10 信じたかった
大丈夫かい、という問いかけはとても静かで、優しかった。
「調子が悪いそうだな。何でもないと言い張っているらしいが、医師に診察してもらうのが一番だ」
心配そうな様子で、兄は顔面を蒼白にした妹に手を伸ばした。
「お兄、様……」
びくりとしてウーリナは身を引く。マレサは戸惑いながら、そんな兄妹を見ていた。
彼女にしてみれば、ロズウィンドは「ハサレック様の主」であるが、同時に「姫さんを脅した悪い奴」でもある。
単純に従うことも、逆らうことも躊躇われる。問われるままに話したのは、命令だからという気持ちと、言ってやったら悔しがるだろうな、ざまあみろ、という気持ちの両方からだ。
もっともロズウィンドは、少し黙っただけで、怒る様子すら見せなかった。何をしているのか訊かれてウーリナがラスピーシュを探しているのだと話し――これはつい、反射的に答えてしまった――その結果、苦虫を噛み潰したような顔で、ロズウィンドがウーリナに声をかける後ろにじっと立っていた。
「ラスピーシュの計画について、お前は何か知っているのかな? いや、お前が何か悪い企みに加担したなんてことは思っていない。ただ、ラスピーシュからどんな話を聞かされていたのか」
「私は、何も……」
ウーリナの歯切れは悪い。だがそれが何かを隠しているためではない、というのはマレサにも判った。
(怖がってる、のか)
(当然、かもなあ)
目の前で人が死んだのは、つい昨日だ。
(オレだって……ほんの、ほんっのちょっとだけど、びびったのに)
(何て言うんだっけ。ほら、シンソウのお姫様ってんだっけ)
(オレの前では元気にしてたけど、やっぱり、こいつが怖いんだ)
それは正解でもあり、不正解でもあった。
ウーリナが怖れたのは、ロズウィンドが人を殺したからという理由ばかりではない。
「そうか。それもそうだろうな。いくらお前が相手でも洩らすはずはない」
ロズウィンドは口の端を上げた。
「だが……そうだな。可愛いウーリナ」
彼は怯える王女のあごに手をかけた。
「お前にも、きてもらうとしよう。お前が同席すれば、ラスピーシュも愚かな真似はできぬはずだ」
「は、放して……お兄様」
「どうしてそんなにつれないことを言う? きちんと話をしただろう。お前も判ったはずだ。お前はラシアッドのみならずエクールの神子姫として私の妻となる。新生ラシアッドの王妃として、人々に救いを与えるんだ」
声はあくまでも、優しかった。
「私の子を産め。神子姫はリチェリンとお前しかいない」
「わた、私は……ただそのように呼ばれているだけ。本当の、神子では」
「何を言う。しるしはなくとも、力の片鱗はある。何の問題もない」
「な、も、問題、だろッ」
そこでマレサは声を上げた。
「だだ、黙って聞いてれば、よっ。なに、ふざけたこと、言ってんだよ! 兄妹じゃんか!?」
声を裏返らせて彼女は叫んだ。自分が兄バジャサの子を産むなど――どんなことをするか具体的な知識はなくとも――有り得ないし、あってはならないことだということくらいは判っていた。
「ノイ」
片眉を上げてロズウィンドは護衛を呼んだ。
「黙らせろ」
「は」
忠実な護衛は彼女を難なく捕まえた。
「うわっ、放せよっ」
「やめて! やめさせて、お兄様。マレサさんのことは傷つけない約束です!」
「もちろん、約束は覚えているとも。ただ静かにしてもらいたいだけだ」
「マレサさん、お願い。どうか……」
「お願い、じゃねえよ! おかしいだろ! 偉かったらおかしいこと押し通してもいいのかよ! それも力ずくで、脅してさ!」
「マレサさん……」
「畜生っ、何かちょっと変な奴だとは思ってたけどここまでおかしいとは思わなかった。ハサレック様も騙されてんだな! オレ、みんな話して」
「ハサレックか」
ふんとロズウィンドは笑った。
「生憎だったな。もうハサレックには誰も何も話せない。奴は死んだ」
「何だと!」
反射的に怒鳴り返してから、マレサは目を見開いた。
「な……え……?」
クロシアの拘束から逃れようとばたつかせていた手足がぴたりととまる。
「死んだ。ジョリス・オードナーに敗れた。黒騎士には相応しい終焉だったか」
「なに……言って……」
「恨みたければ〈白光の騎士〉を恨むといい。だが彼は彼で、仕事をしただけだな。子供殺しの黒騎士をついに退治した。ハサレック自身が挑んだとは言え、見事なものだ」
淡々とロズウィンドは事実を突きつけた。それは結果として、マレサを黙らせた。
嘘だと。馬鹿げていると。いつもならそう怒鳴り返してやるだろう。
真実の暴露も。死の知らせも。
『黒騎士だなんてそんなこと』
『あるはずが』
先ほど聞き取れなかった――聞き違ったと思っていたセズナンの言葉が不意に蘇り、彼女の脳裏を支配した。
『彼が黒騎士としてジョリス殿を負傷させ、子供たちを殺め、王陛下に刃を振るい、王子殿下を襲ったことは』
『紛れもない事実』
続いて聞こえたのは、あのとき瞬時に否定した、神官の言葉。
まさか。
でも。
学はなくとも、彼女も愚者ではない。いままで事実に気づかなかった、いや、目をつぶってきただけ。
何故、ハサレックはナイリアンを追われたのか。本当に、冤罪であったのか。
信じていた。信じたかった。ハサレックは、〈青銀の騎士〉は、橋上市場の英雄で、彼女ら兄妹の憧れで。
信じたかった。信じたい。いまでも。
セズナンがそうした気持ちでいたのだと、瞬時に判った。
信じたい。馬鹿げた容疑だと笑い飛ばしてほしい。
なのに、足元から、崩れた。
たとえ嘘であっても――ハサレックがそれを笑い飛ばしてくれることは、もうないのだと。
「ハサレック、様……」
マレサの全身から力が抜け、クロシアはそれを支える形になった。
「お兄様、いまのは――」
「酷い、とでも? 事実だ」
「事実だとしても、伝え方というものがありますわ。それに、亡くなったのでしたら……名誉を守って差し上げても、よろしかったのでは」
「嘘か。時に嘘は美しい。そういうことかな」
「どうして、そのような言い方をされますの」
ウーリナは哀しそうな顔をした。
「お兄様が、お兄様では、ないみたい。昨日から……いいえ、もっと以前からだったのに、ウーリナが気づかずにいたのですわね」
「私は何も変わらないさ。そうだな、いまは少し、気が焦っているところがあるかもしれない。いろいろと巧くいかないことがあってな」
ロズウィンドは肩をすくめた。




