09 夕暮れどき
「ねえ、カナト君」
リチェリンが声をかける。
「あの、これ。本当にいいのかしら。私が持っていて」
「リチェリンさんがいちばん、相応しいと思います」
少年は答えた。
「それに第一、変じゃありませんか?」
カナトは首をかしげた。
「湖神の守り符を僕が持っていたら」
「母の形見」としてオルフィが運んだ守護符の片割れ。それはタルーがミュロンに託した守り符と重なり、ひとつの形となっていた。
独特のしるしが象られたその守護符は、エク=ヴーにとって目印になり得ると言う。つまり、力の、加護の行き先。
だが当のカナトは、悪魔の穢れから身を守るためにその力を眠らせていた。それが洩れることのないよう、加護が必要のない人物――ラバンネルがそれを預かっていた。
ラバンネルがわざわざナイリアールでオルフィを通しつつ片方をカナトに返したのは、そろそろ彼の力が戻る頃合いと考えたのではないか。しかし三年前ではそれはまだ早かったか、はたまた半分では駄目だったのか、オルフィがアバスターの籠手を手にしたその日にもう片方もカナトの手に戻った。
すぐにそれを合わせなかったのは記憶がなかったせいではなく、やはりまだ早いとどこかで判断していたのではないかと――これはカナト本人の言だった。
「何かあれば、呼んで下さい。まあ、何もないと思いますけど」
どうにも気楽な調子で言ってから、カナトはクートントに歩み寄った。
「ここまで有難う。お疲れ様。あと少しだから頑張るんだよ」
驢馬は返事をするようにぶるると鳴いた。
「それから、オルフィ」
彼は御者台に向かって背伸びをした。
「うん?」
何だろうかとオルフィは顔を近づける。
「――いままで、すみません」
「へ? 何が……」
「この先はふたりきりですよ。折しも夕暮れどき、雰囲気は抜群ですし。短くも絶好の機会なんです。頑張って下さいね」
「……ばっ、おま、何を!」
「それじゃ」
ぱっと距離を取るとカナトは笑みを浮かべて手を振った。
「また近い内に!」
「ええ、またすぐ会いましょうね!」
リチェリンもにこにこと手を振った。
「どうしたの? オルフィ。少し、顔が赤いみたい」
「い、いやいや。何でも」
ない、とオルフィは首を振り、軽く少年を睨んだ。もっとも本気で怒ってはいない。腹を立てたふりはすぐに崩れて、笑みが浮かんだ。
「んじゃ、またな」
「はい。お父上によろしくお伝え下さい!」
「ん、ああ」
オルフィはうなずいた。
「そっちも。ミュロン爺さんに。暗躍お疲れって言っといてくれ」
「暗躍だなんて」
カナトは苦笑した。
「まじで、すぐに挨拶に行くからな」
「待ってます」
名残惜しい気持ちはあったが、またすぐに会える。そう思うと、本当にほっとした。
もう二度と会えないと、少年が「死んだ」ときの重苦しい気持ちが思い出されて、余計にそう感じるのだ。
「おし、行くぞ、クートント」
驢馬に合図して、彼は運命の四つ辻から離れた。
「もう少しね」
風に乱れた髪を直しながらリチェリンが、オルフィのすぐ背後で言う。
「懐かしいわ」
「そう、だな」
「何よ」
彼女は首をかしげた。
「何だか、上の空」
「へ? いや、そんなこと」
うーん、と彼はうなった。
「そうだな」
「どうかしたの? 何か、心配ごと?」
「いや、そういうんじゃなくて」
確かに絶好の機会だな、と思ったのである。
彼は隠しを探った。
「リチェリン」
「なぁに?」
「これ」
にゅっと彼は、前を見たままでそれを後ろに差し出した。
「何?」
「開けて。大したもんじゃないけど」
その、と彼は呟いた。
「贈り物。覚えてないかもしれないけど。ナイリアールでリチェリンに何か土産を買ってくるって、言っといたから、さ」
「え……?」
正確なところを言うなら「何かほしいものはあるか」と曖昧な尋ね、「神女になる身だから飾りものなど持つべきではないと思っている」と答えられたのであったが、その辺りはねじ曲げた。
「要らないとか、言わないでくれよ。これでも一生懸命選んだんだ。どんなのがリチェリンに似合うかなって」
ぼそぼそとオルフィは言った。
「首飾り……嫌だ」
「い、嫌?」
「だって。すごく、素敵」
続いた言葉に安堵した。
「よかった……まじで」
白い石が三つつなげられた首飾りはどちらかと言えば地味な感じで、ここぞという贈り物には少し印象が弱いような気もした。だがあまり派手でもリチェリンは身につけないだろうし、露店の娘の「これなら日常的にも使えるし、ちょっとした祭礼のときにつけてもおかしくない」なんて売り文句に、きっとこれならと思ったのだ。
「でも……」
「でも?」
次にはまた、不安になる。
「私、受け取れ、ない」
「な、何で!」
ついに彼は振り返った。
「駄目、か? 俺じゃ。その、やっぱり……過去のこと、とか」
「ち、違うわよ。オルフィはオルフィだわ。私、本当にそう思ってる!」
「じゃ……その……ほかに、誰か」
「違うわよっ」
悲鳴のような、否定の言葉が飛んでくる。
「嬉しいわ。すごく。でも」
「でも、何だよ」
「……からって」
「え?」
「誰かに似てるからって、言ってたわ」
「え?」
オルフィは馬鹿みたいに繰り返した。
「私のこと、誰かに似てるって。オルフィこそ、本当は、その誰かのことが」
「えっ!?」
彼は混乱しかけた。
「あっ、ああ!」
そして、思い出す。
「ち、違うって。言ったか、言わなかったか、忘れたけど、それはその、昔の、エクールの神子で! それも、似てるからじゃなくて、その、好みなんだから同じ傾向でおかしくないって言うか、好きになったら結果的に似てたって言うか!」
「……神子だから?」
「それも、違うっ。断じて!」
もうクートントを御することも忘れて、彼は悲鳴のように言った。驢馬は気にしたか気にしないか、少なくとも慣れた道を勝手に進んでくれていた。
「本当、なんだ。俺、リチェリンが好きだ。神子とか関係ない。覚えてないと思うけど」
彼は自身の髪に触れた。
「リチェリンが、言ったんだ。髪がきれいだから伸ばしたらって。それで俺、こんな長さにしてたりとか。……何だか、今更こんなこと言うのも、恥ずかしいけどさ」
「そ、そうだったの?」
「そうだったの!」
真っ赤になってオルフィは叫んだ。もっともリチェリンだって、同じくらい赤くなっていた。
「あ、これ……」
「うん?」
「この、石」
リチェリンは首飾りについた、小さな丸い石を撫でた。
「ふふ、おそろいね」
「え?」
「ほら。これよ」
彼女は手を伸ばすと、オルフィの髪を縛っている飾り紐に触れた。
「同じ石だわ」
一気に近くなった距離にどぎまぎするより、彼は目を見開いた。
「え、まじで?」
「気づいてなかったの?」
「あ、ああ。偶然」
「あまり詳しくはないけれど、同じだと思うわ。乳白色の光沢がよく似てる」
「そ、か」
何だか不思議な気持ちになった。
「判ってて、それを探したんだって言った方がよかったかな」
思わずそんなことを呟けば、くすっとリチェリンは笑った。
「そんなの、オルフィらしくないかも」
「ま、そだな」
彼は認め、改めてリチェリンを見た。夕映えに照らされて、彼女は何だか、いままで見たことのない表情を浮かべていた。
(リチェリン)
(すごく……きれいだ)
自然と、手が伸びた。彼女の右頬に、彼の左手が触れる。
「あ……」
リチェリンは少しだけぴくりとして、それから目を閉じた。オルフィは後ろ向きになったまま身を乗り出すと、そのまま顔を寄せて唇を合わせた。
カタカタと静かに車軸の音だけが響く街道には、ふたつの重なり合う影が映っていた。




