09 神様の、加護を
王国ナイリアンが首都、ナイリアール。
何も知らず、いつものようにそこを訪れようとする人々もたくさんいた。
しかし大きな隊商も、乗合馬車も、ひとり旅の吟遊詩人も、みな一様にその手前で歩みを止め、不安な面持ちをしていた。
「成程――ずいぶんといい光景になっている」
まるでそうしてやってきた内のひとりであるかのように興味深げに言ったのは、ラシアッド第一王子であった。
「出入りは制限したのだったな」
「自由に脱出させて、影響を広げるのもひとつの手だし、面白いけれど」
美しい青年の姿をした悪魔がその隣に姿を見せている。ニイロドスは何か思い出したようにくすっと笑った。
「今回は街だけに収める方が目的に向いているね」
「外には出られないと。なかには入れるのか?」
「門が開けば入れるんじゃない?」
ニイロドスは、そこだけ切り取れば当たり前のような返答をした。通常なら昼間は開いているはずの大門が閉ざされているのは遠目にも判る。
「――外部に兵を残しているところからすると、混乱に乗じた侵入を警戒しているかと思われます」
ノイ・クロシアは静かに言葉を発した。
「逃げ出したい人間もいるだろうに、閉じ込めるなんて酷いなあ……なんてね」
混乱の源である悪魔は、他人事のように言った。
「おそらく末端の判断だろう。だが確かに、侵入者を警戒する必要はあるだろうな」
「それは、君のような?」
からかう口調で悪魔は問うた。
「私よりも悪逆を成す連中さ。もとより、首都を襲いたがる賊集団など新生〈キゼーナ会〉くらいのものだろうが」
「『いま巧くいかないのは力がないからだ』ということと、『力があれば望みが叶う』を経過なしに一直線に結びつけるような人間は、とても扱いやすいけれど面白くない」
悪魔は唇を歪めた。
「だから使い魔にしてあげた。見た目は少々変わったけれど、望む力が手に入ったんだから彼らも本望だろう」
何とも簡単に、悪魔は言い放つ。
「でも思った以上に、不安と恐怖が顕現しているね。ふふ、この付近は好天なのに、あの街だけ曇ってでもいるみたいに影に覆われて」
「そうしたものを浄化できる神殿の機能を停止したということだったな」
「ああ、その通り。神殿というのは聖印の塊みたいなものだからね。信仰と祈りがその力を自ずと高めて自然の浄化作用に近いものを作り出すけれど、魔業石の封じがそれらを完全に退ける」
楽しげにニイロドスは笑みを見せた。
「街ひとつを影響下に置くようなことは久しぶりだよ。想定以上に巧く働いているようで何よりだ」
「死者の影だけではなく、街全体が異状だと目に見えて知らしめられるのはよいことだ。視力のある者になら誰にでも判る。それがなくなることも」
「怪異を解決して英雄に、というのは単純だけれど効果的だね」
くすりと悪魔は笑った。
「さあ、『忌まわしきナイリアン王家にかけられた呪い』を解きに行くかい、新王陛下?」
「正式に戴冠を済ませるまでは、まだ『次期国王』と言うべきだろうな」
「はは、厳密だね。そう言えば」
悪魔は首をかしげた。
「君がナイリアン国王を名乗りたいとは思わないけれど。新生王国はラシアッドということになるのかい?」
「ラシアッドというのは、始祖の名から取ったに過ぎぬからな。エクールという名を使うのが相応しいだろう」
特に重要な話でもないという調子でロズウィンドは返した。
「エクール国王か。悪くないね」
「そのままではいささか俗っぽいようでもある。だがそうしたことを考えるのは私よりもラスピーシュが適任だろうな」
「国名なんかどうでもいいって?」
「少なくともいま考えることでもない、というだけだ」
「これまでだって時間はあっただろうに」
「手に入る前の宝に名前を考えておくほど夢想的でもなかったようだ」
他人事のようにロズウィンドは肩をすくめた。
「ともあれ、少し街の様子を見ておこう。おそらく『彼ら』の話し合いにはまだ時間がかかるであろうから」
ふとロズウィンドは西方を向いた。一瞬で飛んできたエクール湖は、既に遠い。
「いいよ。つき合おう」
気軽にニイロドスは言い、ロズウィンドの隣を歩き出した。その一歩後ろにクロシアが続く。
「あ、あんたたち」
それに気づいた、義侠心のある――或いはとてつもなく鈍い――商人が驚いて声をかける。
「行くのかね? 街からやってきたもんの話じゃ、あのなかではとんでもないことが起きているらしいぞ」
やめた方がいい、というそれは実に的外れな忠告だった。
「これはまた、親切に」
ロズウィンドは人当たりのいい、穏やかな笑みを浮かべた。
「だが、どうしても行かなくてはならないのでね」
「そ、そうか」
ようやく何かを感じ取ったか、商人は気圧されたようだった。
「しかし、門は閉ざされているし……」
「何、方法はある」
どうにも気軽な様子でロズウィンドは答えた。
「そう、か。その……」
商人は言葉を探すようだった。
「神様の、加護を」
「有難く受けるとしよう」
笑んだままでロズウィンドは言った。商人が言うのは当然「神界神の加護」ということだったろうが、彼が待つのは湖神の加護だ。
もしも呑気な商人が彼らをそのまま見続けていたなら、彼らが幻のように消えてしまったことにぎょっとしたことだろう。
もっとも、彼は見ていたかもしれないし見ていなかったかもしれない。その場ではちょっとした騒動になったかもしれないが、ならなかったかもしれない。それは歴史の奔流のなかではあまりにささやかすぎて、小石を投げ込んだほどの影響もないことだった。
ともあれ――。
ロズウィンド・ウォスハー・ラシアッドは、その契約相手たる悪魔ニイロドスと、エクールの戦士ノイ・クロシアを傍らに、ナイリアールに足を踏み入れた。
城下街は、静まり出していた。
怪異がはじまって一刻ほどが過ぎるところであったが、その間に解決したことは――表立ってはもとより、裏でさえ――ほとんどなく、人々は建物内に隠れることしかできずにいた。
まるで雨をしのぐように。
おとなしく待っていれば、白い影たちは通り過ぎてくれるとでも思うように。
「不思議なものだな」
異国の王子は呟いた。
「この影たちは、いったい何を思って、もはや自らの属さない現世界をうろついているのか」
ゆらり、ゆらりとうごめく影たちはロズウィンドに恐怖こそもたらさなかったが、何かしらの感慨めいたものを呼び起こしたようだった。
「それは何かの冗談なのかな、王子殿下?」
悪魔は少しわざとらしく目を見開いた。
「君は判っているものと思うけれど?」




