08 いいのかよ
〈太陽空に雷 〉という気持ちであったのは、何もナイリアンとカーセスタの使者たちばかりではなかった。
王城のほとんどの者がその突然の決定、或いは逆転に仰天し、いったいどうしたことかと益体のない推測をした。
ラシアッド王の戴冠式――。
それは突如として、これまでどの立場から見ても存在しなかった意味を持つことになった。
エクールもナイリアンもない。それはいきなりの逆転劇。
それを弟王子の反乱や裏切りと呼ぶか、はたまた兄王子の道化芝居と呼ぶか。立場や視点次第であったろう。
スイリエ王宮内ではまだ、そんな噂をする余裕はなかった。本来一旬先であった重要な儀式が急遽今日に変更だなどとなれば上を下への大騒ぎになって当然だ。愚痴を言う時間だって惜しいというもの。
もっとも、ラスピーシュ自身が言った通り、それはもともと王家だけの儀式。質素にやろうとすれば本当に関係する王族――前王と新王――の正装と、儀式に使う広間の装飾くらいで済んでしまう。しかし他国から招待客がいる以上はそこまで簡素なものにもできなかった。
どういうことであるのか。
サレーヒにサズロ、政治に興味のないらしいディナズまでもが驚愕してラスピーシュを問い詰めたが、彼は「父王との相談の上、こう決まった」としか話さなかった。
彼らがそれに反対できるはずもない。その必要があるのかどうかも、判らない。もしも誰かしらが既にロズウィンドと癒着していれば、この「乗っ取り」に賛意を見せず、「ロズウィンド殿下の戴冠でないのなら自分は招待者ではない」と言って出席を拒否することもあったかもしれない。
しかしバリアス・オードナーと会談を持ったのはラスピーシュである。サズロは知らぬことだが、ラスピーシュがバリアスと話したとき彼は常に「新王」という言い方を使った。「兄」「ロズウィンド」とは一度も言わずにいた。
そこに気づく者があれば、これが昨日今日の企みではないと知るだろう。
どうあれ、彼は計画していたのだ。
ラスピーシュ・レクリア・ラシアッドが、この国の新たな王として戴冠することを。
ナイリアンとカーセスタの使者たちの部屋はそのままラシアッド兵の監視下に置かれ、彼らはその場に残るしかなかった。サレーヒが突破しようと思えば容易ではあったが、血を流せばこれまでかろうじて残されてきた一線を破ることになる。
既にロズウィンドがその一線を破っていることを彼らは知らない。知っていれば採る方法も違ったかもしれないが、彼らはこの突然の展開をただ見守るしかなかった。
たとえ少しは自由があったところで、情報のひとつも集められなかっただろう。誰も口を割らなかったはずだからだ。それは忠実さ故ではなく、誰ひとり憶測以上のことを話せなかったから。
サレーヒはセズナンと連絡を取ることも考えたが、ナイリアンの元少年従者を呼び出すことはできなかった。できたところで、セズナンもまた戸惑っていたはずだが。
「どういう、ことなんだよ?」
王宮内で誰もが一度は口にした言葉を彼女もまた口にしていた。
「だって、王様候補なんて、ぽんぽん変わるもんなのか? 違うよな?」
王女の侍女たちもまた忙しくしていたのだが、マレサは役に立たないどころか邪魔になると既に見放されており、ちょうどいい仕事――ウーリナの傍に待機している――だけを与えられていた。
「なあ、姫さん」
彼女は扉の向こうに呼びかけた。
「そろそろ、何か、話してくれよ。侍女頭のおばちゃんも言ってただろ。いくら調子が悪くたって、何にも飲み食いしないのはますます調子を悪くするって。高熱でもあって戻しちまうってんならともかく、熱はないみたいだし……」
ウーリナ王女はいつも侍女に起こされるより早く目を覚まして、自ら髪をくしけずっていることが多い。だがその朝、彼女はぼんやりと椅子に座って、いつものような朝の挨拶を侍女に返すことさえなかった。
もちろん侍女は奇妙に思っていろいろと問いかけたが返事はなく、報告を受けた侍女頭が宮廷医師の診察を提案すると、ただ気分がすぐれないだけだとどうにか答えてそれを拒否した。
これまでウーリナが笑みを見せないことなどなかったのでみな案じ、不安にさえ思ったが、彼女はただひとりにしておいてくれるよう要請すると朝食も口にせずに部屋に閉じこもった。
そうこうする内に戴冠式に関する報せがあり、直接は関わらない王女の侍女たちまでてんやわんやとなって、マレサだけがそこに残されていたのだった。
「姫さんってばよ」
人前では何とか――彼女なりに――丁寧な言葉を使うよう心がけていたが、いまはほかに誰もいない。彼女はウーリナとふたりで町に下りたときと同じような調子で何度も呼びかけた。
「何か大騒ぎだぜ? それに、何にせよ、兄貴が王様になるんだろ? 閉じこもってていいのかよ」
本当に体調が悪いのであれば、どうしようもないこともあるだろう。しかし起き上がって話もできるのだから大したことはないのではと、マレサは手厳しくそんなふうに思った。
「出てきなよ。そりゃ、昨日のことは驚きだったけどよ……」
王女と一緒に城を抜け出し、神官と――マレサには――何だかよく判らない話をして、ウーリナが家出ならぬ城出をするなどと言い出したところにロズウィンドが現れ、事情が判らないままに、目の前で神官が死んだ。
そう、マレサにはさっぱり判らなかった。
ただ昨日は、目の前で人が死んだという事実に衝撃を受けていた。
あのあと城に連れ帰られた王女は、何とかイゼフの――彼女はクライスと呼んだが――弔いだけでもと兄に頼み込んだ。ロズウィンドは応とも否とも答えず、夕飯のあとで身を清めて待っているようにとだけ言った。
マレサはそのときまだ何だか呆然としていて、ウーリナの様子などには気づけなかった。ウーリナの方では彼女を案じ、安心させようといろいろ話してくれた。
クライス・ヴィロンと名乗った神官は、彼女をかばって死んだ。
そのことに、マレサはまだどんな整理をつけてよいか考えられないまま、思考の奥の方に押しやって仕事をしていた。
「なあ、でも、いつまでもそうしてるなんて姫さんらしくないぜ。みんなに心配かけるとかさ……」
ウーリナが衝撃を受けているのは、イゼフのことだけではない。しかしマレサは何も知らず、ぶつぶつと繰り返していた。
「姫さん?」
扉の向こうで気配がしたと感じた。少し迷って、マレサは扉に手をかける。
「……入るぜ?」
かちゃりと取っ手を回す。静かに蝶番が動き、マレサは何となく、自分が通れるだけそれを開けると滑り込むように室内に入った。
ウーリナは立ち上がっていた。だが、顔色は悪い。それを目にしてマレサはぎくりとした。
「あ、ほ、本当に、調子悪いんだな。ごめん、何か、きついこと……言ったかも」
「お兄様が……」
いつも涼やかな王女の声はかすれていた。
「何、ですって?」
「ああ、いや……たいかんしき? っての? 何か、急に、今日やるんだって」
「え……」
どうやら王女にほとんど情報は伝わっていないようだと判ると――侍女頭は扉の外から話したのだが――マレサは手短に説明した。
「それも、ロズウィンド殿下じゃなくてラスピーシュ殿下が王様になるんだって」
マレサにさえ驚きだと思えた出来事は、ウーリナにも当然、衝撃的だった。
「な、何ですって」
「やっぱり変なことなんだよな? オレもびっくりしたけど、お城とか王様とかのことよく知らないから、実は普通なのかなって」
「まさか……」
ウーリナは口に手を当てた。
「ラスピーシュお兄様が、知って……」
「知った? 何を?」
「でも、だからって、そんな」
ウーリナは頭を振った。とかされていない髪が揺れる。
「お会いしなくては。ラスピーシュお兄様とお話ししなくては」
「えっ、でも」
当事者なのだ。誰より忙しいのではないかとマレサは真っ当なことを思ったが、王女の真剣な顔を見ると反論する気持ちはすっと消えた。
「判った」
こくりと彼女はうなずいた。
「オレが、ナシつけて、連れてきてやる。待ってな!」
無茶なことを約束するとマレサは踵を返した。




