09 助太刀
光の波を神殿の鐘に乗せた湖神の動向を悪魔は特に邪魔立てすることもなく見ていたが、攻めに転じてくるでもない様子に業を煮やしたか、再び襲いかかった。
ばさりと不吉に羽ばたく翼は、先ほどとは違う形の嫌な風を生み出した。先ほどのものが風の槍であったなら、次のものは風の網だった。
絡め取られればエク=ヴーは、落下するということこそなくとも、動きを制限されただろう。
しかし湖神はやはり揺れるような動きでそれを避け、緑色の瞳でじっと悪魔を見ていた。戦いを望んだ悪魔はそれを興がらず、挑発するように辺りを飛び回りながら幾度も風を放った。
エク=ヴーはぐんと高い位置に上り、その舞から逃れようとする。だが悪魔は執拗に追いかけ、距離を詰めるとかぎ爪を振るった。
それは長い身体の後方を切り裂き、湖神は咆吼した。空気が振動して黒い翼を揺さぶり、悪魔の均衡を崩す。
だが、悪魔はまだちっとも、本気で戦っているようではなかった。ただ、遊んでいた。まるで、簡単に殺してしまっては面白くないと思うように。猫が玩具にじゃれつくように。
それらを悠然と眺めているのはロズウィンドとクロシアばかりだったが、ほかに目にした者がない訳ではない。
東西南北にいた騎士たちは、負傷をした者もしない者も、使命のあとは王城に戻るという指示を無視した。連れた兵士には帰るよう命じたが、彼ら自身は残った。
「何が起こるか判らない」ことが起きたのだ。
まずは上空に現れ、戦っているかのように見える二体の生き物。
それらについて、騎士たちが知る術はない。「片方はまるで伝承に言われる悪魔のようだ」とは思い、その知識からも本能からも怖ろしいものであると感じたが、もう一体の方には何の予測もできなかった。
もとより、空の上の戦いに彼らが何をできようか。弓矢を放ったところで届くとは思えぬ距離だ。
彼らは彼らに可能なことを考えていた。あの場所から走った黒い炎が中心を目指したことは明瞭であり、そこにはジョリスがいる。
〈白光の騎士〉は与えられた試練を難なく超えるかもしれないが、手があって悪いことはないはずだと。
だが、冷徹な観察者たるロズウィンドが言った通り。彼らがそこにたどり着くまでには少々の時間がかかる。仮に五分程度であったとしても、それは一対一の戦いにおいては長すぎるほどの時間だ。
それまでには、決着がつく。
「く……」
いかに国一番の剣士とて、見上げるほどに身の丈があり、力も速度も人を凌駕する生き物をやすやすと下す訳にはいかなかった。
ジョリスは素早い上に重い黒槌から逃れることを先決にしなくてはならず、剣の届く距離に近づくこともままならずにいた。
魔業石から生まれた化け物の巨大な槌が噴水を酷く破壊する。水と破片が飛び散った。
あのような一撃を受け止められるはずもなく、直撃すれば一巻の終わり。差し違えることすら困難だ。
ドゴォ、と石畳に何個目かの無残な穴が開く。
(いまだ)
さすがに、それを引き上げるときにはいくらか速度が落ちる。そこに飛び込み、彼は細剣を化け物の、武器を持つ毛むくじゃらな腕に突き刺した。
「よし」
少し安心できたことに、しっかりと手応えがあった。剣を引き戻して飛びのけば、巨人バームエームはうめき声を上げ、刺された右腕を武器から離してぶんぶんと振った。
さすがに腕を刺し貫かれては化け物とて怯むだろうと――普通なら、思うところだ。
確かに、その勢いは少し弱まった。だが巨人は腹を立てたように彼を見下ろし、焦点の合い切らない両眼を真っ赤に光らせた。
(ひとりでは、きついか)
助けが必要だった。
誰かひとりでいい。化け物の気を引く役であるとか――無論、ジョリスがそちらに回るやり方もある――、単純に目標を複数にすることで相手の気を散らすだとか、それだけで充分な効果が見込める。
何しろ剣は効いているのだ。騎士がふたりでも揃ったならば、必ず打開できる。
だが、助けを期待して待つという訳にはいかない。逃れ続けることは無理ではないが、この広場を離れればほかの建物に被害が出る。それは看過できなかった。
(やるしかない)
ひとりでも。
もとより、彼が兵士すら連れなかったのは、こうした事態を怖れたからだ。四方の守護以上の、怖ろしい化け物が現れること。
兵士としての誇りが彼らを逃げ出させるようなことにはならないとしても、下手をすれば、いや十中八九、犠牲が増えるだけ。場合によっては冷徹に、彼らを囮にしても街を守ることが務めでもあるが、彼はひとりで赴くことを選んだ。
選んだからには「ひとりだったから」などと言い訳はできない。
全力を尽くす。そして、勝つ。それが〈白光の騎士〉に望まれていること。
ジョリスはぱっと飛んで、怒れる巨人の――右側のふたつの――拳から逃れた。槌ほどの破壊力ではないものの、やはり石畳は砕ける。人の身で受ければ、どんなに運がよくても重傷だろう。
(速度が落ちた)
蜂に刺された程度にしか感じていないにしても、痛みは届いている。ジョリスの方は速度を上げて、後ろに回り込もうとした。と言うよりは、そうして追いかけさせることで相手の隙を作ろうとした。
だが生憎なことにそれは、巨体の魔物にありがちなように、知能が低いということもなかった。ジョリスの目論見に気づくと警戒し、また槌に手を伸ばした。
もっとも、それも隙だ。かがんでくれたのだから届きやすい。今度は左腕――の片方――を貫こうとした。しかし二度目は最初のときほど巧くはいかなかった。化け物は気づいたか、ひと組の両腕が彼を追い、捕まえようとしたのだ。
幸いにしてジョリスも持ち前の反射神経で両手に掴まれることをこそ避けたが、完全に距離を取ることはできず、右肩付近を化け物の太い指がかすめることとなった。
相手が人間であったなら、それは少々均衡を崩す程度で済んだだろう。だがかぎ爪のついた、巨体にすら不自然に大きい手は、かすっただけでも突き飛ばすほどの威力を彼に与えた。
酷く重い一撃。攻撃のつもりではなかったであろうに、全力で殴られたかのようだった。
均衡を立て直すどころではない。ジョリスは吹き飛ばされ、石畳に背中から叩きつけられた。瓦礫の上でなかっただけ、まだ運がよかっただろうか。
もっとも、衝撃で目は一瞬かすみ、全身に痺れを覚えた。カン、というかすかな音に剣を手放してしまったことにも気づいた。
(起き上がらなくては)
力が入らない。半日ほど前、協会の魔術に頼ることを決める前のように。
だが力は失われた訳ではない。いま、ほんの数秒、つながらないだけだ。目眩が治まれば動けるようになる。
ただそれは、化け物が待ってくれたらの話だ。
じぃんと全身が痺れている。一瞬が十秒のように感じた。
(限界か)
(――いや、まだだ!)
公正に、客観的に見て、それは強がりと言えた。単純に腕力では敵わず、相手は巨体にもかかわらず速さも互角に近い。剣技というものは、人間または人間と同程度の大きさをした相手と真っ当に剣を合わせたときにこそ有用なものだ。
技術が無駄とは言えないが、それでもこの状況ではほとんど役に立たず、腕力には圧倒的な差がある。
その片鱗に当たって打ちつけられ、視界と感覚が戻るまでの数秒。それは、致命的だ。
ぶうん、と槌のうなる音が聞こえる。だが俊敏に動くことができない。あと二秒でいい、彼に時間があれば。
ふとそのとき、かすかな影がが見えた。目がかすんだのかとも思ったが、そうではなかった。
白でも黒でもない、灰色の影が一瞬、確かにジョリスの目に映った。
「ハサレック――?」
何故、そう思ったのか。
消滅したはずだ。悪魔と契約した者が死ねば、どんな慈悲も奇跡もなく、完全にそこで「終わる」。どんな識者に問うても、口を揃えてそう答えるはずだ。もしも尋ねて答えがもらえるものであれば、ニイロドスだって同じように言う。
なのに、見えた。見えたと思った。
彼をかばうように立ちはだかったのは、死んだ友であると、確信を。
それは化け物の目にも映ったと見えた。巨人の槌が狙いに迷うように、揺らいだからだ。
充分な時間だった。
ジョリスは立ち上がり、再び剣をかまえた。
影はもう消えていた。
「感謝、する」
それが本当は何であったのか、彼に把握する術はない。もしかしたら偶然、崩れた噴水の影が巨人の槌の動きで人影のようなものを作り出しただけかもしれない。
たとえそうであったとしても、ジョリスには生き延びた。
状況は、先ほどと変わらなくとも。
いや――。
「化け物ッ、こっちだ!」
そのとき、声がした。
「ジョリス様から離れやがれっ」
ガン、という鈍い音は、生き物の、材質不明の靴らしきものを叩きつけた音だった。
「ちぇ、通らないか」
舌打ちして彼は化け物を見上げた。
「そうそう、こっちだ。こっちを見ろよ」
くるんと細剣を回して青年は口の端を上げた。
「獄界の魔物め。ナイリアールで暴れ回るなんざ、許さんからな!」
台詞は怒りを込めて発された。
「オルフィ」
声の主に気づくとジョリスは驚いた顔をしたが、どうしてだとか、危険だとか、無駄なことは口にしなかった。
「助太刀か。有難い」
そうとだけ彼は言った。
「えっ、あっ、いや、と、とんでもない」
啖呵を切った若者は、そこで目をしばたたいた。彼がこの場に間に合ったのはシレキの術のおかげであるのだし、颯爽と怪物を倒した訳でもない。感謝されるようなことはしていないと思った。
「むしろ、これからです」
彼は懐かしい剣の柄をしっかりと握り直した。
意外なことにと言うのか、「ヴィレドーン」の剣は畔の村に残っていた。長は当初こそオルフィに厳しいことを告げたが、彼が畔の村の住民――エクールの民であることを大事に思ってくれていたのだ。「裏切りの騎士」と呼ばれたヴィレドーンの行動が村を守るためであったことはよく知っていて、まるで形見のように彼の剣を取っておいてくれた。
いや、形見とは思っていなかっただろう。長は「オルフィ」の素性を知っていたのだ。
悪魔と湖神と大導師の力が混じり合った結果としての、「オルフィ」そして「カナト」の誕生についても、また。
長はいつか、彼にその剣が必要となることを知っていた。
だから、剣はきちんと手入れされており、再びそれを手にしたオルフィの手に、少し怖いくらいしっかりと馴染んだ。




