12 盤上の駒
ぱたん、と扉を閉めた部屋の奥に、人影があった。
「お帰り、リヤン」
「――このようなところまでやってくるとは」
リヤン・コルシェントは少し顔をしかめた。
「いささか、出すぎているのではないか、ニイロドス」
「ふふ、ひとりでは寂しいだろうと思ってね。『お帰り』という声があるのもたまにはいいものだろう?」
ニイロドスは長い灰色の髪をかき上げた。
「馬鹿らしい」
魔術師は相手にしなかった。
「何の用だ」
「用がなければ、君のところにきてはいけないかな?」
「用もないのにお前がくるはずもないだろう」
「それは誤りだ、リヤン」
くすくすとニイロドスは笑った。かすかに銀色に光る薄黄色をした衣服の布地が、まるで一緒に笑うように揺れた。
「君のことはいつでも気にかけている。君の脚本も演出も、非常に興味深く拝見しているよ。あとは役者たちが君の言う通りに演じてくれるかどうかだが」
「演じさせるとも」
コルシェントは太陽が西に沈むのは当然だ、とでも言うように言った。
「ジョリス・オードナーは死んだ。これは計画通りだ」
「だが誤算もあったね?」
間髪を入れず指摘が飛んだ。コルシェントは口の端を上げた。
「〈白光の騎士〉に死してなお災いあれ。あやつは死ぬ前に運と勘を使いきってみせた。もっとも、それを黒騎士との決闘まで取っておけば生き延びたやもしれんが」
「アバスターの箱」
ゆっくりとニイロドスは言った。
「騎士は確かに箱を持ってナイリアールを出た。だが、君の望む相手のところにもたらされることはないまま、遺品のなかにも存在しなかった」
ニイロドスは肩をすくめた。
「さてどうする、リヤン」
「無論、探すに決まっている」
「箱を?」
「中身だ。箱はただの封じにすぎない」
「それから」
ニイロドスはくすりと笑う。
「盗っ人を?」
「そうなるな」
コルシェントはやはり当然のように言った。
「では見物させてもらおう。君の手腕をね」
「私の?」
魔術師は片眉を上げた。
「お前にとっては、私とて駒ではないのか?」
「人の子は誰もが盤上の駒だ、リヤン」
ニイロドスはふっと笑った。
「君も。ジョリス・オードナーも。ヴィレドーン・セスタスも。みな同じ」
「お前の思うように動かすか」
「誰が駒を操るかは判らないさ」
だいたい、とニイロドスは続けた。
「ひとりで遊戯をしたって面白くない。好敵手がいなければ」
「好敵手ときたか」
ふん、とコルシェントも笑った。
「お前の好敵手はさしずめ、神か?」
「おや。君は神の駒になりたいのかい」
「まさか」
コルシェントは肩をすくめた。
「ふふ、安心するといい。神は遊戯盤で勝負などしない。そうしたことを楽しむのは私の仲間だよ」
「ならばやはり、お前は私をお前の駒だと思っているのではないか」
「そうでもないよ、リヤン。盤遊びと賽子遊びを組み合わせた遊戯を知っているかい?」
ニイロドスは賽子を振るような仕草をしてみせた。
「賽子の目によって駒を動かす遊び――ここに指し手の思惑は入り込みようがないんだ」
「勝者は〈名なき運命の女神〉か」
「神は勝負をしないと言っただろう。運命神だって同じこと」
「ではお前は何が言いたい?」
少し苛ついたように魔術師は問うた。ニイロドスは笑う。
「賽子の目は駒の意識したところではないけれどね。それでも思わぬ動きをして、指し手を困らせることがある。私はそんな駒を見るのが大好きだ」
「予測できないことが面白いと?」
「その通り」
ぱちん、とニイロドスは指を弾く。
「人間を見ているのは実に面白い」
「ふん」
コルシェントは胡乱そうに相手を見た。
「お前の望みは人間の破滅だろうに」
「ただ自滅されたって面白くないさ」
楽しげに、それは笑う。
「時には大輪の薔薇が散りゆくように。時には大木が落雷に崩れるように。嵐に大破する船のように。戦に燃え落ちる城のように」
笑い声はやまなかった。
「観客が楽しめる、劇的な要素がなくてはね」
「成程。それが見たくて戦を起こしてきたのか」
コルシェントは銀の杯に酒を注ぎながら言った。
「起こしてきた? とんでもない」
きゅっと目を細めてニイロドスは首を振った。
「戦というのは人間の自浄本能さ。繁殖力にばかり優れている生き物が、殖えすぎた自分たちの数を減らすため。戦など、放っておけば勝手にはじまるというもの」
「成程」
魔術師はまた言った。
「ヴィレドーンを煽ったこともない、という訳か」
「もちろん、ない」
ニイロドスは口の端を上げた。
「はっきりさせておこうか、リヤン。波瀾、混沌、破滅を望むのはいつだって君たちだということ」
金色の眼がコルシェントを捉えた。
「こちらは望みが叶うよう、手を貸してやるだけ。その結果が破滅だというのは非常に美しいけれど、せせこましく誘導などしない。そちらが勝手に破滅への序曲を奏で出すだけだ」
「奏でる楽器を用意するのは誰だ?」
「それは」
ニイロドスは朱い唇をくいっと上げた。
「望むなら、リヤン、いつでも君のために用立てよう」
それは笑顔を見せた。
「ふん」
コルシェントは鼻で笑った。
「人でなしとでも言いたいのなら、好きにしたらいい」
笑顔のままでニイロドスは言った。
「そのような判りきったことを口にしてどうする」
魔術師は唇を歪めた。
「人の似姿を取ろうとも、お前は人ではない」
「似姿を取る」
相手はそっと繰り返した。
「それは違うね。君たちが私らに似ているんだ。姿だけじゃない、時に心や――魂と言われるものまで」
だから、とそれは続けた。
「面白くてたまらなくて、私たちはちょっかいを出すんだよ」
灰色の髪をした人外は諭すように言って、楽しげに笑った。
(第3章へつづく)




