05 昔話
「……人のことは、簡単に言えるものですよね」
ぼそりと少年は呟いた。
「あ?」
オルフィは口を開けた。
「過去に何があろうとオルフィはオルフィだ、と言って、あなたはうなずいてくれるんですか?」
「そ、それとこれとは」
「『それとこれとは違う』なんていうのは、なしですよ」
かぶせるように少年は言う。
「――俺は、俺だよ。ただ、『オルフィ』は許されても『ヴィレドーン』は許されるもんじゃないと」
「そりゃあ『ヴィレドーン』の罪を許せるのは僕じゃありません。でも」
「その話は、あとだ」
オルフィは遮った。
「まだ、終わってないんだから」
「……そうですね」
少年はうつむいた。
「オルフィ。言ってくれたことは嬉しかったんですけど、彼の言ったことは本当です。僕は……彼を守らないとなりません」
「待てよ。おかしいだろ、そんなのは」
「おかしくないんです。僕の『母』に当たる存在、つまり先代や先々代、これまでの『僕たち』が〈はじまりの地〉の奪還に動かなかったのは、それを望み、明確に要望してくる民がいなかったからというだけです。当時は……長老の犠牲に哀しみながらも戦いを続けたいと考える者はいませんでしたし……」
「当時、か」
ナイリアン建国の歴史。エクールの衰退の歴史。神話のようにさえ語られる遠い昔を十五に満たない少年が体験談として語る、不思議さ。オルフィは首を振って、その奇妙な感覚を振り払った。
(状況は違うし期間は短いけど、俺だって同じだよな)
十八の彼が三十年以上前のことを知る。規模も状況も違うが、奇妙なことであっても事実だと知っている。
「とにかく、リチェリンさん」
少年は再び神子に、守り人を連れるよう言った。
「え、ええ」
リチェリンはソシュランの手を取った。
「いえ、私は」
おそらく大丈夫だとでも言おうとしたのだろう。だが少年は首を振った。
「行って下さい。人間の薬できちんと治して下さい。あなたがこれからも、村を守るために」
そのように言われてはソシュランも肯んじるしかなかった。守り人はこれ以上ないほど丁重に頭を下げ、リチェリンの手を取り直し――それはもちろん「守る」ためであった――踵を返す。
「ちょ、ちょっと待って」
彼女は行く前に言っておかねばと振り向いた。
「か、勝手にどこかに行っちゃ駄目よ、ふたりとも! 私が戻ってくるまでそこにいなさい! いいわね!」
まるで「弟たち」、それも小さな子供が勝手に遊びに行かないようにといった調子でかけられた言葉にふたりは目をしばたたき、揃って苦笑を浮かべた。
「判ったよ、ここにいる」
「有難うございます、リチェリンさん」
少年は、リチェリンが彼を「カナト」として扱ったことに礼を言った。リチェリンもまた少し照れたような笑いを浮かべると、足早に湖を離れた。
「……さて」
それを見送って、少年は呟いた。
「でも、僕は、行かなくちゃならない」
「待てよ」
オルフィは顔をしかめた。
「よせよ。あいつに協力なんて」
「彼を悪魔から守らなくてはならない。それもまた、本当に思うことなんです。おそらく……」
少年は空を見上げた。
「あの悪魔は、かつてここを襲撃した際、エク=ヴーに力を散らされたのが悔しいんじゃないでしょうか。そんな感情があるのかは知りませんが」
「ある」
オルフィは言った。
「アレスディアに妨害されて、腹を立てていたみたいだった」
「あのときですか。……成程」
複雑な表情で少年はうなずいた。
「ではやはり、そうなのでしょう。あの悪魔は、僕を……湖神エク=ヴーという存在を完膚なきまでにうちのめしたい。二度目はないと。そのために、ロズウィンド王子の考えを知りながら手を貸しているんです」
「それって」
オルフィは目をきゅっと細めた。
「悪魔とロズウィンドの利害がたまたま一致したのか? それとも、悪魔の方が誘導して……」
ニイロドスがエク=ヴーに怒りを覚えたのが三十年前。だがロズウィンドが「啓示」を得たのは十年も前ではない。
「どうでしょう。悪魔の誘導によって奪還の望みを強めたのどえあれば、彼は操られていると言いますか、利用されてることになりますが」
「仮にそうだとしても、あいつは『かまわない』と言うんだろうな」
何も嫌味ではない。オルフィの言葉はロズウィンドの様子からの判断だった。
「利用されるのはカナト、お前じゃないか。なのに……」
契約。その言葉の意味は判っているのに、繰り言を口にしてしまう。オルフィは拳を握った。
「……あまり時間はないですが」
ぽつりと少年は言った。
「少しだけ、昔話をしましょうか」
「昔話……?」
「ええ。エク=ヴーのことです」
彼は湖を見やった。
「エク=ヴーというのは、ジェンサースと呼ばれる竜族と人間のあいのこなんです」
「……え」
突然の話にオルフィは目を見開いた。
「ジェンサース……〈空飛ぶ蛇〉って呼ばれる竜、だっけっか……?」
何度か耳にしているものの、どうにも身近な言葉ではない。そうですと少年はうなずいた。
「竜族は誇り高いですから、正しい周期に則らずに子を成すというのは考えられなくて。ましてや他種族と恋に落ちた挙げ句であっては、その、よろしくないと言いますか……詳細は省きますが……」
いくらか言いにくそうに少年は言った。誇り高い種族からすれば、性欲に支配されて行為を行うというのは「低俗である」と判断される、そうしたことだろうかとオルフィは推測した。
「エク=ヴーというのは竜族からすれば忌み子みたいなものです。ただ、殺されたり迫害されたりということはなくて、竜族から外れることや彼らよりも短い寿命、制限された力を課されました」
「え、ええと」
「言うなれば、エク=ヴーは堕落の象徴。彼らも暇ではないのでいちいち蔑んだりはしないですし、なかには人間への愛情という感情自体には理解の深い個体もいるんですが、基本的に、感情のままに人間と子を成すのは禁忌なんです」
「子を……待てよ」
そこでオルフィは気づいた。
「竜族ってのはさっきのお前みたいな姿なんだよな? どうやって、その」
「ええ。人の姿を取ることができます」
「わ、割とさらっと言うんだな」
竜という生き物など、「伝説のような」どころではない本当の伝説だ。かつては本当に生きていて、この空の上を飛び回っていたとされるが、その姿が見られなくなって久しい。
そしてオルフィはもとよりヴィレドーンだって、湖神を伝説の竜と結びつけたことはなかった。
理由は簡単。竜は未知の伝説で、湖神は身近な実存在だからだ。姿形が何かしらほかの存在と似ている、などと考えるのは外の者。湖神もまた未知の存在である者が客観的に比較して考えることだ。ミュロンが竜の眷属だろうと言ったように。
何にせよ、湖神は湖神。それがエクールの民の考えだった。一方で伝説の竜は彼らにも遠すぎる。「実は人になるんです」なんて、思いもよらない「物語」だ。
「あんまり知られていませんけれど、別にものすごい秘密って訳でもないみたいですし」
少年は気軽に言った。
「ただ、エク=ヴーは通常、人化できません。制限された力のひとつですね。僕のこれは」
彼は自分を指した。
「エク=ヴーの能力とは関係ないところからきてる超特例ですので、勘定に入れないで下さい」
「は、はあ」
「あ、すみません。この辺は別に、要らなかったです」
つい、と彼は謝り、謝らなくていいと若者はいつものように返した。
「こうしたことは、竜族側が女性体だったときにだけ起こるのですが……」
「えっ。男の方は、その、ヤってもいいってのか?」
思わずオルフィは尋ねた。
「いいと言うんじゃないです。ただ、彼らはとても強い生き物なので、子孫を残すことにそれほど積極的じゃない。必要がありませんからね。つまり……望むのは、人間側の男性ということに」
「そ、そうか」
少年は言いにくそうにし、オルフィは謝罪の仕草をしてしまった。
「それに、竜族側が男性ですと、その、ええと……人間である女性を死なせてしまうかもしれないので、愛情があればそれだけ、避けるかと思います」
こほんと少年は咳払いをした。ついオルフィも同様にする。こうした話題のやりづらさは判るからだ。
「要するに、竜族であった遠い昔の、こちらは仮に『曾祖母』とでもしましょうか、彼女が人間と恋をし、結ばれて産み落としたのが『祖母』」
「つまり、曾祖母が竜族で祖母がエク=ヴー……?」
考えながらオルフィが言えば、少年はうなずいた。
「そういうことです。もちろんこの『祖母』から『母』や僕までにはもっと何代、何十代と存在していますけれど」
簡潔にするために、と少年は肩をすくめた。




