05 いつかきっと
「確か、魔術師は言うんですよね。どんな僅少であっても可能性はある。カーセスタでも言います。まあ、勉学に関してなんですけれど、どこかに必ず手がかりはあるって」
次にはライノンが明るい声で言った。
「望んで探せば、きっと見つかります」
その発言に根拠はなかったろう。それでもライノンは笑みを浮かべてそう言った。
「でも……」
肝心の娘は少し釈然としない顔をしていた。
「オレ、本当に、いいんだけどな」
やはり彼女自身には、それがそんなに大切なことだとは思えなかった。
「――ならば」
〈白光の騎士〉が声を出した。
「これから、失ったものを取り戻すよう、時間を送ればよい」
「え?」
意味が判らず、マレサは目をしばたたく。
「人の倍、努力をする。そうした気持ちで日々を過ごす。たとえば十年後、二十年ほどの時間を過ごしたと思えるように」
「よく、判んないけど」
マレサは呟いた。
「何となく、オレにはその方がよさそう」
ライノンとオルフィは顔を見合わせた。
(どこにあるかも判らないものを探して時間を送るよりは)
(もしかしたらそれも、いいのかもしれない)
彼らが案じても、マレサが決めることだ。もしやがて彼女が手段を探したいと思えば何かしらの手伝いをしようと、彼にはそんなふうに思うしかできないが、それでもいいのかもしれなかった。
「あの、さ」
それから彼女は少し迷いながら口を開いた。
「さっき、言ったろ。もとの暮らしとか……」
もとの暮らし。それは彼女にしてみると、橋上市場での暮らしということになる。
(盗みはそんなにしょっちゅうやってた訳でもなさそうだけど)
(何にせよマレサは「子供」として過ごしてた)
どんな意味でももとの暮らしは難しい。
「新しい仕事なら紹介できる」
それを知っているオルフィはぱっと口を挟んだ。
「あっ、で、ですよね、ジョリス様」
言ってしまってから騎士に助けを求める。
「ほら、城内で……偉い人に接するようなことがなくて、もっと気楽っちゃ何ですけど、そんな仕事」
「用意できるはずだ」
ジョリスはうなずいた。
「城内が嫌であれば、ほかにも考えよう」
「嫌とか……別に、ないけど……」
マレサはちらりとウーリナを見た。
「もし……いや」
「あ、ウーリナ姫様が本当にナイリアンにお輿入れなさるなら、そこでお仕えできるんじゃないですか?」
ぱちんと手を叩いたライノンは、その音が空虚に響きわたるのを聞いた。
「えっと、あれ」
「馬鹿」
思わずオルフィはぼそりと呟く。
その辺りのことは難しく、いくら非公式の場とは言え、ここにいるのはそれについて意見するのがはばかられる者ばかりだ。
「まあ、いいですわね!」
だがウーリナがその微妙な空気を打ち消した。
「そのときはぜひ、マレサさん。またお話ししたいですわ」
(驚いた)
少しオルフィは思った。
(この姫さん、率先して道化になりやがった)
大まかな話は彼女にも伝わっている。いまのラシアッドは以前よりもナイリアンに弱くなった。ラスピーシュはああ言ったが、レヴラールがウーリナを娶る可能性――必要性は公正に見て低い。
ウーリナも気づいているはずだ。だが、マレサの気を明るくするために、呑気で鈍い姫を演じたのだ。
「う……うん」
こくりとマレサはうなずいた。
「オレ、もうちょっと……勉強するよ」
涙の跡を拭って彼女は言った。
「セ、セズナンにでも教わって。あ、セズナンは? ナイリアールに戻れるのか、あいつ」
「彼が望むなら」
ジョリスは答えた。
セズナンの場合、ナイリアン城内には彼を知る者が多い。人々に真実を告げるのも難しければ、「セズナンの兄のふり」などするのも彼自身に難しかろう。
だが彼が望むのであれば可能な限り助力をすると、ジョリスの言うのはそうしたことだった。
「マレサさんに、セズナンさんも。これからのおふたりの日々に、祝福を」
ウーリナは笑みを浮かべてマレサの頬を撫でた。
「あら……神官様がいらっしゃるのに、私がこのようなこと、出過ぎてしまいましたわ」
それから目をしばたたいて言ったが、イゼフは首を振った。
「神官の祈りなど形式だ。目に見える形式に則らねば安心できぬ者が頼る」
つまり、心から祈ることができるなら「正式な」言葉や仕草が伴う必要はないということのようだった。
(どうにも、神官らしくないような)
(それとも……すごく、らしいのかな)
聖印や聖句に力があること、イゼフはよく知っている。だがそれにこだわっても心が伴わないようでは意味がないと。
(――人の力は、たいていのことを可能にする)
(人の心は、奇跡をも超える、か)
ふと、これまで聞いてきた言葉が思い出された。
知らず、オルフィの顔には笑みが浮かんだ。
(どうにかなる、ような気がする)
(いまはどうしようもなくても、少しずつ)
(諦めなければ)
夢のような奇跡が起こると夢想するのではない。そうであってくれたらいいという思いも少しは存在したが、奇跡は期待するものでもない。
ただ、思った。何かは、できる。
一足飛びに解決するようなことはできなくても、どんな形であれ、解決に向かって足を踏み出すことはできる。
その結果、たとえ思うようには解決できなかったとしても、歩んだ道は残る。
それを振り返ったとき、巧くいかなかったことがどんなに悔しくても、やることはやってきたと思えるように。
立ち止まらなければ、道は進める。
道がなかったなら、切り開いてでも。
意志さえあれば。
(それが人の力であり、人の心)
ふと、そんなふうに思った。
(心ってのは、何の資格もない俺にだって……存在するものだ)
「――オルフィさん」
「ん?」
呼びかけられて彼は王女を向いた。
「何? あ、何、でしょうか」
不思議なもので、ジョリスの前だと思うときちんとしなくてはという気分になってしまう。気づいたか、王女は少し笑った。
「ひとつだけ、よろしいかしら」
「あ、ええ、もちろん」
こほんと彼は咳払いをした。
「ひとつと言わず、ふたつでも三つでも」
「ふふ、有難うございます」
ウーリナの表情はだいぶやわらかくなっていた。
「また、お会いしたいんですの」
「へ?」
彼は目をぱちくりとさせた。
「ほら。オルフィさんはみなさんとご一緒か……そうでなかったとしても、もうお帰りになるでしょう? でもまた、オルフィさんにお会いしたいんです。私がどこでどうしているとしても。これきりではなくて」
「あ、その」
彼は少しどきりとした。瞬間、ジョリスとイゼフと、マレサの視線まで痛い気がした。気のせいに決まっているのだが。
「どうか、リチェリンさんとご一緒に」
「あ、そ、そうですよね」
ほっとしたような――少しだけ、落胆したような。
(いやいや)
(俺は何を考えてるんだ)
ウーリナ王女に対してどんな下心のかけらだってないのに、一瞬誤解のような期待のような気持ちが浮かんでしまったのは、彼が健全な若者である証でもあっただろう。
「それから」
もっとも、ウーリナの言いたいことは、この先であったようだった。
「カナトさんも」
「あ……ああ」
そうか、とここで得心がいった。
「――はい。きっと」
笑みを見せて、彼はうなずいた。
「そのときが、きたら」
自然と出た言葉だった。曖昧で、約束とも言えない約束。
それは、このようなとんでもない事件がなければ、彼のような庶民が王女と会うことなど有り得ないという遠慮が言わせたものかもしれなかった。
だが同時に、どこかで思った。
いつかきっと「そのとき」がくると。
「有難う、オルフィさん」
その思いが通じたか、ウーリナは優しく微笑んだ。
こうして――。
湖神エク=ヴーと〈はじまりの湖〉とエクールの民、ラシアッドとナイリアン、ロズウィンドとラスピーシュ、ジョリスとハサレック、それからヴィレドーンとオルフィ、そうした諸々の関係と出来事は、終幕を告げようとしていた。
だが、まだ終わりではない。
道はまだ、彼らの前に続いていた。




