01 栄光なんて
その奇怪な逆転劇を鑑賞していたのは、旧見張り台の上にいたロズウィンドとクロシア、ただふたりだけであった。
「ニイロドスが消えた? どこへ行ったのだ」
圧倒的に有利に攻めていたとしか見えなかった黒い翼の生き物が薄青い光に包まれてからの、形勢逆転。その詳細は旧見張り台の上からは見て取ることができなかった。
「――ロズウィンド様」
クロシアとてそれは同じだったが、明確に判ることもあった。
「太陽が、出ます」
分厚い雲が晴れたかのように、太陽の眩く暖かい光がさあっとナイリアンを再び照らし出した。
「ニイロドスは去った……逃げたのか」
目をしばたたいてロズウィンドは呟いた。
「エク=ヴーが勝利したのか。は、はは」
彼は髪をかき上げた。
「正直なところ、無理だろうと思っていた。無論、湖神の力は強いものだが、それでも『この世のもの』であるのだからな」
世の中には絶対の法則というものがある。水が高いところから低いところへ流れるように、当たり前で、どうしようもないこと。
ごく稀にそれをねじ曲げる者もいるが、思うままにできることではない。それが自在にできるとしたら、やはり超常の、「この世のものではない」何かだ。
「生憎と、何が起きたのかまでは判らないが」
彼はさっと手をひと振りした。
「力は……残っているようだ」
その指の先に、黒い炎が灯った。
「ふふ、ニイロドス殿はまだ諦めていないと見える。結構なことだ」
もう一度手を振って彼はそれを消し、さて、と空を見上げた。
「早速、王の名乗りを上げるとするか。ナイリアン王家は滅びた。支配者は必要だからな」
レヴラールを突き落とした男は淡々と言った。
「この怪異に何も手を打てなかった役立たずの王家に代わり、新生ラシアッド王家が安全を保証しよう。無論、すんなりとはいかなかろうが、そうだな」
かすかに彼は笑みを浮かべた。
「ジョリス・オードナーでも血祭りに上げれば、怖れて誰も何も言えまい。義憤に燃えるような騎士連中は始末してしまえばよい」
弄ぶように黒い火を灯したり消したりするのは、その力が残滓ではないことを確認するためでもあった。
失われてはいない。悪魔の力は。まだ。
ならば、ことは容易だ。
「恐怖で押さえつけるのは、私の好みではないが……絶大なる力があるときならば、手っ取り早いことは確かだ。だがそうした真似を続ける気はない。また愚者どもが侵略侵略とうるさくなることは目に見えているからな」
ふんとロズウィンドは嘲笑った。
「暴力のみで治めるは愚かなこと。ラスピーシュが抱き込んでいたオードナーの父親を使おう。反逆した息子を持つ父であっても忠誠を誓えば許すという、よい形にもなる」
王子が手を握ったり開いたりすると、青黒い炎がそのなかに明滅した。
「さあ、もうひと働きだ、ノイ。まずは『ナイリアン』という国がなくなったことを気の毒な民と諸外国に伝えるとしよう。そして新生ラシアッド王国が誕生したことと、その新王についても」
知らしめよう、と王子はまるで気軽に言った。
「まだ……やるんですか」
静かな声にロズウィンドは振り返った。
「この街に、人々に怖れを振りまき、悪魔の玩具にさせておいて……悪魔が去れば何ごともなかったように、救世主のふりでもして」
「――無事のお戻りに、祝福を」
ロズウィンドは丁重な礼をして、少年に対峙した。
「何かご不満かな? 私は既に、私の進む道について告げておいたはずだ。ナイリアンの蛮族からエクールの栄光と〈はじまりの地〉を取り戻すと。ニイロドスと我が神のどちらが勝利しようと、それは変わらない」
悪魔が勝利したなら、ニイロドスがヴィレドーンを使って考えていた「遊び」と同じように、各地が戦火に巻き込まれただろう。湖神が勝利すれば、いくらかは国内が荒れても、再び平穏の仮面を着けただろう。
どちらでもいいのだと、ロズウィンドは繰り返し、言っていた。
「栄光なんて、要らないんです。〈はじまりの地〉だって」
少年の表情は、寂しげでもあった。
「抱いてしまった望みが、残念なことに、遅すぎた。あなた個人の問題じゃない、判っているはずです、国として遅すぎたのだと。もっとも僕だって、血が流されることは望まない……それはエクールの民に限りません」
呟くように、彼は続けた。
「栄光とか。エクール湖という場所がどこの領土だとか。そんなことは……あなたがエクールの、そしてラシアッドの王家の人間であるから欲し、気に障っただけ。何の地位も身分もなければ、たまに畔の村を訪れたり……そうしたことで、充分、満たされたのでしょうに」
「かまわぬ、と言うのか?」
ロズウィンドは目を細めた。
「湖神は、ナイリアンの支配下にあってもかまわぬと」
「支配するとかされるとか、そんなこと、僕には意味がありません。判っているはずです」
「ならば私も言おう、湖神よ。判っているはずだと。『誰が』支配する。『誰の』ものである。人間の世界ではそれが大事なことなのだと」
「もう、やめて下さい」
少年は首を振った。
「帰って、下さい。あなたの国へ」
「私の国はここになるところだ、神よ」
「いいえ」
ゆるゆると少年はまた首を振る。
「あなたは――最後の機会を棒に振った。自分の意志で悪魔の支配から逃れられる、絶好の機会だったのに。まだ使えると。利用していこうと。そうすることで何を失っていくか知っているはずなのに」
「失う?」
ロズウィンドは片眉を上げた。
「参考までに尋ねよう。私が何を失ってきたと言うのか?」
「判って、いないんですか?」
哀しげに少年は問い返した。
「人の心……です」
その様子は泣き出しそうでさえあった。
「ヒューデアさんを手にかけたのは悪魔でしたが、そのときはまだ――あなたには罪悪感があったかと思います。味方にならないのなら仕方がないのだと言い訳をした。でもどこかで、そんな自分を弱いと感じましたね」
少年は、まるで彼自身が懺悔をしているかのようにうつむいていた。
「イゼフ神官は、すぐに治療をすれば救うこともできたはずだ。なのに見捨てたのは、彼が密命を受けてやってきた『敵』だからではない。八大神殿の、神官だったから」
うつむいたまま少年は続けた。
「ラシアッドは八大神殿と関わらない国作りをしてきたけれど、関わらなかっただけで弾圧してきた訳でもない。それを『神官』を殺すことによって明確なる八大神殿との断絶とし……悪魔とのつながりを深くした」
ロズウィンドは黙っていた。
「次にはウーリナ王女です。妹の血筋を利用することは以前から考えていたとしても、一年前のあなたに、いいえ、数月前でも、実行できたとは思いません。まだ良心が残っていた内は」
「良心」
ぽつりとロズウィンドは呟いた。
「そのようなものが何になる? ただ人ならば、良心に従い、倫理に縛られて生きていくのも時に立派な道だ。それは否定しない」
だが、と彼は続けた。
「その鎖があってはできないこともある」
「いいえ」
少年は否定した。
「その鎖は、解くべきではないものです。確かに、王者であれば時には非道な選択をして他者を切り捨てることも必要になるでしょう。リチェリンさんに話していたように、少数の犠牲で多数を守ることも。ですが」
顔を上げた少年は、何かに耐えるような表情をしていた。
「負わなければならないんです、それは。そうした痛みは。切り捨てられ、踏みにじられた者の痛みに気づかない王者には」
彼は顔を歪めた。
「栄光なんて、ありません」




