11 傑作だ
「心配しなくても、王子殿下は僕を信頼なんかしちゃいない。何しろ湖神と争わせるつもりでいるんだから」
「それでもかまわない、のだろう?」
「もちろん」
悪魔は気軽に答える。
「面白いことを考えてくれたもんだよね。おかげで僕も楽しませてもらってる。竜族と言えば僕らだって手を出しがたい存在だけど、そこから外れたエク=ヴーにまで干渉されるとは正直、思わなくて」
ニイロドスはいささかわざとらしいため息をついた。
「でも、エズフェムがいないいまとなってはいい遊び相手、持ち上げて言うなら好敵手みたいなもんだ。どう出てくるか、本当に楽しみだよ」
「向こうの出方、か」
ロズウィンドも考えるように言った。
「エク=ヴーは必ずやってくる。私に力を貸すだろう。だが、どのように、となればまだそれは判らない。それは私も、楽しみだ」
「――さて。そろそろ神殿が見えてくるね」
ニイロドスは街路の先を指した。
「貴殿は大丈夫なのか?」
片眉を上げてロズウィンドは尋ねた。
「聖域だろう」
「まあ、不愉快ではあるよ。用もないのに近寄ろうとは思わないね。でも人間が思うほど、影響力はない。言うなれば、羽虫がたくさん飛んでいてうざったい、みたいなものさ」
「それでも私に何かを見せるために行くというのは、なかなか興味深い」
「大したものじゃないよ。ちょっとした確認、ではあるけれど」
「思わせぶりなことを言う」
少し笑ってロズウィンドは先に立った。
「フィディアル神殿か。荘厳なものだな」
八大神殿のなかで最も力を持つとされるのがフィディアル神殿だ。「代表格」であるが故に信者が多い。となれば自然、寄進も集まり、外観の修繕等も積極的に行われる。八大神殿間である程度均衡を取ることになっているとは言え、フィディアル神殿が優先されることは不自然でも不公平でもないだろう。
結果、フィディアルの神殿はロズウィンドの言うように立派なものとなっていた。正面上部に大きく掲げられた印章は淀んで薄暗い空気のなかでもきらきら輝いているように見える。
「石そのもの、ではなさそうだな。特殊な塗料でも使っているのか」
別に尋ねるでもなく、彼は呟いた。
「だがそれより、目立つものがあるようだ」
彼は視線を下方に落とす。
「あの蔦は、装飾ではなさそうだが」
地面から神殿の壁を蔦のような植物が這い上っていた。それが意図的に育てたものでないことは、入り口に続く正面の石段にもみっしりと生えていることからも判った。
「……ふうん?」
ニイロドスはちらりとロズウィンドを見た。
「やっぱり、見えるのか」
「何だと?」
「クロシア氏に訊いてごらん」
悪魔は促し、ロズウィンドは言われるままにクロシアを見た。男は怪訝な表情を浮かべていた。
「蔦、と仰るのは、いったい……?」
「――お前には見えていないのか」
彼は目をしばたたいた。
「ではあれは、獄界の植物」
「植物、と言うのかどうかは定かじゃないね。まあ、魔物に近いんじゃない」
さらりと悪魔は言った。
「お気づきの通り、普通の人間には見えないはずなんだけれど」
「私は既に普通の人間ではない、と」
呟くように言ってロズウィンドはふっと笑った。
「それは傑作だ」
「心配しなくても、完全に人間から外れるということはないよ。血だって赤いはずだ」
くすっと悪魔が笑うのはハサレックのことを思い出してか。
「『はず』か」
「……ロズウィンド様」
低く、クロシアが主を呼んだ。
「いいんだ、ノイ」
ロズウィンドは片手を上げた。
「黒騎士の件、〈白光の騎士〉への冤罪や宮廷魔術師の反乱、王宮への侵入騒動に、それを防げなかったために招いた国王の死、そしてこの怪異……いまやナイリアン王家の信頼は地に落ちている。これらのほとんどは、ニイロドス殿の助力によって起こされた」
「ですが……」
「ふふ、クロシア氏は僕を斬りたいのかな? でも待った方がいいだろうね、助力者を捨てるのは用済みになってからと相場が決まっているよ。だいたい」
ニイロドスは余裕たっぷりだった。
「人間に僕を傷つけられないことくらい、王子様から聞いていると思うけれど」
返す言葉はないとばかりにクロシアは黙った。
「お前を失う訳にはいかない。ノイ、判ってくれ」
「ロズウィンド様……」
くっとクロシアは唇を結び、暗い瞳で悪魔を睨んだ。悪魔は薄く笑っていた。
「それで? 私に見せたかったものがこの蔦か。私に見えるかどうか、確認したかったと?」
「まあ、その辺りだね。君は確かに身体に僕の、いや、獄界の影響を受けている。実は少々意外なんだ。君とハサレックの契約は違ったんだから」
「ハサレック? 彼がどうかしたのか」
「君も見て取っただろう、あの黒き魔剣の力がどれだけ強いかは。あれを操る内に彼はヒトとは言えない存在になっていた。でも僕は騙した訳じゃない、きちんと話をしたよ。彼がどう取ったかは知らないけれどね」
「たとえば『人の道を捨てられるか』などと問われれば、心根の話かと思うかもしれないな。しかし」
もうひとりの契約者は肩をすくめた。
「それで言質を取られたのであれば、それは彼の失態だ。もとよりハサレック殿は、守るものなどなかった。貴殿との契約に最大限の注意を払う必要などなかったのかもしれない」
「守るものがなかった」
悪魔は口の端を上げた。
「そうだね。だから少々、つまらなかった」
「何?」
「いいや」
何でもないよとニイロドスは手を振った。ロズウィンドはそれをじっと見つめたが、特に何も尋ねなかった。
「ではあの蔦について問おうか。どんな役割が?」
「街を覆う陣がここに獄界に近い空気を作り出している。もちろん、僕らからしてみれば似ても似つかないけれど、君たちヒトからしてみれば通常からかけ離れているだろうということ」
「この淀みか」
「その通り。そしてあの『蔦』……ゴルドーズと呼ばれるんだけれども、あれは簡単に言えば『聖なるもの』を好む」
「好む?」
「食物として、とつけ加えればいいかな?」
「成程」
判ったようだとロズウィンドはうなずいた。
「陣の作り出した空気がその蔦を呼び、それは神殿の聖なる力を『食べて』いる」
「それで淀みが促進されているようだね。先ほどの黒い影然り」
「私も?」
片眉を上げてラシアッド王子は問うた。
「ゴルドーズ蔦が見える状態の私も、この空気の影響下か」
「どうだろうね」
ニイロドスは確答しなかった。恍けたのか、本当に判らないのかは掴めなかった。
「まあ、かまわない」
何度も言ったように王子は言った。
「私は私の望みさえ果たせれば、私のことなどどうでもいいのだから」
「殿下」
「そんな顔をするものじゃない、ノイ。何も自暴自棄になっている訳ではない。やるべきことはきちんと果たすとも」
「はは、彼は君が心配なのさ。悪魔の口車に乗ってとんでもないところまできてしまったんじゃないか、とね」
「引き返す気はない。ここがどこであろうとも」
「ここ、だって?」
「言うまでもなかろうが、ナイリアールという意味ではない」
「そう。……判っているのなら、いいんじゃないかな。つまり」
ニイロドスはクロシアに向けて片目をつむった。
「口出しは無用だよ、守り人君」
「……時が」
クロシアはニイロドスには答えなかった。
「移ります」
「そうだな。神殿での確認事項が終わったと言うのであれば、次へ行こう」
「次は?」
「無論」
彼は顔を上げた。建物の屋根の向こうに見える、それはこの首都のなかで最も大きな存在であった。
「ナイリアン王城へ」




