゅうっと握り締めたまま続けた。
「……くて可愛くて可愛くてたまらないんだ」
「そ、それはずいぶん、可愛がっているんですね」
とでも言うしかない。
「それはもう。食べてしまいたいくらい」
にっこりとラスピーは答えた。
「いつかはほかの男のものになると思えば口惜しい。その前にいっそ私が。いや、これは性質の悪い冗談というものだが」
「はあ」
その強烈な冗談は幸いにして神女見習いには通じなかったが、ラスピーが妹を溺愛していることは伝わった。
「それから、私には兄もいる」
「え?」
「これはあまり可愛くない兄でな。あんなものより可愛い弟がいたらと常々願っているんだ」
「はあ」
「要するに、年下の可愛らしい弟妹のような少年少女が幸せであるよう、日夜願っているということだ」
「あの」
リチェリンは首をかしげた。
「さっぱり、判らないんですけど」
「何と」
ラスピーは「どうして雲は白いのか」とでも訊かれたかのように目をしばたたいた。
「悪い願いではないと思うが?」
「確かに、悪いどころか素晴らしい願いだと思います」
縁もゆかりもない相手の幸せを心から願えるのであれば、それは立派な信念だ。神女見習いは心からそう思った。
「であろう」
青年は威張るように胸を張った。
「でも、正直に言って、お話がよく判らないわ」
「どこがだ?」
「あの、どこがって言われると、巧く言えないんですけれど」
「少年少女に笑顔を。これのどこが判らない?」
「それは、私も思います」
「であろう」
うんうんとラスピーはうなずいた。
「さて、店の名前は〈夜明けの星〉亭だったかな?」
「あ、はい」
「どうやらあれのようだ」
ラスピーが指した。確かに看板がある。予想通り品のよさそうな店構えであり、リチェリンはほっとした。
「どれ、私が見てこよう」
「私も行きます」
先立つラスピーに慌ててリチェリンはついていった。
「いらっしゃいませ」
入り口をくぐると、すぐ近くにいた店の給仕がにっこりと彼らに声をかけた。
「お好きなお席にどうぞ」
「ああ、いや」
ラスピーは片手を上げた。
「友人がきているかもしれないのでな、少し店内を見せてもらう」
「はあそうですか。ではどうぞ」
「うむ」
青年はうなずくとリチェリンに手を差し出した。
「はい?」
「男と女がこうして並んで歩くときは、手を携え合うなり腕を組むなりするのが自然というものだろう?」
「……そうですか?」
だいたい先ほどから並んで歩いていたのでは、とリチェリンは首をかしげた。
「……駄目か」
仕方なさそうにラスピーはその手を引っ込めた。
「ふむ、さすがにいないようだな」
そう広い店ではない。ざっと見回しただけでそれは判った。
「判ってはいたんですけれど」
それでも唯一の手がかりだった。リチェリンは肩を落とした。
「なかなか落ち着いたよい店だが、生憎といまはわれわれもここでひと休みとはいかないようだな」
ふむ、とラスピーは両腕を組んだ。
「では次は、オルフィ君たちの宿へ行ってみるのはどうかな」
もっとも、と彼は続けた。
「少しでも考えたのなら宿は避けるだろう。待ち受けられていることは充分考えられるからね」
「じゃあどうして?」
「町憲兵隊がうろうろしていれば、彼が戻っていないことが判る」
「あっ」
リチェリンは手を叩いた。
「捕まっていない、ということね?」
「そして逃げているということ」
青年は片目をつむった。
「『いまは』という事態でも、とりあえずは安心できるだろう。ほかにも何か判ればなおよし」
「あ……でも私、あの子たちがどこに泊まっているか聞かなかったんです」
娘は肩を落としたが、青年は首を振って笑みを浮かべた。
「私が知っているから心配ない」
「え?」
オルフィの様子を考えると、彼がラスピーに宿を教えたとは思えない。リチェリンは不思議に思った。
「たまたま私も近くに宿を取っていたんだ。彼らを見かけてね。こうして何度も行き合うということはきっと大いなる縁があるに違いないと考えている」
にっこりとラスピーは言った。
「きっと私たちは関わり合う運命にあるのだ。さあ、行こう!」




