01 持っていけ
時の流れ方は、生き方によって違うと言う。
忙しく数々の用をこなす者、満ち足りた日々を送る者にはそれはあっという間であり、やることを見つけられずに空虚な暮らしをする者には苛つくほどに長い。
もともと時間が足りないと感じる方であった彼らだったが、このところはまるで悪い魔法にでもかかっているかと疑いたくなるほど毎日が飛ぶように過ぎていた。
――ラシアッド城。
あの日から、およそひと月の時間が流れた。
兄どころか国中を騙し討ちにしたような新王ラスピーシュの即位に、悶着が起きないはずもなかった。
絶対数は少ないものの特権階級もいれば、正義が本当にラスピーシュにあったのか訝しんではっきり疑問の声を上げる者も皆無ではなかった。
だが反対者の多くがまず怖れた、新王の独裁、暴力による恐怖政治などは敷かれなかった。それどころかラスピーシュは時間の許す限り開かれた話し合いの場を持った。
最終的にはいつでも彼が強権を発動できる立場にあったのだから、完全に公正だとは言えなかった。だがそれでも「誠実な態度」と見える対応に、反射的な反対のほとんどは抑えられた。
彼は国内に革命を起こしたかったのでもないから、極端な不正以外は特権を変わらず認めたし、体制も特に変更しなかった。
本当に「ただ国王が変わっただけ」。それがロズウィンドでなくラスピーシュだったというのは、大した影響をもたらさないはずだった。
と言うのも、ロズウィンドが追従者を寄せ付けていなかったからだ。兄王子の失脚によって自らの利益がなくなると慌てる者はいなかった。むしろ、厳しいロズウィンドよりラスピーシュの方が取り入りやすいのではと考える者がいたくらいだった。
その辺りも彼は上手にさばいたと言えるだろう。
舐められるほど甘くはしなかったが、地位が確立するまでは厳しくもせず、波風を立てなかった。
しかしながら――。
もっとも反発されて然るべき、ウーリナとレヴラールの婚約、及び全権をナイリアンに譲渡するにも等しい、とんでもない誓約。たとえ以前からラスピーシュを支持していた人物であっても、猛然と反対して当然と言える、その内容。
それはまるで、何でもないことのように聞き流された。
当初は公表されず、内々での話であったが、誰も反対しないはずがない。新王の興を買うために賛成しようと思っても、かなり慎重になりそうなものだ。
だが、反対はなかった。不満の声ひとつ。
「有り得ないな」
くすりとラスピーシュは笑った。
「どうしてまた、こんな真似を?」
ほかに誰もいない部屋で、彼は尋ねた。
『楽しませてもらったからな。おまけみたいなもんだ』
「成程ね。感謝すればいいのかな」
『必要ないことは判っているだろうに』
「まあね。私が準備をみな済ませて後顧の憂いをなくせば、それで」
彼は肩をすくめた。
「おしまい、だ」
でも、と彼は首をかしげた。
「正直、驚きだ。私が未練を残そうとどうしようと、約束はもう果たされているのに」
『おまけだ』
それはまた言った。
『勝者には余裕があるもんさ』
「は」
ラスピーシュは笑って、再びペンを取った。
『――さて』
彼の署名が終わるのを待っていたように、声は言う。
『そろそろ、だな』
彼は口の端を上げた。
「本当のことを言うなら、名残は尽きない。だが仕方ない。約束だ」
『そうだな。お前の望みはみな、叶った』
彼のなかで声は続けた。
『ラシアッドの平和。妹の幸せ。兄の無事』
「そうだな、みな、叶った」
彼は繰り返した。
混乱は、城下には持ち込まれなかった。民たちももちろん第二王子の即位に驚き、その発表についていろいろと取り沙汰したが、治安はいつも通りに守られたため、人々は自然と「思いがけなかったが、ことは平和裡に運んだのだ」と納得していた。
もちろん誰も彼もという訳にはいかぬだろうし、第一王子が狂気に取り憑かれ、ナイリアンへ攻め込もうとしたなどという話を第二王子の陰謀であると取る者もいたが、ラスピーシュは敢えて取り締まらないことで、噂の収束を計った。
ウーリナの婚約も、ほぼ整った。その婚姻により、ナイリアン王子レヴラールがラシアッドの王位継承者となるとの発表もまた驚きを呼んだが、決して併合ではなく、ラシアッドの法は変わらないとする宣言で、目立った反対は抑えられた。
そう、彼の国は平和と言えた。
そして妹も、恋心――未満、であったかもしれないが、順調に育つことは目に見えていた――を抱いた男に嫁ぐ。政略結婚は政略結婚だが、レヴラールはウーリナを大切にするだろう。ナイリアンに大した利益をもたらさず、彼に責任だけを増やす結びつきを受け入れたのは、そこに想いがあるからだ。
そう、ウーリナも幸せになる。
それから、ロズウィンド。
もしも彼がクロシアを巧く使うなどして反対派を集めようとしたら、不可能ではなかっただろう。ラスピーシュは公正であろうとしたが、それでも兄を出し抜いて王座に就いたことに不義を感じる者も皆無ではない。ロズウィンドが上手に正義の行使を説得したなら、自らの利害のためではなく、賛同した者もいたはずだ。
しかし、王兄はそうしなかった。
狂王子とされたことに抗議もせず、「悪魔」の話を持ち出さなかったのは正解だとただ肩をすくめた。
彼は憑きものが落ちたように――ある意味ではその通りと言えたが――静かだった。まるで神官のような生活をしていた。
その祈りは何に捧げられているのか。やはりその対象は、彼の前で神ではないと言い、もう守りを与えることはできないと告げた湖神であるのか。
おそらくは、そうであったろう。彼にはそれしかなかったからだ。
ともあれ――兄も、無事だった。少なくともその命は。
ラスピーシュはクロシア一族に命じられる立場にあったが、彼はその古くからの約束を解くことを提案した。現状、一族は実質的にノイ・クロシアひとりだ。望むのであれば彼をロズウィンド付きとすると、考えようによっては危うい提案を。
しかしクロシアはそれを断った。変わらず、ラシアッド国王とその一族に仕えると。それはつまり、やがてレヴラールがその王座に昇ったとしても同じように忠誠を誓うという意味でもあった。
未来がどうなるかは判らない。人である彼らには、先のことは、何も。
だが現状は、そう、ラスピーシュの望んだ通りに。
「約束は果たす。もとより」
くすりとラスピーシュは笑った。
「とうに死んだ身だ」
エズフェムの語らったように、ラスピーシュは旅路で山賊の襲撃に遭った。
そのときに彼は、彼の身分など何も知らぬ賊の刃に倒れ、ほかの哀れな犠牲者たちと一緒に谷底に突き落とされた。
命は尽きていた。そのときに。
それをエズフェムが狙った。彼の魂が導かれるのをとどめ、取り引きを持ちかけた。悪魔が身体を使うことにより、コルシェントのような偽の蘇りではなく、本当の復活が成された。
もっともそれは、彼が「死んだばかり」だったから可能なことでもあった。肉体の劣化が進めば、やはりそれはコルシェントのようになっただろう。
「これまでかりそめにも永らえた、そのことは恩に思っておこう」
『人の好い』
声は笑った。
『あの襲撃さえ、俺の企みであったかもしれないとは?』
「考えなかった訳じゃない」
口の端を上げてラスピーシュは言った。
「ただ、そうであったなら同乗者たちには気の毒をしたと思うね」
『はは、安心するといい。いまのは冗談だ。山賊なんてものを使わなくてもお前を事故死させるくらいできたからな』
「成程」
どうであれ、彼の運命は定まっていたということになろう。もはやラスピーシュは、それに抗わなかった。
「もうお喋りも終わりにしよう」
彼は笑んだ。
何の強がりでもない、満足した微笑みがそこにあった。
「さあ、私を持っていけ――エズフェム」




