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アバスターの継承者  作者: 一枝 唯
第9話・最終話 栄光と正義 第1章

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14 おかえり

 (ガラサーン)の響きは、咆吼にも似た。

 嵐のなかから、彼は嵐のなかへ帰ってきた。

 厳密に言うのであれば、その時間はずれていたと言える。オルフィがあの時間軸で過ごしたのは丸一日にも満たないのに、こちらでは何日もが経っているからだ。

 果たしてその差が何かを生み出すものか、生み出すとしたらそれはよいものか悪いものか、それは判らない。まだ。

 いま判るのは、ただ。

「――遅れてごめん」

 オルフィはそっと彼女の肩に手を置いた。

「リチェリン」

「オ、オルフィ……!」

 彼女は驚きに目を見開いた。確かに、彼がいてくれることを強く望んだが、まさか叶うとは思っていなかったからだ。

「これはこれは。オルフィ殿か。思わぬときに思わぬご帰還だ」

 ロズウィンドが言った。

「どうなったのかな、ニイロドス殿。貴殿がおくれを取ったとは意外だが」

『ああ、それじゃ、あの時間軸から戻ってきたんだね』

 悪魔が苦々しげに言った。

『全く……気に入らない。今度こそ、君を後悔させてやらなくちゃならないな』

「おっとニイロドス殿。あまり遊ばないでほしいな。貴殿は私と契約しているのだからね」

 ラシアッド王子は薄く笑った。

「それじゃ、本当に」

 オルフィは顔をしかめた。

「優しそうな様子に騙されたよ。大した演者だな」

「何の」

 彼は首を振った。

「親友を背後から斬り殺した貴殿ほどではないさ、『裏切りの騎士』ヴィレドーン・セスタス殿」

 その呼びかけにオルフィはぴくりとし、リチェリンは目を見開いた。

「ヴィレドーン? 何ですって?」

「貴女がオルフィと呼ぶそこの男は、かつて〈漆黒の騎士〉だったヴィレドーンだということ。ふふ、意味が判らないという顔をしているね。三十年前の裏切り者が十八の若者のはずはないと」

「あ、当たり前、じゃないの」

 リチェリンは困惑した。

「だが、事実だ。それとも否定するかな、ヴィレドーン殿?」

「その名で呼ぶな。俺はオルフィだ」

 彼は顔をしかめた。

「かつては確かにその名を授かり、その名を名乗り……友と王を殺した。そのことはどうしたって否定できないが、な」

「オルフィ……? 何を言っているの……?」

「ごめん、リチェリン。本当なんだ」

 彼は彼女を見ないままで言った。

「俺が急に剣を使えるようになったこと、不審に思ってたろ? あれは籠手の力だけじゃない、ヴィレドーンだった頃の記憶を取り戻したせいなんだ。ただ、君と過ごした十四年間、嘘をついてた訳じゃないことだけは判ってくれ」

 淡々と彼は話した。

「俺自身、知らなかった。覚えていなかった。俺はただのオルフィとして君の傍にいて、君に恋をした」

 リチェリンは黙って、聞いた。

「いまはもう、俺はただのオルフィだとは言えない。内にヴィレドーンを持ってる。忠誠を誓った相手と、親友たる〈白光の騎士〉ファローを殺した」

「さあ、判ったかな、神子姫。湖神に頼って彼を呼び戻したところで、彼は救世主なんかじゃない。それどころか忌まわしき裏切り者……ナイリアンとこのエクール湖の危難をもたらした怖ろしい男だ」

 肩をすくめてロズウィンドは言い、オルフィは言い返せなかった。

「――……ず、ないわ」

 細く発されたリチェリンの声は震えていた。

 ヴィレドーンのはずはない、とでも言ったのだろうか。オルフィはそう思った。確かに、にわかには信じられないだろう。

「馬鹿にしないで! オルフィはそんな人じゃない!」

「……リチェリン」

「ははっ、優しくて頼もしい幼なじみという訳かな? だが彼自身も認めた通り」

「知らないわよ、そんなこと! 私が知ってるのは、オルフィのことだけ!」

 リチェリンの声は張り上げられた。

「馬鹿に、しないで。たとえどんな事情で、どんな不思議な術で、彼が三十年前の出来事を体験していたのであろうと……私にとってオルフィはオルフィよ。ええ、優しくて頼もしくて、大切な幼なじみ!」

「リチェリン……」

「救世主? 私はそんな人を呼ぼうとした訳じゃない。ただ、心細くて、いてほしかったの。いつも笑って、私を助けてくれる……大好きな、人に」

「――リチェ、リン?」

 オルフィは目をしばたたいたが、はっとして首を振った。生憎と言おうか、突然の答えに動じているときではない。

「でもそれは剣で守ってほしいとか、何だか判らない不思議な力で助けてほしいとか、そういうことじゃないの。臆病な私に勇気を……分けてほしいだけなの」

「それで?」

 ロズウィンドは感銘を受けた様子はなかった。

「勇気は分けてもらえたのかな? ならばもっと強く湖神を呼ぶがいい。できぬのであれば、悪魔の力の前に無力な人間がひとり増えただけのこと」

「何もできないとは、思わないな」

 オルフィはきゅっと唇を結び、その脅しに怯まなかった。

「ラバンネルが言っていた。あれは新しい時間軸の誕生だったと。未来は、どんなものだって存在する、生まれ得るんだ」

『知った口を利くね』

 悪魔は動じなかった。

『無数の時間軸……そのなかでどれだけ、君が僕の手に陥ちたものがあると思う? 形は様々、展開もいろいろだけれどね。君の望み通りに行くことなんて、文字通り、万にひとつもないんだよ?』

「でも、それなら」

 オルフィも動じなかった。

「皆無じゃない、ってことだ」

『あはは! 自分がどれだけ強運だと思っているんだい? 既にもう万にひとつ、いや、それよりもずっとわずかな可能性を一度掴み取ってしまった。二度はないよ、ヴィレドーン』

「オルフィだ」

 繰り返し、彼は言った。

「俺はオルフィだ。運が強いかなんて、そんなことは知らない。ただ――」

 ふっと心に蘇る言葉があった。

(拾い上げる、手)

 サクレンやカナトが言ったのだ。ぱっと手にした本の、ぱっと開いた頁が重要なことを知らせた。ただの偶然とも単なる運とも言える。だがオルフィには、そうした手があるのだと。

 そんなふうには思わなかった。偶然でなければ籠手の力だと。

 自分には特別なことなど何もないと。

 いまでも、自分が特別だなどとは思わない。しかし、決意もまた、あった。

「『そんなはずない』はもうやめた。諦めたと言ってもいいがな」

 オルフィは口の端を上げた。

「もし、そんな手が俺にあるのなら――」

 ぎゅうっと彼は左手の拳をこれでもかと強く握った。

「拾い上げてやる! 何度でも!」

 その瞬間だった。

 三度目の(ガラサーン)が響き渡ったかと思うと、奇妙にも大雨はぴたりとやんだ。そして厚い雲が魔法のように晴れていく。

 さあっ――と、エクール湖に太陽神(リィキア)の光が映った。

 それは幻想的な光景だった。

 眩い光に照らされた、青緑色の大きな身体。

 あの守り符の印象そのままに。

 細長い身体が宙をゆっくりとうねる。伝説の〈空飛ぶ蛇〉の眷属だと、ミュロンは言った。

 ああ、とオルフィは目を細めてそれを見た。

(帰って……きたのか)

 こんなふうに。

 こんな形で。

「おかえり、なんて言うのも、何だか変かな」

 彼は少し笑みを浮かべて呟いた。

「本当に、よかった」

 もう判っていた。彼には。

 あの日、この湖畔の村から彼とリチェリンと一緒に離れた赤子が誰であったか。

 ()であったか。

「エク=ヴーが」

「帰ってきた……」

 リチェリンやソシュランは呆然と呟き、クロシアはそれでも主を守らんとばかりに警戒を消さなかった。

「――湖神よ!」

 ロズウィンドは両手を上げた。

「そう、同じように、私も帰ってきた。かつてのエクールの栄光を取り戻すために!」

 エク=ヴーが緑色の瞳で彼をちらりと見たかのようだった。

「覚えているか……十四年前のあの日、私の前に現れ、道を示してくれた日のことを」

「何ですって」

 呟いたのはリチェリンだった。

「湖神が、道を示した?」

その通り(アレイス)。私の選択は私個人の野望ではない。エク=ヴーが望み、導いたものなのだ」

「そんな、馬鹿な」

 にわかには信じられなかった。

「幼きあの日、無邪気にも信じていたもの全てに裏切られたと知った少年の日の私に生きる目的をくれたのがエク=ヴーだった。もう一度、栄光を取り戻せと。彼の言う通り、それが私の正義だと教えてくれた」

「彼……誰の話をしているの?」

「ルアム、いや――貴女には関わりのないこと」

 王子は首を振った。

「もとより、彼ですら道標のひとつでしかなかった。私をこの地へ、この先へ連れるための」

「エク=ヴーがナイリアンの滅亡を願っているなんてあるはずがないわ。だって彼が、そんなことを考えていたようには」

「彼、だと」

 ロズウィンドはくすりと笑った。

「まるで知人か何かのように言うのだな? 神子ならばもう少し言いようがあるのではないか」

「神子かどうかなんて関係ないわ!……いいえ、私が神子であるのならば」

 彼女はキッとロズウィンドの背中を睨む。

「何度でも言うわ。エク=ヴーは決して、あなたに手を貸したりしない。そうでしょう?」

 彼女は上空にゆらゆらと佇む不思議な生き物を見上げた。

「だって――」

 だがそのとき、すっとその姿は消える。まるで光源をなくした影が消えるかの如く。

「感じる。大いなる力だ。私の力に」

「なる訳が、ない」

 じっと黙っていたオルフィはそこで息を吐いてはっきりと言った。

「何を勘違いしているのか知らないが。あいつがお前に道を示したなんてこと、あるもんか。お前の思い違いであることに、それこそ俺の魂を賭けたっていいね」

「何てこと、言うんです」

 諫めるような声がした。

「たとえ十割負けないと判っていたところで、そんなこと言っちゃ駄目です。いいですか、オルフィ。言霊っていうのはですね……」

「判った判った。俺が悪かったよ」

 笑ってオルフィは降参した。

「……やっぱり、おかえり、かな」

 本当に嬉しそうな笑みを浮かべたまま、オルフィは隣の少年を見た。

「そうなんじゃないかと思ってた」

「『判るべきとき』というやつでしょうか」

 照れたように少年は笑った。オルフィはその肩にそっと手を置いた。

「おかえり――カナト」


(第2章へつづく)


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