11 本能の忌避を超えて
その上空で、人前にあまり姿を見せることのない二種の人外も戦いを続けていた。
と言っても、仕掛けたのはほとんど悪魔だ。エク=ヴーは強烈な攻撃から逃げるばかりであった。
まともに食らえば致命的という点において、それは中心での騎士と巨人の戦いに似ていた。だが上空の戦いに直接介入できる者はいない。
焦れたように黒い生き物はちょっかいを繰り返したが、次第に苛立ちを大きくしたか、攻撃は激しい――危険な――ものに変わりはじめていた。
竜に似た生き物の表情は読みづらかったが、少なくとも真剣であることだけは確かだった。悪魔は気軽にあしらえる相手ではない。
「カナト」
オルフィはぐっと目を閉じると両腕に意識を集中した。
「獄界の瘴気を街に振りまいてた陣は崩れたし、それを集めてもっと濃い瘴気を送り出すはずだった魔物も追い返した。あとは、ナイリアールの街をおもちゃにして遊んでるそいつをどうにかするだけだ」
それがいちばんの問題なのだが、オルフィはまるで気軽なことのふりをして言った。
「エク=ヴーの力がどんなものなのか、俺も具体的なことは知らない。長いことエクールの民を守ってきたんだからすごい力があるんだろうって、それくらいの認識だ。でも、だからって黙って見てはいられない。アレスディアの力を……」
アレスディアの力を貸す。そうしたいが、どうすればいいのか。
(息を整えろ。気を落ち着かせるんだ)
先ほどは夢中だったが、巧くできた。ジョリスがいてくれたおかげかもしれないが、少なくともそこにはオルフィの力や意志だって存在したのだ。
(できる。俺には)
(カナトが何度も俺を助けてくれたように、今度は俺が)
(助ける。必ず)
青い光が一対の籠手から湧き上がった。重さは感じないが、熱を覚えた。熱くてたまらないと言うほどではないが、温かくて心地よいという段階は超えている。
(これでいい)
(保て)
うっすらと額に汗がにじんできた。熱のためではなく集中のためだ。
瞬間、何かが光った気がした。
「うわっ!?」
ドォンという大きな音が彼のすぐ近くで起きたかと思うと、石畳が吹っ飛んだ。化け物の槌よりは狭い範囲だが、できた穴はずっと深い。
見上げれば、悪魔が地上を指差していた。
『油断ならないな、ヴィレドーン』
ニイロドスの声がする。
『その籠手で何をするつもりなんだ? まさか僕を討とうなんて考えているんじゃないだろうね。無駄なことは知っているはずだけれど』
「無駄かどうか、やってみなくちゃ、判らないだろ」
彼は顔をしかめた。
「だいたい、わざわざ邪魔をしてくるってことは、実は無駄じゃないんじゃないか?」
口の端を上げてそう言った。悪魔の返事は、なかった。
(痛いところを突いちまったかな?)
いつものような余裕綽々ではないニイロドスを見たようで、オルフィは少しだけ気分がよかった。だが口でやり込めたところで何にもならない。
(剣や魔術が触れることさえできないと)
(だからカナトも手を出せないのか?)
エク=ヴーが仮に炎を吐くことができるとしても、それが悪魔の身体を焼くことはないと、そういうことなのか。
(それとも勝算があるのか、判らないが……)
改めてオルフィは集中を再開した。
(さっきは巧くいった)
(さっきは、どうやった)
彼は落ち着いて思い出そうとした。
(そうだ……まず、見た)
いきなり力を放ったのではなかった。まず、巨人バームエームの周囲に揺らぎを見て取って、それがつながる一点――あれは獄界につながるものだったのだろうか――を攻めたのだ。
(おし)
(同じやり方が効くかは判らないが)
正直、望み薄だ。巨人はニイロドスの使い魔という程度。
自分より強い存在だって従わせてしまえるのが契約の怖ろしさではあるが、もとより獄界の存在として知られている悪魔とそれが作り出した邪の結界によって現れた魔物のどちらが強力であるかは考えてみるまでもない。
(それでも、とっかかりくらいにはなるかもしれない)
黒い姿をじっと視界に入れているのは苦痛だった。太陽を直視できないように。いや、それとは少し違ったろうか。
怖ろしいものを見つめていてはならないという、これは本能の警告。
だが見た。
これがいまの、彼の務めだ。
それを果たすため。
(――見えた!)
見つけてしまえば、その揺らぎは先ほどの巨人よりもはっきりと見て取ることができた。
(……ん、でも)
同時に、見えなかった。バームエームをつないでいたかのような、どこか一点に伸びる紐は。
(あいつはさすがに、巨人みたいには押し戻せないってことか)
ならばどうしたらいい。何か手がかりは。
(押し戻せないなら、あいつが自分から逃げ帰るようにしないと)
倒せれば最上だが厳しいだろうとは判っていた。
(いちばんの問題は普通の攻撃が通じないってことだよな)
ニイロドスは何と言っていたか。
(確か、違うところに存在してるから触れられないんだとか。でも意識すれば触れられるとも)
それは向こうの自由自在ということだ。悪魔が本当のことばかり述べたと考えるのは愚かだが、人間の攻撃をほぼ完璧に防ぐことができるのは確かだ。
(――ずれて、いる)
ふと浮かぶものがあった。
(魔術師がやることに近いとかって話だったよな。魔術師はほんの少し、紙一枚分くらいずれたところに移って、もとの場所から影響を与えられないようにするとか)
ずれないように、すればいい。
ずらさせないように。
(固定する)
オルフィは両腕を天に、黒い翼の生き物に向けた。
籠手から青い光が消えた。と思うと上空で同じ色の光が爆発したように見えた。
それはまるで花火のようだったが、大きな音などはなかった。光の粒だけがかすかな軌跡を残しながら消えて行く。
移るから逃げられるのだ。この場に釘付けてしまえば、「紙一枚分」とて移動することは難しくなる。
――というのが、たとえば魔術で言うならどういう理屈だとか、五大魔印の何をどれだけ使うだとか、そんなことは知らないし関係ない。
オルフィとアレスディアには、関係がない。
「カナト! いまだ!」
ぐん、と空中から彼は何かを引っ張り下ろした。強い抵抗がある。反発する力は彼を逆に浮かせてさえしまいそうだ。
だが実際に彼が空を飛ぶことは――幸か不幸か――なく、その代わり、人の身には大きく負担のかかる行為を続けた。
それは即ち、邪なるものへの、反逆。
力がなければ、ただ怯えて縮こまることしかできない。どんな剛胆な者でも、顔を引きつらせずにはいられない、本能の忌避を超えて。
「カナト……!」
食いしばった歯の間から友の名を呼ぶ。
その声が上空のエク=ヴーに、届いたか。
最低限の動きで悪魔の攻撃を避けていた湖神は大きくその身をうねらせた。急に速度が上がり、オルフィは目で追いかけるだけのことも難しくなった。
悪魔もその速度についていけないのか――いや、それとも、アレスディアの力がその動きを制限しているのか。
(いましかない)
アレスディアの力は強大かもしれないが、悪魔だって同じだ。いや、不意を突いたのが巧くいっただけで、こちらの力が勝っているというのでもない。
時間はない。
湖神は素早く、悪魔の後ろに回った。大きくその口が開いたかと思うと、奔流のようにそこから飛び出したものがある。
「風?」
一瞬そう思ったオルフィだが、それは彼がこのエク=ヴーのことをよく判っていなかった証とも言えよう。
何か小さなものが大量に、ニイロドスの身体に当たったようだった。それは悪魔の皮膚を切り裂き、わずかにだが黒い血を飛び散らせたと見えた。
「石つぶて……?」
次にはそう思った。ばらばらとそれは下方に落ちていった。
「向こうだ」
オルフィはぱっと走っていった。彼らの真下に行くことはもしかしたら危険かもしれなかったが、いまのものの正体を見極めたいという好奇心と、あとは少しでも近くにいた方が何かできるかもしれない――何ができるかはともかく――という思いからだった。
彼らの戦いの場は、偶然にも、或いはニイロドスの誘導で、この中央広場にぐんと近くなっていた。広い大通りでオルフィは、石畳が水に濡れている場所を見つける。
「うん?」
まるでそこだけ雨が降ったかのようだ。
「氷、だったのか」
湖神は氷の粒を放った。彼はそう理解した。
小石のようなものでも、殺傷力はある。布にくるむようにして勢いよく回し、狙いをつけてそれを放つ武具もある。だが人間相手ならともかく、悪魔に効果があるだろうか。
(切り傷を作る程度じゃ、苛つかせるだけ)
彼は不安になって再び上空を見上げた。するとそのとき、悪魔の身体が光っているように見えた。
「な、何だ!?」
ニイロドスが何か奇怪な力を放とうとしているのかと考えたオルフィだが、それは思い違いだった。よく見れば、悪魔の翼は羽ばたいていなかった。
(何だ、あれは)
(まるで氷漬けに……そうか)
氷のつぶては、隙を作るための初撃に過ぎなかった。次の瞬間、エク=ヴーは悪魔を冷気の膜で閉じ込めたのだ。
「氷、そうか」
そこで彼ははたと気づいた。
(竜族ジェンサースは、確か、雷、火、地、風、水の力を持っていたはず)
騎士になる勉強には必要なかったが、たまたま何かで読んだことを思い出した。
(「湖神」だもんな)
(湖に棲むエク=ヴーは、水の力を)
しかしそんなことに感心している余裕はない。氷壁は悪魔の動きを封じたようだが、それでも悪魔は力を失っていない。ああして宙に浮いたままであるのがよい証だ。
(一時的でしかない)




