01 お互い様
湖の上空に現れた、竜のような姿。
エクール湖の神、エク=ヴー。
もっとも、エク=ヴーというのは種族の名前のようなものだ。あの生き物をエク=ヴーと呼ぶのはオルフィを人間と呼ぶようなもの。
現在の湖神の名は――。
「カナト、君」
リチェリンもまた、笑みを見せた。
「やっぱりあなただったのね。あなたの声のような気がしたの。不思議にも思ったのだけれど」
「すみません。事情を説明できればよかったんですが、僕自身、何も覚えていなかったので」
上空からリチェリンの隣に降り立った少年は照れたように言った。
「あんな形で肉体の波動を失ったらどうなるか、誰にも判らなかったんです。僕にもですけれど、よく事情を知る人にも」
「それはアバスターとか、ラバンネルのことか」
オルフィが尋ねるように呟けば、少年はうなずいた。
「厳密に言えば、この身体は一度、確かに鼓動を止めました。でも一種の仮死状態って言うんでしょうか。幸か不幸か、エク=ヴーって人間より丈夫なんです」
「幸に決まってるだろ!」
オルフィは噛み付くように言った。
「俺、お前が死んだと思っ……」
「すみません」
「謝るなって!」
オルフィは叫ぶように言った。顔中で笑んでいた。
再びカナトと笑って話すことができるなんて!
思えば、先ほどまでいた過去の時間軸で話をした、あのときにどことなく予感があった。
最初は自分の思い込みか、そうでなければカナトが幽霊になってオルフィを案じるあまり憑いて――という表現も何だが――いたのか、などとも思ったが、その考えも違和感があった。
あの声はオルフィですら知らない事情を知っていたし、それに「カナト」であることをずっと認めなかった。
オルフィは間違いなく声がカナトであると思っていたが、同時に何か、人ならぬ存在なのではないかと。
そうして考えてみれば、カナトの「奇妙だった」部分は全てエクール湖とつながっていることに気づかざるを得なかった。
三年前の「母の形見」は湖神の守り符であった。エクール湖を訪れたときにカナトは何かしらの影響を受け、倒れるようなことになった。そして背中のしるしのことも。
カナトは神子か、もっとエク=ヴーに近いものだと、あらゆる事象が告げていた。
何より、思い出したオルフィ自身の過去が明確に告げていた。
あのとき、オルフィと名付けられた彼と、神子たるリチェリンと、そして生まれたばかりのエク=ヴーの化身たる赤子が共に村を離れた。
ほかでもない、あの赤子がカナトにしてエク=ヴーであったのだ、と。
「あの」
カナトはそっとオルフィを見上げた。
「いいんでしょうか」
「ん? 何がだよ?」
「ですから、僕……オルフィを騙していたつもりは、なかったんですけど……」
躊躇いがちに少年は言った。
「はは、そんなのお互い様だろ。俺だって覚えていなくて、お前に言えなかったことがたくさん、あるんだから――」
そこで彼の笑みは固まった。
「ヴィレドーン」のこと、カナトとは話せるように思うのに、リチェリンとはそうもいかないと思うのは何故なのだろうか。
「リチェリン、その、さ」
「お互い様ね」
彼女は両手を腰に当てた。
「私も、思い出せなかった。首都でカナト君を見ても何にも気づかなかったなんて、本当に神子なのかしら」
この言いようは、自分を神子だと認めたからこそ出てくる発言だった。
何も気づかなかったというのは本当だ。少なくとも表層ではと言うのか。オルフィと一緒にカナトがいてくれるということに慰めを覚えてはいたが、それは単に、彼がひとりではないからだと思っていた。
ただ深層では、知っていたのだろう。
カナトが――湖神がオルフィの近くにいるということ。カナトがこうして、オルフィに笑顔を取り戻してくれるだろうということ。
それは湖神としてだけではない、一緒にあの祠で「生まれた」、まるで兄弟のように。
「実に……」
低い声が彼らをぴくりとさせた。
「意外だ。驚きだ、と言おう」
「ロズウィンド」
オルフィは再び表情を引き締めた。
「湖神が人化する、など……どのような文献にもなかった。伝承にも」
「僕は、簡単に言ってもものすごく特例ですので」
少年は王子の方を向くと困ったように言った。
「文献になかったとか、伝承にはないとか、そういうことでしたら気にしなくていいと思います。つまり、伝わってきたことが間違いとか、極端に何か抜けてるということはないと思いますという意味です」
懇切丁寧に彼は説明した。
「はじめまして、ですね?」
「そのようですな」
ラシアッド第一王子は丁重な礼をした。
「我が名はロズウィンド・ウォスハー・ラシアッド――ラシアッド国の王子、次期国王にして、エクール湖の正統なる統治者の血筋を引く者であります。どうかお見知りおきを」
「ど、どうも……ご丁寧に」
少年は目をしばたたいた。
「おいおい、乗せられるなよ」
オルフィはその前に立った。
「丁寧な態度を取っちゃいるが、こいつはナイリアンを乗っ取ろうって大悪党なんだから」
「私が大悪党かどうかは歴史が決める。万一にもナイリアン国が残れば私は彼らの歴史書の一頁に悪人として記されるだろうが、そのようなことは起きない。我が名はエクールに栄光を取り戻した英雄王として末永く伝わっていく」
「馬鹿げてる」
は、と笑ってオルフィは一蹴した。
「そんなことが目的か。下らない、名声なんかが」
「いいや。私の名を残すことは、特に重要ではない。私自身が讃えられたい訳ではない。目的はエクールに栄光を取り戻す、それだけ」
「何を夢見ていたにせよ、諦めるんだな。湖神はあんたのために力を振るったりしない」
「何だって?」
ロズウィンドは驚いたように目を見開いた。
「どうにも、勘違いをしているようだな。私のためなどではないよ。全てはエクールの民のため。いまこの村に生きている者だけではない、かつての遠い争いの日から今日に至るまで、義憤を胸に抱いて死んでいったたくさんの者たちも含めて」
「そんなことを――」
「まずは、話をさせてもらえないかな?」
首をかしげてロズウィンドは言った。
「それとも問答無用で戦いをはじめると?」
「く……」
オルフィを野蛮な乱暴者のように言うことで優位に立つロズウィンドの詭弁に、オルフィは巧く反応を返せなかった。
「湖神よ」
その隙に、ロズウィンドは少年に向き直った。
「このように言葉を交わせるとは思わずにいた故、いささか戸惑うようだ」
少し笑みを浮かべる様子は、本当に戸惑い気味のように見えた。
「だが、まずは感謝する。道を示してくれたことに」
「道だって?」
オルフィは顔をしかめた。何を言い出したのかと。
「あれは、私が道を見失った日だった。ラシアッド王位を継ぐことにすら疑問を覚え、この湖へとやってきた」
ふっとラシアッド第一王子は目をつむった。
「そこで目にしたのだ。湖神が湖から静かに現れ出でる様を。あれだけの巨体なのに、ほとんど水音もしなかった。私は幻でも見ているのかと思ったくらいだ」
その言葉にオルフィはヴィレドーンの記憶を思い出していた。彼もまた、そんなふうに湖神が現れるところを目撃した。夕映えに青黒い鱗がきらめいて、何とも幻想的だった。
「そして、先ほどのように、湖神は宙に浮いた。まるで重さなどないように。とても不思議で美しく、荘厳だった。私は知った。自らの血筋がどんなに尊いものであるか。自らの迷いなどどんなにちっぽけで下らないことであったか」
オルフィもまた不思議な気持ちで、それを聞いた。
では、同じなのか。
ヴィレドーンが旅立ちの日に感じた啓示と同じものをロズウィンドもまた感じ取ったのか。
行けと。
進めと。
「あの……まずひとつ。それは『僕』じゃないと思います」
控えめにカナトは言った。
「母、と言うのも少し違うんですが、まあ、少なくとも先代とは言えます。彼女かと」
「それじゃ、お前の母さんの形見ってのはやっぱり」
「湖神」のもののことなのかとオルフィはカナトを見た。
「厳密には『母親の所有物だった』とは言えないと思いますけど、エク=ヴーたる存在に捧げんと作られたものですから、まあ、象徴的な意味で形見と言ってもいいんじゃないかと」
「何だよ、象徴的な形見って」
思わず彼は苦笑した。
「でも、嘘って訳でも、なかったか」
「嘘? どうして……ああ、成程」
少年は気づいた。
「『あの人』が邪心や悪意で僕らを騙すようなことはないと、オルフィだってよく判っているでしょうに」
「まあ、よく知ってるからこそ判らなくなったという複雑な感情もある訳で」
もごもごと彼は言い訳した。
「ともあれ、僕じゃないですが、『母』だってナイリアンを滅ぼして乗っ取ることに手を貸す約束なんてしていないと思います」
「約束は、ないと」
王子は呟き、くっと笑った。
「そんなことは判っているとも」
「え?」
カナトはきょとんとした。
「湖神よ。私は悪魔とのように契約をした覚えはない。そのようなことも言っていない。となれば無論、履行を強要もしない。ただ、道を示されたと述べただけだ」
「ですから、それだって――」
「勘違い、思い込み、だと? ふふ、たとえば北を示す道標は、北へ行く者をしか導かないだろうか」




