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アバスターの継承者  作者: 一枝 唯
第9話・最終話 栄光と正義 第3章

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12 あなたと一緒にありました

 事実、悪魔の彫像はぴくぴくと動き出していた。湖神は再び氷の膜を張ろうとしたが、その瞬間に悪魔の身体が黒い炎に包まれ、それを溶かしてしまった。街路にばらばらと偽の雨が降る。

「水……氷……」

 オルフィはそれから考えはっとして辺りを見回した。

「この辺に、確か、水路が……いや」

 先ほどの広場には噴水があった。戻った方が早い。彼は再び走った。

 それは無残にも魔物の槌で破壊されていたが、水路から水を汲み上げて循環させる仕組み自体はまだ生きているようで、付近には水たまりができていた。オルフィはそこに走り寄ると冷たい水に手を浸した。

(水よ)

(この力をカナトに届けてくれ)

 水に属する生き物には水が力になるはずだ。あまり詳しくはなかったが、彼は思い出して祈るようにした。

 自然と目が閉ざされた。その瞬間、すうっと身体が軽くなるような気がした。

(え)

(な、何だ!?)

 慌てて彼は目を開けた――そうしたつもりになったが、認識された視界はますます目を回すようなものだった。

「え……ええっ!?」

 数(トーア)、どこから何を見ているのか判らなかったとしても仕方がないだろう。彼は、いや、人は通常、そうした視界を得ることはないからだ。

「空……?」

『オルフィ』

 驚いたような声が聞こえた。

『きてくれたんですか』

「き、きたって、その」

 彼は困惑する。

これ(・・)、お前の……視界、か?」

『そうです』

 さらりと返事がくる。

『有難うございます、さっきの足止め』

「あ、ああ。効いたのか、あれ」

『ええ、十二分に。いまだって』

 悪魔は赤い瞳をぎらつかせて彼を――彼らを見ていた。

「は。さっきの氷のやつも見たが……翼も使えずに落ちてくれるって訳には、いかないか」

『厳密には、翼だけで飛んでる訳でもないですし』

 どういうことなのかなどと問うのはやめておいた。

『オルフィのことは、巻き込みたくなかった。でももう、そんなことを言っても仕方がないみたいですね』

「ようやく諦めたか」

 ふんとオルフィは鼻を鳴らした。いや、彼の身体は地上にあるので、「そんな雰囲気の感情を示した」というところになるだろう。

「お前が散々俺を助けてくれたように、俺もお前を助ける。別に恩返しじゃない。そうしたいからそうするんだ。お前がしたいことについては……全面的に賛成とも言えないけど」

 いくらエクールの民であろうと、リチェリンを拐かし、ヒューデアを殺し、湖神を呼び戻すために村全体を人質に取ったロズウィンドを救いたいという気持ちには同調できないというのが本音だ。

「でもそれは、こいつをどうにかしてから話し合うとしよう」

 悪魔の周囲の青い光が薄れ出していた。もう一度同じことができるだろうかとオルフィは揺らぎを見つけようとする。

「うおっ」

 だが湖神の視界は彼の――人の目には掴みきれない動きをし、彼は酔いそうだった。

『すみません』

「いや、謝るな」

 素早く彼は言う。

「俺を気遣ってやられたりしたら、大間抜けだからな?」

『はい』

 少し笑うような返事に、少し安心した。オルフィの肉体は地上にあるということ、おそらくオルフィの理性以上にエク=ヴーは理解している。

「俺は俺で、どうにか慣れて、お前の助けになるように」

 言ってはみたものの、ニイロドスの位置を把握するのが精一杯で、あの微妙な揺らぎを見て取ることは困難だと判断せざるを得なかった。

 だがここまできて――「くる」と言うのかはよく判らないが――ただ見ているだけなど、元〈漆黒の騎士〉の、いや、カナトの友人の名がすたるというもの。

「カナト、あとはどうやって攻める。氷のつぶてと、氷壁のほかには」

『それなんですけど』

 悪魔が手を振り上げた。生じた雷は目が潰れるかと思うほど強い光を放ったが、焦ったのはオルフィだけで、湖神はまたそれを避けた。

『実は、ほかになくて』

「何ぃ!?」

『水というのは地と並んで癒やす方なんですよ。攻撃はあまり得意じゃないんです』

「それが判っていながら悪魔に喧嘩を売ったのかよ!」

 オルフィは悲鳴を上げるかのように言った。

『どちらかと言うと、売られたんで、買いました』

「どっちでも同じだ!」

 逃げ回っているのは秘策があるからではなく、それしかないからだと言うのか。オルフィは呆れそうになったが、すぐに気づいた。

 それだけ――「湖神」にとって、大事なのだ。エクールの民を守るという約束は。

 「彼」、ヴィレドーンだってエクールの民だというだけで助けられた。助けられる価値などなかったというのに。

 そう思うと、何も言えなかった。

 オルフィ自身がロズウィンドを助けたいとは思えないままだが、それでも彼はその決断に口出しできる立場ではない。

「おっし」

 彼は両の拳を握りしめた――そういう気持ちになった。

「何とかしなきゃな」

 せめて武器があれば、と思って苦笑しかけた。剣をジョリスに渡してしまったことについてではない。「この状態」で剣がなんの役に立つのか。

『立ちますよ』

 湖神が言った。

『オルフィがその気に、なってくれるなら』

「その気? 戦う気って意味なら、なってるさ。でも剣もないし、あったって――」

ありますよ(・・・・・)

 悪魔が飛びかかる。湖神はぎりぎりでそれをかわした。いや、かわしきれなかった。

『く……』

「カナト!」

 こうした心でのやり取りは実際に発する言葉よりずっと易しく、かつごく短い時間で可能なものであったが、それでもエク=ヴーの集中力を削いでいることは間違いない。自分が「きた」のは間違いであったか。

『見つけて』

 彼は言った。

その剣は(・・・・)ずっと(・・・)あなたと(・・・・)一緒に(・・・)ありました(・・・・・)

「剣が……俺と?」

 ぐんっと速度が上がる。これ以上速くなることがあるなどとは思っていなかった。オルフィは反射的に目を閉じた――ように思ったが、これは「彼が」見ているものではない。当然、エク=ヴーは視界を閉ざすような危険な真似はしておらず、彼は怖ろしい速度で下方を流れる街の景色を意識しないようにした。

「俺と、一緒に」

 エク=ヴーは何を言っているのか。大事なことのはずだ。

 彼が、気づかなくてはならない。

 見つけなくてはならない。

「剣……」

 何かの、気配を感じた。それはとても懐かしい。

 何かがいる。そこに。

「いいのか。俺に、手を貸して、くれるのか」

 答えはない。許すとも許さないとも、その気配は言わなかった。

 ただ、見えた気がした。

 それは柄の白い細剣。

 ジョリスのものとよく似ている。だがそうではない。

 オルフィは唇を結んだ。

「判った」

 彼は言った。

「ナイリアンを危険にさらした責任は、これで取る」

 これは、ファローの。

 抜かれることなく、主が背後から殺されるままにするしかなかった剣だ。

 ずっと、彼の近くにいたと言うのか。まるで、守るように。

「聖人でもあるまいし」

 彼は左腕が熱くなるのを感じた。

「どこまで人が好いんだよ」

 彼の身体は地上にあるのに、いまここでぐっとその白い柄を握れた感触があるというのは不思議なことだった。

 だが、剣はある。

 彼とともにいる。

 終わらせるために。

「いいぞ! カナト!」

 彼は叫んだ。

「行け!」

 これまで体験したことのない、(はや)い風を感じた。まるで彼自身が飛んでいるかのようだった。

「うりゃあああああっ」

 両手で握り締めた剣で、彼は人の身を超えるひと突きを放った。両腕が熱くなる。いや、身体はない。どうやって剣を握り、黒い翼持つ禍々しい姿を突いたものだったか――。

『馬鹿、な……そんな』

 ニイロドスの声が聞こえた。それは怖れでもなければ、絶望でもなかった。過去の時間軸で垣間見せた怒りでさえ、ない。

『そんな馬鹿なことが、あるはずが』

 呆然としていた、というのが最も近いだろうか。悪魔にしてみれば、それは赤子に転がされるような、羽虫に殴られるような、そんな「有り得ないこと」であったはずだった。

『何が……起きた……』

 ゆらゆらとその黒い身体が翼ごと揺れる様は何だか奇妙だった。まるで子供が人形をひっ掴んで揺り動かしているかのよう。

『駄目だ、このまま、では……』

 揺れながらニイロドスは、エク=ヴーを見た。

『この世の、もので、あるはずなのに……何故』

 その表情が歪んだ。何度もオルフィらの前に降臨した美しい青年の顔立ちが一(リア)見えた気がして、オルフィはぞっとした。

『帰ら、なくては。また、ドリッド=ルーに……借りを』

 誰に言った訳でもないようだった。黒い血をぼとぼとと落としていた悪魔は、酔っ払いのように揺れたまま、不意に、消えた。

「……は」

 オルフィは口を開けた。

「追い、払った、のか……?」

『おそらくは』

 ほっとしたように湖神が答えた。

『でも、獄界の神が気まぐれで彼を癒やそうと思ったら簡単でしょう。一時的にすぎないかも、しれません』

「そう、か」

 安心はできない。これでも。

「それにしても、まるで見えていなかったみたいだな。俺のこと」

 オルフィともヴィレドーンとも呼ばなかった。見えていたなら、何かしら一言がありそうなものだったのに。

『存在しないものは、いかに超常の者でも見えないと思います』

 それがエク=ヴーの答えだった。

『だってオルフィ、あなたはここにいませんから』

「何を」

 がくん、と膝が崩れるような感覚。

「え」

 すっと血の気の引く感覚。いや、だが、身体は、ない――。

「ちょ、ちょっと待て!」

 引いたのは血の気ではなく、アレスディアの熱だ。それと同時にオルフィは、激しい落下感を味わっていた。

「わああああっ!?」

『落ち着いて! 大丈夫ですよ、落ちてませんから!』

 彼よりも慌てたようなカナトの声が耳だか心だかに届いた。

『思い出して。オルフィは、地上にいます!』

 そうか――と感じられたとき、反射的な恐怖は消えた。

 目の前は真っ暗になった。しかしどこか、不思議な安心感がある。

 いまは、休んでいいのだと。

 その休息がわずかなものだったとしても、いまは、少しだけ。


(第4章へつづく)


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