07 自覚がなくとも
こうしてカナトとふたりでナイリアールの街を走り逃げるのは早くも二度目ということになった。
幸いにして、追われはしなかった。だがその場から少しでも遠ざかるべく、彼らはしばらく走った。今回は人の多いところの方が安心だろうという目算がある。彼らは賑やかな商業地区の片隅で足をとめた。
「返す気は、あるっての」
顔をしかめてオルフィは、ヒューデアへの届かない返事を呟いた。
「腕ごとじゃなければな」
「ずいぶん、余裕、ですね」
息を荒くしながらカナトが言った。
「え?」
「僕、息切れ、しちゃって」
「ああ」
そういう意味か、とオルフィは苦笑した。
「俺もそんなに体力ある訳じゃないけどなあ。たまたまだよ」
「と、とにかくそれを隠しましょう、オルフィ」
「ん? あ、そうか」
青い籠手があらわになっている。
「こっちへ」
「ああ」
脇道に入って、今度は人目を忍ぶ。忙しいことだ、とオルフィは苦笑した。
「そうだ。大丈夫か、カナト」
「何ですって?」
「突き飛ばされたろ」
「ああ、ちょっと擦りましたけど、それくらいです」
カナトは左手を押さえて少し笑った。
「擦り傷作って、可笑しいことあるか?」
オルフィは首をかしげた。
「いえ、僕は包帯を巻くほどじゃないな、と思って」
「はは」
彼だって怪我のために包帯を巻いているのではない。オルフィは乾いた笑いを洩らした。
「笑ってないで。包帯を出して下さい」
「ああ。……どこにやったっけな」
ヒューデアの前でほどいてみせたあとどうしただろうか、とオルフィは首をひねった。
「覚えていないんですか? そこですよ」
カナトが服の隠しを指した。
「丸めて、そこに入れてたじゃないですか」
「ああ、そう言えばそうだった。よく覚えてるなあ」
「忘れますかねえ」
オルフィが感心すればカナトは顔をしかめた。
「無意識ってやつさ」
言い訳をしながらオルフィは、ぐしゃぐしゃにしてしまった包帯を伸ばそうとした。
「やりましょう。貸して下さい」
「毎度悪いな」
カナトはすっかり彼の「包帯係」だ。
いや、もちろん、それだけではない。
少年は器用に包帯でアレスディアを隠すと、そのまま流れるように指先を動かして術をかけ直した。
「……済みました」
「あんがとな」
礼を言ってからオルフィは少し迷った。尋ねてもいいものだろうかと。
「あの、さ」
躊躇いがちに彼は口を開いた。
「ヒューデアの野郎には……カナトの魔術が効かなかったのかな? あいつが術を破ったなんてこと、あるのか?」
「判りません」
カナトは首を振った。
「導師の説明にもありましたが、この術は籠手の存在や魔力を完全に隠せるというものではなくて、『気づかせにくくする』という程度のものなんです。理由はどうあれ、ヒューデア殿がそこにあるものを知っていたのであれば術の効く余地はなかった」
「あいつは箱のことも箱の中身もジョリス様がそれを運んでいたことも知ってた。それはそんなに不思議じゃない。ジョリス様から手紙ででもほかの手段ででも、聞いていたんだと考えれば」
でも、とオルフィは続けた。
「俺がそれを持ってる……身につけてるだなんて、どうやったら確信できる?」
「『どうやって盗んだ』などと言っていましたね。ジョリス様は箱をオルフィに預けたという話はなさらなかった訳です。彼としては、タルー神父に預けたつもりだったのかもしれませんが」
「ヒューデアは神父様のことも知らなかった」
その話も伝わっていないだろう、とオルフィは判定した。
「では、知っていたのは?」
「何?」
「ラバンネルの名に反応していましたね」
「知ってそうな風情だったな」
オルフィはうなずいた。
「もっとも、あまり反応しないようにしていた、とも見えました」
カナトは両腕を組んだ。
「それは、僕が『ジョリス様がラバンネル術師を探していたのでは』と言ったときも同じです」
「そうだったか?」
「ええ。そうだとも違うとも、何のことだとも。彼は何も言わなかった」
「それは、そうだったかも」
「意識的な無反応と感じました。ではそれは、何を意味するか」
「……肯定を隠した」
ぼそりとオルフィは、思うところを述べた。
「僕もそう思います」
カナトは同意した。
「彼は知っていて、黙っていた」
「すごいじゃないか、カナト。当たり籤を引き当てた」
素直にオルフィは感心したが、カナトは首を振った。
「僕はそう思い、オルフィも同じように思ったとしても、確証はないです」
「そりゃ証拠はないけど、ラバンネルを探すことはますます重要に思えてきた」
大導師だと言う。どんな人物なのか。
(頼むから生きててくれ)
オルフィは大いにそれを願った。
「それにしても、ヒューデアの奴とちっとも『ちゃんと話』なんかできなかったな」
「剣なんか抜いた彼が悪いですよ」
きっぱりとカナトは言った。
「あいつにしてみりゃ俺が悪党だからなあ」
「オルフィは盗んでも奪ってもいない。向こうの思い違いじゃないですか」
「もちろん、そうさ。でも」
「でも、じゃないです。オルフィ、使えてましたでしょう」
「あ?」
若者は褐色の目をぱちくりとさせた。
「籠手です」
「え、あ、いや、誤解だよ」
オルフィは手を振った。
「カナトにはそう見えたかもな。でも俺はさっき、籠手の力を使おうとか思った訳じゃない。俺が右手であいつに掴みかかるより左手の方が早く反応したってだけ」
「でも」
カナトは首を振る。
「あれはオルフィの身を守るためじゃなかった。僕を助けてくれるためです。魔力の自然発動とは思えない」
「あ?」
「オルフィの意志が介在したってことです」
「いや……別に俺は……」
「自覚がなくともそうなんです」
きっぱりはっきりとカナトは言い切った。
「魔力によって抑えられていた状態での、二度目の発動。そして二度目は目的に適っていた」
「あいつを絞め殺す気なんかなかったぞ」
「判ってますよ。オルフィだって判っているでしょう」
「まあ、判らなくはない」
渋々とオルフィは言った。
「阿呆な酔っ払いから逃げるのにぶん殴る必要はないと言えばないが、腕を切り落とされかけたり、友だちが危ない目に遭ったりしてれば、逃げ出す前に戦わなくちゃならないもんな」
「オルフィ」
カナトは目をしばたたいた。
「何か変なこと言ったか?」
おかしなことを口走ったつもりはないが魔術的にどうとかいうことでもあるのかもしれない。オルフィは教えを請う気持ちで尋ねた。
「あの」
「うん?」
「友だちって僕ですか」
「……ほかにいたか?」
「いえ、その」
少年は驚いているようだった。
「オルフィ」
「は、はい」
真剣な様子に、こちらもついかしこまる。
「有難う、ございます」
「い、いやいやいや」
友人だと言っただけでこんなに真剣に礼を言われるなど、思ってもみない。オルフィは大いに戸惑った。
「カナトは謝るところもいろいろ変だけど、これもおかしいぞ」
「そうですか?」
「だって、君にとっては?」
「え?」
「君にとって俺は友だちじゃないの?」
「それは」
カナトは目をぱちくりとさせ、考えるように両腕を組んでうつむいた。
(考えるのか)
オルフィは苦笑いを浮かべる。
「僕は、よく判りません」
「へ?」
彼は目をぱちくりとさせた。
「判らないんです」
少年は真顔で繰り返した。
「深く考えるこたぁないだろ、別に。俺なんか、よっぽどいけ好かない奴以外はみんな友だちだと思ってるけどな」
「年上の人もですか?」
「ああ。ま、向こう次第でもあるけど」
父親ほど離れた年齢であれば、子供のようなオルフィに「友だち」などと言われたくないかもしれない。オルフィの方では抵抗はないが。
「ううん」
何やら少年は考え込んだ。
「僕はまだまだ勉強不足のようです」
おいおい、とオルフィは呆れた気持ちになってくる。
「こういうのは理屈じゃないんだよ。協会の立派な本にも書いてない。実地勉強って意味なら、まあ、いまの発言も悪かないけど」
困った坊ちゃんだなあ、という気がしてきた。非常に「いい子」なのだが、ときどき調子外れだ。
「とにかくいま急いでやらなきゃならないのは、籠手を外すことですね」
カナトは話題を戻した。
「そうだな」
切り落とされない内に、とオルフィは内心で付け加えた。
「難しいことを承知でラバンネル探しをやるか、或いは」
「或いは?」
「一応、神殿に行ってみるか」
オルフィが言えばカナトは胡乱そうな顔をした。
「何だよ。最初に神殿が専門だって言ったのはカナトだろ」
「それは、まだ事情がろくに判っていなかったときのことじゃありませんか。呪いならば確かに神官、神殿の方が僕ら魔術師よりも詳しいです。でもラバンネル術師はアバスターの籠手に呪いをかけた訳じゃない」
「呪いみたいなもんだろ」
「いいえ。害する目的でない以上、違います」
魔術師は言い切った。
「だいたい、神官にアレスディアを見せるんですか? オルフィがそうしたいと言うのであればとめませんけれど、籠手のことを知っている人物は少ない方がいいと思いますよ」
「籠手のことだけじゃなくてさ」
彼は顔をしかめた。
「ヒューデア」
「彼が?」
「コズディム神殿がどうとか言ってたろ。俺たちが行ってたとして、ジョリス様の情報なんか教えてもらえると思うか?」
「無理でしょうね」
カナトはやはり胡乱そうだった。オルフィが何を言おうとしているのか判らない様子だ。
そこでオルフィはにやりとしてみせた。
「ヒューデアの情報なら、神殿で聞けるんじゃないかってこと」




