09 聞かせてもらおう
何ごともない一日であれば、王女の侍女が王子に伝言を送るのはそう難しくない。不仲な兄妹であればともかく、溺愛されているウーリナである。部屋にいればラスピーシュは必ず用を聞いたし、不在でも至急の用件であれば兵が王子を探しに行くこともあったくらいだ。
だが今日この日ばかりはそうもいかない。ラスピーシュは私室にも執務室にもおらず、いま現在どこにいるかを即答できる人物もいなかった。マレサは苛つきながら城内を走り回り、何人もの使用人とぶつかったが、このときばかりは叱責もなかった。みんなそんな暇すらないからだ。
「あっ、セズナン!」
そうこうする内に見つけた仲間の顔に、マレサは少しほっとした。
「王子様、どこにいるか知らねえ? ラスピーシュ様の方!」
いきなり問うたが、セズナンとて王子付きではない。知らないと首を振った。
「そっか」
マレサは落胆した。
「居場所と言うなら……ねえ、マレサ」
セズナンはそっと声をひそめた。
「――ハサレック様は?」
「ん? 午前中に、出て行かれたろ? そのあとは見てないけど」
まだ戻ってきていないのではないかと、彼女は首をかしげた。
「そう、か。お戻りじゃないだけだよね。僕、何だか心配になって」
「心配って、どういう意味だよ」
「だって」
ますます、声はひそめられた。
「この大騒ぎだよ。誰も知らなかったんだ。もしかしたらラスピーシュ殿下と王陛下の間では内密の話があったのかもしれないけれど、洩らされることなく、突然発表された」
「それが、何だよ」
判らなくてマレサは目をぱちくりとさせた。
「変わったことではあるみたいだけど、別にオレたちやハサレック様には何も――」
「そうも言えないんだ、マレサ」
従者としての教育を受けてきた少年には、少し思い至ることがあった。
「ハサレック様のお立場は、どうなる? ロズウィンド殿下の口利きで客員となっていらっしゃるんだ。この『不意打ち』がロズウィンド殿下を貶めるものであれば……ううん、まず、そうとしか思えないんだけど」
セズナンは真剣だった。
「ラスピーシュ様はハサレック様をお使いになり続けるだろうか? 僕には、そうは思えなくて」
「え……」
「僕、聞いたんだ。ロズウィンド殿下の方針はいまの王陛下と相反する方向だったらしい。そうなると、ハサレック様は」
「ク、クビ?」
「それで済むなら、まだましかもしれない」
ナイリアンに「喧嘩を売る」ことをよしとしない方針に戻るのなら、追放された元ナイリアンの騎士を匿うことはもちろん、ただ手放すだけだって問題だ。たまたまこちらに流れてきたので捕らえたとか、そうしたことにしてナイリアンに送り返すという辺りがラシアッドの採れる無難な道である。
「んな……」
セズナンの大まかな説明をマレサが完全に把握したとは言えなかったが、冤罪から逃れてきた安住の地でまた裏切りに遭いそうなのだ――彼女の考えるハサレック像では、ということだが――とは理解できた。
「んなのっ、おかしいっ」
「ハサレック様がお戻りになったら、すぐに状況をお話しして……ここを急いで出て行くことも考えないとならないと思う」
感情的に言ったマレサを制して、冷静にセズナンは言った。
「僕は……信じる。絶対に。あの人を」
それから彼は静かに呟いた。
「黒騎士だなんてそんなこと……あるはずが」
「え? 何だって?」
「あっ、い、いや」
何でもない、と慌ててセズナンは首を振った。
「マレサ、君はハサレック様をお部屋でお待ちしていてくれないかな」
「で、でも」
ウーリナのことが頭をよぎる。ハサレックのことはとても大切だが、それでもあんな様子の王女を放っておくのは。
「セズナンが、待っててくれよ。お話しするのもオレより巧くできるはずだし」
「僕はもう少し、状況を確認しようかと」
青年の姿をした少年は困った顔をした。
「ラスピーシュ殿下をお探ししているんだったよね? でもお目にかかるのは難しいと思うよ」
「それくらい、判ってるさ。でも姫さんが話したいって」
「ああ……そういうことなら、殿下もお時間を取られるかもしれないけれど」
兄妹仲のよさは、他国からやってきたばかりの彼らにも知れるところだった。
「ここまで本気で実行しようとなさってるんだ。王女殿下が反対されても話はとまらないだろうし、君がいま走り回ることもないんじゃないかな」
セズナンの指摘はもっともでもあった。だがマレサは首を振る。
「黙って見てらんないよ。様子が変なんだ」
守ってくれたのだ。ウーリナは、彼女を。なのにウーリナの様子がおかしいときに冷たいことを言いかけたり、あまつさえ一方的に口にしたとは言え、約束を破るなんて。
「オレ、やっぱりもう少し、探してみる。で、用事が済んだらすぐ戻って、ハサレック様を待つことにする。セズナンもそうしろよ。じゃな!」
「あっ、マレサ」
友人の引き留める声を聞かず、彼女はまた走り出した。
もどかしい。身体がふたつあればいいのに。そんなことを思う。
――もうハサレックの心配をする必要がないこと、彼らはまだ知らずにいた。
(とにかく、いまは姫さんとの約束)
(ハサレック様のことはそれからだ)
何も知らぬまま決断すると、マレサはまたしてもラシアッド城内をここかあちらかと移動した。
城には慣れはじめてはいたものの、あまり足を踏み入れたことのない場所もある。彼女は人気の少ない、あまり覚えのないところでふと、足をとめた。
誰もいない部屋がある。
それは立派な部屋であるのに、主も使用人もいない。たまたま出払っているだけかもしれない。いまこの城内では、誰ものんびり座してなどいないだろうからだ。
ただ、ふと気になった。そのがらんどうの部屋が、奇妙に寂しい場所に見えて。
「……何だよ、オレは馬鹿か。いいからとっとと王子様を」
くるっと踵を返してそこを離れようとしたマレサは、何か気配を感じてまた振り向いた。
「うわっ」
思わず頓狂な声を出し、それから咳払いして、あまり好まないが渋々と礼をする。
「あの、すんません、その、殿下の部屋って知らなかったんで」
ぶすっとしていかにも謝る気のない謝罪になるのは、どうしたって昨日の今日だからだ。
奇怪な力と手段で神官を殺し、そして王女と彼女を脅した。ウーリナはマレサに、これまで通りに振る舞うよう――ロズウィンドに対しても――言ったが、腹が立つのはとめられず、それを上手に隠せるほど経験を重ねてもいなかった。
「何の騒ぎだ」
侍女の様子も不敬も気にとめることなく、或いは無視をして、ナイリアールから戻ってきたロズウィンドは顔をしかめた。
マレサが見た目通りに二十歳前後の侍女、或いは「中身」の通りでももう少し観察眼のある少女であったなら、ロズウィンドがどこかぼんやりとして、疲れている風情であるのを感じ取ったかもしれない。
だが焦燥感のようなものに捕らわれた彼女が、王子の様子に気づくことはなかった。それより、彼の気にした「騒ぎ」が何であるか、知っているのだ。
「あ……」
隠しごとの巧くない娘は、はっとした顔をした。事情が何ひとつ判らないとは言え、「弟の戴冠式の支度」という事実が兄に喜ばしいものでないことくらいは推測がついた。
ロズウィンドは片眉を上げ、クロシアがすっと動くとまるで退路を断つように彼女の背後に移った。
「スイリエの王城に帰るべき、か」
ぽつりと呟いた第一王子は、何を思ったものか。ゆっくりとロズウィンドはマレサを見た。
「お前は、ウーリナの侍女だったな。何が起きているか聞かせてもらおうか」




