03 お守り下さい
街外れの者たちがおそるおそる外をのぞいたのは、聞き慣れぬ音が聞こえ出したからだった。
戦いの音、など普通の街びとは知らぬ。ただ、何やら物騒な気がするとは感じたかもしれない。
勇気を振り絞って様子を見に行った幾人かの男たちは、ぎょっとするものを目にすることとなった。それは悪魔が「魔業石」と言ったものを守らんとする化け物であり、そしてそれと戦う騎士だった。
状況は判らずとも、ナイリアンの騎士はナイリアンのために戦っているはずだということは確信できた。その場で声援を送るには白い影たちが――わずかに、黒っぽいものも――存在を主張しており、彼らはすぐに戻るしかなかった。
もっとも、家族やたまたま一緒に避難していた食事処の客たちに「騎士様が戦って下さっている」「もう大丈夫だ」と話すささやかな英雄の役どころは演じ、その声はさざなみのようにナイリアールの外周から内側へと伝わっていった。
しかしながら、まだ安心できる状況ではなく、ロズウィンドの目論見も奏功していた。
と言うのは、「こんなことになったのは呪いのせいだ」「若い王子が本当にこの事態を収拾できるのか」と、そうした声もまた同じさざなみに乗ったからだ。
事態が収まれば、そのようなことを口走った者も掌を返し、さすが王子様だ、騎士様だと讃えるだろう。だがまだ、判らないのだ。一刻どころか、一分先がどうなるものか、誰にも。
そう、一分先の運命は、剣を振るう騎士たちにも判らなかった。
相手が人間であれば、だいたいの技能は予測がつく。魔術師でもあれば別だが、彼らがこれまで捕らえてきた罪人のほとんどは山賊と言われる類で、なかには稀に彼らを苦しめる技術を持った者もいたが、ほとんどは単なる荒くれ者たちだ。彼ら自身が出るまでもなかったことが多い。
しかし、これは判らない。相手の得物は剣ですらない。街道の魔物にだってこうした形状の生き物はいない。いくらか似ているのは獣人辺りだが、それらは数も多くなく、騎士たちとて対峙したのは一度か二度だ。参考にはならなかった。
もとより、たとえ敵わない相手だと感じたところで引くことはできない。持てる力以上のものを引き出して、勝利しなければならない。
正午の鐘が鳴るまでに。
薄暗い風景は時間の感覚をなくした。マロナは焦り、剣技が粗くなった。ホルコスは萎縮し、本来の力を出せずにいた。ノイシャンタは冷静に戦っていたが、相手の能力が読めないことに不安を覚えていた。シザードは周辺の警戒を怠らぬようにしながら、胃の痛くなる思いで何かが起きるか、それとも起きないかを待っていた。
そうした――ときであった。
初めにそれを見つけたのは誰であったか。
少なくとも、東西南北で剣を振るっていた騎士たちではなかっただろう。
「あ、あれは……!?」
噂話を伝達しようとする勇気あるお調子者は口を開けた。
「何だ、いったい」
一時的に逃げ込んでいた店舗から何とか家族のもとに帰ろうとする夫は動悸を速めた。
「ば、化け物!」
白い影を撃退してやろうと手段もなく意気込んだ勇者志願の子供も、それを見て仰天した。
「――まさか」
二階の露台で、読み切れぬ星にやきもきしていた占い師は、驚きをあらわにした。
「エク=ヴー……どうして……!」
ナイリアールの上空に現れた大きな影。もしも人々が冷静にそれを見ていたなら「蛇のような姿だった」というのが一般的な感想になるだろう。と言っても、通常の蛇よりはずいぶん短いと感じる。手足のない長い姿がそう思わせるだけだ。
だが違う。これはエク=ヴーという生き物。
青緑色の身体は、薄暗いナイリアールでは実際よりも濃く暗く見えた。もっともピニアはエク=ヴーを目にしたことはなかったから、そのように感じることもなかった。
しかし、感じた。
あれが湖神であること、あとになってみれば不思議な――それとも当然の――ことに、彼女は何の疑いも抱かなかった。
神官のように祈りを捧げるしかできなかったピニアだが、まさか自分の祈りが届いたのだとは思わなかった。エク=ヴーに声を届かせることができるのは神子だけだというのは百も承知だ。
「リチェリンさんが……?」
しかしそれだけでは説明がつかなかった。湖神が何故、ナイリアールに現れたのか。彼女は推測できる材料もほとんど持ち合わせていなかった。
眼下の街に異常が起きていることは判っている。ぞっとするような波動が街中を包んでいる。獄界化という言葉こそ彼女の内には浮かばなかったが、悪魔の仕業ではないかとのことは推測できた。
だが彼女程度の魔力では何もできることなどない。
星も読めない。見えるものはあまりにも散り散りで、何の形も成さない。これは自分が未熟だからかと訝ったピニアだったが、たとえ全盛期のラバンネルが〈星読み〉の力を持っていたとしても、ここから何か読んで取ることはできなかっただろう。
それはただ、混沌と言うしかなかった。
明日も、一分先も、五十年先も、悪魔の戯れによって乱されていた。
「エク=ヴーよ」
〈はじまりの民〉の娘は無意識のうちに両手を組み合わせていた。
「救いにきて、下さったのですか……? でも、いったい何故」
湖神が「ナイリアール」を救う理由はない。彼女にはそう思えた。
「もしかしたら」
そこで、思い浮かんだことがあった。
「『誰か』を救いに」
エクール湖と関わりの深い誰か。それが誰であるかは判らない。自分だなどとは思わなかった。確かに彼女は苦しんでいたが、それはこの怪異とは何ら関係がない。
(でも、そうだとしても、誰を)
リチェリンというのがまず思いつくところだ。神子たる彼女がいまどこにいるのかピニアは知らない。次にはヒューデア。しかし――もう彼が救われることはない。
「つっ……」
不意に目の奥が痛んだ。彼女は両眼を押さえて露台の上にうずくまる。
「いま、のは」
何かが見えた。覚えのある人影。
それは、ふたり。
「オルフィさんと……あれは」
彼女は言葉を交わさなかった。彼女が見たのは、その「遺体」だけだった。
「あれは、カナト、さん?」
力ある占い師と言えども、その両者の「正体」を瞬時に掴むことなどはできなかった。ピニアはオルフィが――ヴィレドーンが湖の民であることも知らない。ましてやカナトのことは、気の毒な少年魔術師であるとしか。
だが、関わるのだと判った。理屈ではない、ただ判った。
彼らはこれらの出来事に深く関わる。
この怪異にと言うだけにとどまらない、もしかしたらこの半年の間ナイリアンに生じた全ての怖ろしい出来事に。
「湖神よ」
ピニアは少女の頃、湖に近くあった頃のように祈った。
「どうか罪なき人々をお守り下さい。たとえ湖の民と争った者たちの末裔であろうとも、彼らが罰されるようなことは何もないのですから」
まるで神女のような祈りではあったが、本心でもあった。
「リチェリンさん、オルフィさん、カナトさん」
知らずピニアは、この出来事の中枢に近い者たちの名を呼んだ。
「どうか、ご無事で」




