07 お話がしたいのです
その訪問客が彼女の前に現れたとき、ピニアが覚えたのはただ驚愕だった。
恐怖はない。
不思議と、と言うのかもしれないが。
「失礼、する」
その人物は覚えのある声で言った。
「どうしてか、まずここに、足が向いた」
「あの」
ピニアは口ごもった。
「噂で、耳にしたのですが……いえ、ジョリス様からも伺ったので、間違いではないと、思うのですが」
ジョリスと面会しても、怖ろしいまでの狭窄感はもう生じなかった。イゼフと何度か話をする内に、忌まわしい記憶は薄れていった。
神官が何か術を施したのかもしれない。だが彼女自身、乗り越えようと努力していた。皮肉にも死んだ魔術師との対決が、彼女にその力を与えていたかもしれない。イゼフが手を貸したとしてもそれは、少し支えた程度であっただろう。
「間違いではない」
彼は言った。
「正直なところを言うのであれば、俺にも、判らない。どうして……」
「あの」
何と言ったらいいのか、ピニアもさっぱりだった。
「ラスピーシュ、殿下……いえ、陛下……」
死んだはずだ。ラシアッドの若き王は。城の廊下で突然倒れ、そのまま息を引き取ったのだと言う。
もとより、それが何かの謀略で実は生きていたのだとしても、何故ここに顔を出す必要があるのか。出せるはずもないのではないのか。
「……いや」
小さく、声が発された。
「ラスピーでは、ない。と言うのもおかしな話だが……」
ますます、彼女は目を見開いた。
見える、ものがあった。
魔力を持つ者なれば、判る。人が、個人がまとう目に見えない波動。気や、魂などとも言ったりする。
「まさか……」
信じがたい。しかし彼女は知っている。この波動を。
「あなたは」
見紛うことなく堕ちたはずの星が、再び天にきらめいていた。
「ヒューデア、殿……?」
その問いかけに、ラスピーシュの顔をした男はこくりとうなずいた。
「奇妙だ。とても。俺は、見ていた。死んだ自分を。イゼフ殿の声を聞いた気がした。だがそのあと、残された魂と言うのか、そうしたものも消え去る感じがして」
彼はきゅっと胸の辺りを掴んだ。
「だが、残った。アミツが俺を留めてくれたのだと思う」
少し顔を上げた、その先には彼だけに光の球が見えたものか。
「それから、そんな身になってもと言うのか、俺はジョリスを探した。彼に頼ろうとした。彼は神官でもないものを」
彼はわずかに口の端を上げた。
「しばらく、アミツと共に、彼と在った。この館で、あの下衆な魔術師が再び貴女を脅したときも……」
「いた、のですか。あのときに。では」
コルシェントを散らしたあの光は、やはりアミツ。
そして――ヒューデア。
「奇怪な話だ。信じるのか。いや、もとより……」
「見えます、私には。そこにあなたの星がある。ほかでもない、ヒューデア・クロセニーの」
声が震えた。ピニアは口に両手を当てた。
「戻って……こられただなんて……」
「奇妙だ」
彼は繰り返した。
「ジョリスのもとへ行ったのは俺の意思だったかもしれない。だがラスピーを見守るようにしていたのは……アミツ」
エク=ヴーがロズウィンドをエクールの民として見ていたように、アミツもまたラスピーシュを守るべき対象としたのか。もっともヒューデアを守れなかったようにラスピーシュを悪魔から救うこともできず、アミツは、アミツと彼はただその死を見ていた。
「彼の死後、俺は何も見えなくなった。今度こそ俺も死ぬ……消え去るのだと思った。終焉まで見届けられるよう神の加護が働いていたものが、ついに終わると」
「でも、終わらなかった」
「ああ」
彼はうなずいた。
「気づけば、ナイリアールだった。俺が『死んだ』場所だった。まるで毒からかろうじて回復したあのときの再現のように、足元が覚束なかった。酔漢だと思ったか、人々は避けた」
淡々と彼は話した。
「足元が怪しい、つまり足が、身体があると気づいたのはそのあとだ。驚き、手を見て、また驚いた。それは俺の手ではなかった」
水路を見つけ、のぞき込んだ。そこにあるのがラスピーシュの顔としか見えず、彼はしばらく呆然とした。
「アミツの、力……?」
「判らない」
ヒューデアは首を振った。
「アミツにそのようなことができると聞いたことはない。ただ……」
「『アミツを見る者』が悪魔に殺されるようなことも、なかった」
「ああ」
その通りだと彼は答えた。
「エク=ヴーの力であるのかもしれない。俺は頑なに否定していたが、アミツがエク=ヴーから出たものであることはもうはっきりと判っている」
「では」
ピニアは少し目を見開いた。
「私とヒューデア殿は、同じ一族ということになるのですね」
「どうやら、そのようだ」
彼は認めた。
「俺が貴女に惹かれたのは、その血のせいもあったのかもしれない」
「……え?」
「この感情も、判らない。これは『死んだ』せいではない。ラスピーには恋であるかのように言われたが」
判らないとヒューデアは繰り返し、ピニアは言葉に困った。
「ともあれ、こうして最初に向かったのがジョリスのところでもなく、貴女のところであった。それが俺の答えなのかもしれない」
「ヒューデア、殿」
「いや、何も言わないでくれ。これは憑依のようなもの。俺は程なく、消えるだろう。今度こそ。その前に、ただひと目、会いたかった。迷惑であった、かもしれないが」
「そのようなことは、決して」
ピニアは首を振った。
「決して、ありません」
「礼を」
彼は丁重に、頭を下げた。
「自らの心のために、貴女の重荷を増やしたかもしれない。〈予知者だけが先に悔やめる〉と言うが、こうして扉を叩く前にそれを考えるべきだった」
「そのようにお思いなら」
ピニアは立ち上がり、ヒューデアに近く寄った。
「どうか、消えるなどとは、言わないで下さい」
「だが、消える」
「何故?」
占い師は首をかしげた。
「あなたの星は、輝いています。はっきりと。それは消え去る前の最後の力などではない。〈星読み〉の力を持つ者として誓えます」
「何と……では……?」
「お疑いなら、イゼフ祭司長にお伺いするのもよいかと思いますわ。彼はこれを憑依とは違うと、祓うべきであるような邪なものではないと、必ず言って下さいます」
「だが……」
彼は戸惑った顔をした。
「これが本当にラスピーの身体であるとしたら、ラシアッドでは騒ぎになっているのではないか」
ラスピーシュは死んだ。それは間違いなかった。だが、悪魔が欲したのは彼の魂とでも言うべきもの。悪魔にとって「この身体が死ぬこと」は重要ではなかった。通常ならば魂が離れれば程なく肉体も鼓動を止めるが、その前にヒューデアが「入った」ということになるのか。「この身体」は死体ではなく、ちゃんと鼓動をしていた。
しかし、だとしても――ラシアッドには新王の遺体がなければ、おかしなことになる。
「ふふ」
思わずと言った体でピニアは笑った。
「それを気にするのですか」
「いや、だが」
「どうぞ、いまはお座りになって」
彼女は椅子を示した。
「改めて、あなたとお話がしたいのです。私たち、哀しい話や、先の見えぬ暗い話ばかりをしていましたから」
「そう、か。そうだったかも、しれないな」
躊躇いがちにヒューデアは椅子を引いた。その動作はぎこちなかった。
「どこか、痛みますか」
案じるように彼女は問うた。彼は首を振った。
「そうではない。少しばかり」
彼自身も、その顔にも滅多に浮かんだことのない、照れ臭そうな笑みを浮かべて、ヒューデアは続けた。
「緊張しているようだ」




