09 湖神とその神子
「判りました。でも、前言を撤回して知りたくなったら、いつでもどうぞ」
「ま、そんときはそうさせてもらう」
笑ってオルフィは答えた。
「さあ、もう行きましょう。リチェリンさんが待ってますよ」
カナトはにこっとした。
「久しぶりですよね?」
「あ、ま、まあな」
こほん、とオルフィは咳払いをした。
結局――。
湖神とその神子は、エクール湖の畔の村へと移り住んだ。もっともカナトは常時、人の姿を取っている。
一応のところ「畔の村に縁のあった両親が亡くなり、ほかに当てがなくやってきた」という設定を用意していたようだが、あまり意味はなかったらしい。長やソシュランには知られているし、村人たちも自然と「神子と一緒に湖神が帰ってきた」と言ったからだ。
人の姿であろうと湖神は湖神だという簡単な受け入れに、逆にカナトが戸惑ったくらいだったとか。
礼は尽くされているが、カナトが望んだこともあって、大仰な態度は取られないでいるとのことだった。たとえば貴族の息子が使用人と親しくしたら、最初は使用人も困惑するが、それが当然になっていけば気負うことなく談笑するようになるだろう。完全に「普通の少年」として接されることはないが、それは致し方のないことでもある。
その辺りのこと、長い年月湖神として崇められていた記憶のあるカナトは理解していたものの、リチェリンには少々難しかった。
神女となっても人々から敬意は払われただろうが、「多数の神女の内のひとり」と「唯一の神子」ではやはり違う。それに、湖神に祈りを捧げて加護を願うという「業務」も、カナトが隣にいるのでは形無しという感じだ。
ただ、神殿ではなくこちらへやってくることに決めたのは、彼女が「ただひとり」だからでもある。
神子の責任。それを果たそうと決めたのだ。
もっともそのときは、カナトが戻るつもりであるかどうかは知らずにいた。彼も考えていたのか、彼女の決意を知って決めたのか、彼女はそれとなく尋ねてはみたが上手にはぐらかされた。そうしたとき、見た目は年下でも長の年月を生きている――その記憶を持っているのだなと感じさせられた。
ともあれ、こうして村に「帰って」きて、彼女がしばらくしていたことは湖神や畔の村に関する勉強であった。最強の教師――エク=ヴーそのものがいるのだからそれは実に順調に進み、彼女は必要以上の知識を身につけるようになり、そして気づきはじめた。
神子として帰ってきたこの村でできること。
「ごめん、忙しいときに」
まずオルフィは、謝った。
「祭事の支度があるんだって?」
「あらかた済んだわ、大丈夫」
にっこりとリチェリンは笑った。
「みんな、ものすごく張り切って、手伝ってくれるんだもの!」
「まだ三日あるのに、凄い勢いですね」
カナトも少し笑った。
「やっぱりみなさん、安心しているんでしょうね。神子が村にいるってことに」
「あら、カナト君がそれを言うの?」
「湖神がいる」方が大きいのではないかとの指摘はもっともでもあった。少年は頭をかく。
「でも、こんな時期に祭りなんかあったっけ」
オルフィは記憶を呼び起こそうとした。
「ああ、久しぶりのお祭りだから」
「久しぶり?」
「そうよ。およそ百年ぶり」
「へっ?」
「別に、百年に一度って訳じゃないわ。ただ、神子のいない時期と重なって、しばらく行わない内に廃れてしまったみたいなの」
「復活させようかってことになったんですよ。とりあえず今年は様子見で。何年か続けて、もし負担が大きいようなら考え直すことにして」
「へえ」
どうやらふたりとも頑張っているみたいだ、と知るとオルフィはほっとした。
責任、という言葉を口にするのは簡単だが、本当に負うことは厳しいときもある。ふたりのどちらも悲壮な決意で戻った訳ではないものの、それこそ負担を覚えていないかと少し心配だったのだ。
「あのね、オルフィ。私、少し判ったの」
「うん?」
「もし神女を目指して、無事にそうなっていたとしたら、私は神殿の付近で慎ましく暮らしたでしょう。もちろん、人々を助ける神女の仕事は立派なものだし、いまでも私は八大神殿の教えを否定するつもりはないのだけれど」
考えるようにしながら彼女は続けた。
「カルセン村でタルー神父様の手伝いをしていて……私は、彼のように村を支えたかったんだわ。ああした任は男性だけのものだから、私が神殿に入っていたら決してその望みは叶わなかった。カルセン村に残るのであれば、やはり新しい神父様の『手伝い』に終始したでしょう」
「――ああ」
成程、とオルフィは理解した。
「そうか。それなら」
よかった、と思った。心から。
リチェリンは神子として村に戻ったが、「湖神」がこうしてはっきり顕現しているために、その仕事はぐっと「神父」のものに近くなったのだ。神殿のような明確な教義はなく、儀式の類もこまごまと違う点はあるが、そこにこだわるリチェリンでもない。村の伝統を学び、把握して、それを支えるべく生きようと。
「さ、入って。ちょうどお茶を入れたところなの。カルリード葉のお茶よ」
「そいつは懐かしいな。南西部じゃ飲まないもんな」
「それじゃ、僕はここで」
くるりと少年は踵を返そうとしたが、オルフィはその首根っこを掴んだ。
「待て」
「何です」
「いいだろ、一緒にいろよ」
「何でですか。僕だってそんなに野暮じゃないですよ」
「あのな。そういうことじゃなくてだな」
「カナト君も、きてちょうだい」
くすくすとリチェリンは笑った。
「どうやらオルフィ、あなたにも聞いてもらいたい話があるみたい」
「う」
見透かされてオルフィはのどが詰まったような声を出した。
「そうなんですか?」
「ま、まあな。大した話でもないけど」
「じゃあ、少しだけ」
お邪魔しますと少年は頭を下げた。




