08 時間を取ろう
有難うございました、とリチェリンは深々と頭を下げた。
「ここまでしていただけるなんて」
イゼフはコズディム神官の手配とメジーディス神殿への連絡のみならず、次の神父を派遣する段取りまで済ませてきてくれた。それはリチェリンでは感情的に――感傷的に、と言うべきか――重かった仕事だ。
タルーが死んですぐ次、と考えることは哀しい気持ちを呼ぶ。
だが、南西部には次の神父が必要だ。それもまた事実。
「私にも経験がある」
イゼフはそんなふうに言った。
「親愛を抱く者との別れがつらいのは、我ら神官も同じ。時にはそれを押し隠さなくてはならないこともあるが、貴女はまだその立場にはない」
「イゼフ神官」
リチェリンは目を伏せた。
「有難う、ございます」
「礼は不要」
神官は手を振った。
「貴女自身の身の振り方を考えるとよいだろう。タルー殿は立派な方だったようだが」
メジーディス神殿で記録を見た、とイゼフはつけ加えた。
「次の神父に対しても手伝いを続けるようでは、なかなか見習いから脱することはできまい。それもひとつの生き方であるが、タルー殿が貴女に教育を施したのは何のためであるか、忘れぬよう」
「……はい」
神女見習いはうなずいた。
「タルー神父様は何度も、私に神殿へ行くよう、仰いました。ですが私は、彼を手伝っていたかった……いえ、それだけではありません」
リチェリンはうつむいた。
「不安だったのです。住み慣れた地域を離れ、大きな街へ行くことが」
「さもあろう。だが彼のような人物であれば、貴女にもっと大きな世界を見てもらいたかったのではないか」
もっとも、とイゼフは続けた。
「神殿に生きることというのは、必ずしも広い世界に接することにはならないが」
「え……」
少し驚いてリチェリンは顔を上げた。
「八大神殿というのも、ひとつの閉ざされた世界だ。信仰と教義に縛られた、という言い方もできる。しかしそれは神殿に限らない。人は、自ら強い意志を持って外に出ようとしなければ、同じ世界をぐるぐると回ってしまうもの」
穏やかな声で神官は言った。
「少なくとも、住み慣れた世界から外へ出ることは新しい一歩だ。しかしそこで留まらぬよう、と言っている。殊、神女の世界は神官のものより狭かろうが、意志を持てば新たな世界に出会うこともできる。……見習いの貴女にはまだ早い話だな」
イゼフは首を振った。
「いつの日か、必要なときに我が言葉を思い出すといい。未来への助言だ」
「――有難うございます」
リチェリンにはぴんとこなかった。しかし彼女は心から礼を述べた。不要、とイゼフはまた言った。
「タルー殿の弔いに向かう神官は、明日にでも発てる。メジーディス神父の方はいま少しかかろう。弔いに戻るのであれば神官と行くがいい。メジーディス神殿か、ムーン・ルー神殿を訪れるのであれば、私が紹介状を書こう」
「何から何まで、お気遣いを」
彼女は頭を下げた。不要と言われても、感謝を示さずにはいられなかった。
「やはり、神父様の弔いには戻りたいと思います。メジーディス神殿にもご挨拶を。ムーン・ルー神殿の方は、また日を改めて」
素早く考えて彼女は答えた。
「よかろう」
イゼフはうなずいた。
「居心地のよい場所に戻って再び出ることができなくなる……などということがないよう祈っている」
優しい声の厳しい忠告に、リチェリンは少し頬を熱くした。
「はい。たとえ、今後何を選ぶことになるとしても」
彼女は顔を上げた。
「見習いのままで中途半端に長い時を過ごすことは、いたしません」
決意を込めて語れば、そこで初めてイゼフは微かに笑みを見せた。
「神の御心のままに」
神官は言い、神女見習いは手を組んで祈った。
「では、順調な旅路を」
「はい――あ、あの」
イゼフが立ち上がったのに続いて、リチェリンも立ち上がった。
「あの、すみません、もう少しお時間をよろしいですか」
「何か相談ごとでも?」
「私ではないのですが」
そこで彼女は、南西部から幼なじみがきていることと、その連れがイゼフの話を聞きたがっていることを簡潔に伝えた。
「私でなければならない用事なのか?」
「は、はい」
神官は忙しいだろうか、とリチェリンは少し躊躇したが、カナトの話によればイゼフでなければならないことだ。思い切って続けた。
「何でも、クロセニーという方のことについて話を伺いたいのですとか」
「ヒューデア・クロセニーか」
「はい。確かそういうお名前でした」
「……ふむ」
考えるようにイゼフは両腕を組んだ。
「南西部の者が彼の名を? だが、何故私に……」
神官は呟くように言ったが、リチェリンが答えを持たないと気づいてか、首を振った。
「いいだろう。時間を取ろう。待っているのか?」
「はい。神殿のすぐ外にいるはずです」
「判った」
そう答えてイゼフが踵を返したので、リチェリンは彼がオルフィたちを迎えに行くのかと慌てて一緒に向かおうとした。だがそれは少々勘違いであり、イゼフは扉を開けて廊下に出るとほかの神官を探す風情だった。
「トリセノ殿、すまないが」
向こうからやってきた神官にイゼフが声をかけた。
「ああ、イゼフ殿、お探ししていました」
呼ばれた神官はほっとした顔で彼を見た。
「何かあったのか?」
「はい、その」
トリセノはちらりとリチェリンを見た。部外者の前では言いづらいことなのかと感じた彼女は、もう一度挨拶をしてその場を離れようかと思ったが、それより先にイゼフが声を出した。
「かまわない。言いなさい」
「は」
彼らは同じ神官位だが、年長者であるイゼフの方が権威があるようだった。トリセノは頭を下げる。
「町憲兵が……イゼフ殿にお話をと」
「何?」
イゼフは驚いたようだったが、続く話を耳にしてリチェリンも驚くことになった。
「神殿の前でイゼフ殿を待っていたふたりの若者が、町憲兵隊の追う者たちであるらしいのです」
ずいぶん大きな罪を犯したとか――とトリセノはつけ加え、リチェリンは頭のなかが真っ白になった。
(オルフィと、カナト君……?)
(まさか、そんなことがあるはずない!)
だがイゼフを待っていたふたりとは彼らのことに相違ない。
「――リチェリン殿」
イゼフは彼女を振り返った。
「貴女にももう少し、お話を伺うことになりそうだな」




