07 三年後
「いる、んですか。その、エク=ヴーの使役精霊、が」
ライノンはきょろきょろと見回した。
「そのように感じられた。はっきりとは判らない。立て続けに薬や術を受け、私の目がおかしくなっているのかもしれないが」
言いながら確信は持てなかった。彼はキエヴの民ではなく、教えも啓示も受けていないからだ。
「それでも私には、ヒューデアが遺したもののように思える。そしてそれは、彼が言っていたように警告を発してはいない。示す、と言うのでもないが」
彼はひとつ、うなずいた。
「話を続けてほしい。光の真偽はどうあれ、全て聞いて、そして判断しよう」
「あ、有難う、ございます」
目をしばたたいて、ライノンは礼を言った。
「詳しい話は避けますが、僕はある事情によって、もといた場所から切り離されました。僕はその地点に戻るべくいろいろな特異点を探しており、その経過でラバンネル術師と出会いました」
確かに判りにくいと言おうか、説明が足りない感じがした。だがジョリスは約束通り黙って聞いた。
「このナイリアンとラシアッドの件に、僕はラバンネル術師とは違う方向から関わっていたんですけれど、協力し合えるならそれに越したことはないので、至急相談をまとめました。つい先ほどです」
それはライノンが畔の村でアバスター――ミュロンと久しぶりの再会をしたあと、シレキの前に現れる前の短い間だった。その辺りのことはライノンは省略した。他意はなく、必要ないと判断したためだ。
「これを」
青年が次に取り出したのは、水晶のような石だった。
大きさは長い方に五ファイン、短い方に二ファインというところだろうか。ぱっと見には透明であるようなのだが、じっと見ているとさまざまな色に見えてくる。ジョリスは目がおかしくなったのかとまばたきをしたが、そうではないようだった。
「これは、とても特別な石で……僕らは〈時の石〉と呼んでいます」
「時の、石」
ジョリスは繰り返した。ライノンはうなずいた。
「これがあなたの、時間を……入れ換えます」
奇妙な言葉であった。誰だって、どういう意味だと尋ねるだろう。少なくともそれだけで理解はするまい。しかしジョリスは、ただ黙っていた。
「三年」
ぽつりとライノンは呟いた。
「三年、というのが僕の限度です。それ以上遠くすると不安定になって発動しないか、逆にものすごく近い距離で起きてしまうかもしれない。ラバンネル術師と話し合った結果です」
説明はまたしても明らかに足りなかった。だがジョリスは急かさず待った。
「――三年後のあなたから体力を引き出します」
その台詞は真顔で発された。
「もちろん、あなたが三年後に生きているという前提です。『生きている可能性』というのは当然ありますので、そこから引っ張ります。もしも、不吉なのであまり言いたくないですが、万一のことがあった場合、このやり方は破綻しますが、影響があるのは三年後です」
「おおよそは判った」
やはりどこか不足していると思える解説に、ジョリスは難なくついていった。
「三年後の私にこの不調が移る、その分、いまの私が全快する。そういう魔術か」
「厳密に言うと魔術とは違いますし、移ると言うのも少々違うんですが、極端に体力が失われるので同じ症状に陥ると言いますか、入れ替わるという感じでしょうか」
「そして私は少なくとも三年後まで、何としても生きなければならないということだな」
「はい」
こくりと青年はうなずいた。
「あの、それで、その後ですが」
ライノンは口を開きかけ、だが躊躇って閉ざし、ということを二度繰り返した。
「――三年後、体力を失った私はどうなるかということか」
青年が口を濁していることを思えば、答えは明らかでもあった。
「か、確実に決まってるとは言えません」
ジョリスが気づいていることに気づいて、ライノンは言った。
「無責任みたいですけど、どうなるか判らないっていうのが本当なんです。さ、最悪の可能性が、その、正直、いちばん大きいですけれど、絶対にそうなるって訳でもないはずで」
ぶんぶんと青年は両手と首を振った。
「貴殿は、命を賭けられるかと問うた。私はそれに返答した。もとより、既に死んだ『可能性』もあった身だ。三年の猶予があるのなら、それは神の情けとさえ思える」
真摯にジョリスは言った。
三年。
三年間という、時間。
いまのこの、一秒を争う事態にあれば、それはとても長い時間に思える。だが平和な日々に戻れば、あまりに短いと知るだろう。そのことは彼も判っていた。
だが、どうあろうとも。
「三年ではなく十日後とされたところで、迷うのは『十日で片が付いているか』『いま白光位の騎士が死ねばどこにどんな影響があるか』、懸念を抱くのはそうしたことだ」
「でも」
青年の方が迷っていた。
「本当に……最悪の事態も……有り得て」
「もう一度、申し上げる」
静かにジョリスは続けた。
「国を失えば、騎士は死ぬ」
「……判りました」
まるで青年は叱責されているかのようにうなだれた。
「籠手を……身につけて下さい。それを目印にします。えっと、引っ張ってくる先の、と言いますか、そういう感じのことです」
ぼそぼそと話す様子は乗り気でないかのように見えた。
「僕が……僕ならこういうことができるはずだと、ラバンネル術師の慧眼は本当に、ものすごく、とんでもなくすごいですし、あの人の助言のおかげで、僕もほぼ確実に実行できる自信がつきましたし、その」
それでも騎士が待ったのは、青年にこそ踏ん切りが必要なことが判っていたからだった。
死の覚悟を決めた者と、その死のあと押しをする者がいたならば、時に、後者の方が迷い悩むこともある。
「では、この、石を」
再び〈時の石〉を差し出した彼の手は震えていた。ジョリスはそっとそれを取り、軽く握った。
「ずっと、持っていて下さい。いえ、身につけていなくても大丈夫です。『所有している』ということが重要ですので、間違いなく三年後まであなたのものにしておいて下さい」
「判った」
短くジョリスは答えた。
「誓おう」
その誓いが何に――三年後の「最悪の可能性」につながるものとはっきり理解しながら、騎士は言った。
「祈って、います。全てが……いい方向に、行くように」
涙を浮かべながら言う青年に、〈白光の騎士〉は礼の言葉を返した。
そのときから、彼には力が戻った。
身体に力が満ちていた。ただ立ち上がり、ただ歩くだけのことに全力を傾けねばならぬほどのあの脱力感はない。魔術薬を使用したときのように、どこか不自然に火照ったり不意に冷めたりすることもない。
よく働いてよく休んだ翌日のような、気力も体力も充実した状態。
魔術薬による一時的な借り物でもない。いや、借り物は借り物なのかもしれないが、返却期限は三年後だ。
いったいどういう種類の力が働いたのか、それを分析するのは彼の役割ではない。落ち着いたらサクレンに任せてもいいし、調査は何も不要かもしれない。
乱暴に言うのなら、どうでもよかった。
経過がどうあれ、結果が望ましければ。
もとより、彼の快復はまだ結果とも言えない。それは手段につながっただけだ。
結果はこの先、産声を上げるのだ。
鐘の音が三度鳴ったとき、黒い炎とでも言うべきものがナイリアールに走った。それはハサレックの剣が発していたものによく似ていた。
明らかに邪で、自然ではないもの。
それらが目を疑うほどの勢いで北から東から西から南から、彼のいる場所に迫った。
誰もいない街路を細かく曲がりながら。
噴水のある、この静かな広場に。
二線の交わる、「中心」に。
「きたか!」
ジョリスは蒼玉のような目を細めて、素早く剣をかまえた。
何が起きるのか。剣で対抗できるようなことなのか。その必要はあるのか。何も判らないまま。
四隅から走ってきた炎は爆裂音を立てるとその中心で合わさり、黒い火柱となって高く燃え上がった。ジョリスは一歩退き、それをきつく見据えた。
炎だと感じるのに、熱くもなければ眩しくもない。
(何か、いる)
彼はその炎のなかに影を見て取った。
(――話に聞いた、化け物のようになった者たちのような)
人影のようでありながら、おかしなところが多々あった。
まず、大きい。二ラクト半はある。筋骨隆々と言うのもまだ足りないほど盛り上がった筋肉は醜悪にすら見える。不自然に大きな耳は鋭く尖っていた。何よりもぞっとするのは、かぎ爪のついた怖ろしい腕が四本あることだ。
「それ」はのろのろと動き出し、次第に炎も収束した。気の弱い者であれば既に気絶していても不思議ではないが、もう少し気丈な者であっても、あらわになったその姿に悲鳴を上げただろう。
その顔は、腐っていた。肉が溶け落ち、半ば以上、頭蓋骨が見えていた。だと言うのに両眼はぎょろりと動いており、すぐ近くにいる小さな騎士を見つけた。
「何と……」
〈白光の騎士〉でさえその姿、その不均衡に吐き気を覚えた。顔だけは腐乱死体のようだが、尋常ではないほど筋肉が発達した肉体は、絵師が戯画としてわざとらしいほど過剰に描いた戦士のよう。そしてやはり、うなるように振り回される四本の腕があまりにも人外めいている。
悪夢の顕現。そのようにも思えた。
だが、騎士は怯まなかった。
「私は、もっと酷い悪夢を見てきた」
ジョリス・オードナーは呟いた。
「お前が何者であるかは知らぬ。だが闇から生まれた邪なものであることは疑い得ない」
彼は化け物に対峙した。
「ナイリアールを蹂躙するつもりであるならば、この〈白光の騎士〉が相手だ」




